枕元で時間を知らせるスマートフォンに片手を伸ばして鳴り響くアラームを止める。アラームは忠実にやるべきことをこなしているだけではあるが、その音を喧しく感じてしまう。布団から出した手に触れたのは室内を満たす朝のひんやりとした空気だった。そういえば今日は昨日よりも朝晩の気温は下がると、寝る前に見た天気予報でお天気キャスターが言っていたのを思い出す。今日は長袖の方がいいかもしれない。
 こんな日はこのまま布団に包まれながら過ごしたくなるがそういう訳にもいかない。啓悟が身体に巻き付いている腕を静かに撫でた。隣から聞こえてくる穏やかな寝息は、燈矢がまだ夢の中にいることを物語っていて、起こさないように慎重に腕の中から抜け出してベッドを出た。床に落ちていた部屋着を拾い順番に身に纏っていく。ベッドの上で剥き出しになっている肩と背中には赤く細い線が何本か浮かんでいて、それを覆うように布団を掛け直した。枕に頬を寄せて丸くなるその寝姿はまるで猫のそれ。啓悟が寝室を出てその足でキッチンに向かう。今日は燈矢が休みで啓悟だけ講義がある日だ。今日のような日は先に起きた啓悟が二人分の朝食を準備する。未だに夢の中にいる彼が口にするのは、時計の長針も短針もてっぺんに到着する頃だろう。
 食パンを四枚、それからハムとチーズ、卵を冷蔵庫から取り出す。温めたフライパンで卵三つ分と少し多めに使ってスクランブルエッグを作り、三角形になるように切ったトーストの片面にハムとチーズ、スクランブルエッグを乗せてもう片面を重ねて具材を挟む。少し残していた溶き卵をパンの縁を一周するようにぐるりと塗って、ホットサンド専用のフライパンにバターを塗りパンをセットする。数分待てばホットサンドの完成だ。もう一つのサンドイッチは皿に乗せてラップを掛けて、伝言用にキッチンに置いてある猫のシルエット型の付箋に「焼いてから食べてください」と書いてラップに貼り付ける。電気ポットで湯を沸かしてインスタントのポタージュスープも準備して、皿とマグカップを手にリビングに移動した。「いただきます」と両手を合わせてからホットサンドを一口齧る。溶けたチーズが啓悟に食べられるのを待ち侘びていたかのように溢れ出て、思わず口元が緩んでしまう。とろけるタイプを使ったのは正解だった。多めに挟んだスクランブルエッグもハムも美味しい。ポタージュスープを一口含み寝室に目を向けた。こうして講義の時間が重ならないと時は一人で朝食を取ることも多い。それを寂しく感じてはいないし、ゆっくり眠れる時は眠って欲しいとも思う。ホットサンドの最後の一口を咀嚼して「ごちそうさま」と再び両手を合わせる。キッチンに戻り洗った皿とマグカップは水切りカゴに並べて身支度に取り掛かる。着替えの為に寝室に入ると身体の向きが変わっていた。近付いて顔を覗き込んでみると、啓悟が寝室を出た時と同じように左右の瞼は閉じたままで、起こさないように静かに身支度を済ませて忘れ物がないか最終確認。先週末に購入した新しいスニーカーに足を入れ「いってきます」とベッドで眠るその人に声を掛けて部屋を出た。
 出来るだけ身体を動かそうと決めている啓悟は階段を使って外に出た。不意に啓悟が上を見上げると見計らったかのようにカラカラおとベランダが開いて、寝癖がついたままの燈矢が寝室から顔を覗かせた。
「啓悟くん」
「ごめんなさい、起こしちゃいました?」
「大丈夫、目が覚めただけ」
 緩りとした動作で燈矢が咥えた煙草に火を点ける。唇から生まれる白い煙が朝の空気に溶けていった。太陽に光に透ける色素の薄い髪が綺麗だ。
「ホットサンド作ってあるんで、後で食べてください」
「ありがとう、昼ご飯にするよ」
「あと冷蔵庫に昨日の夜のサラダもあるんで、それも一緒に食べてもらえると嬉しいです」
「ん、りょーかい」
 言葉を繋げていると朝の少しひんやりとした空気が灰を満たす。今日は暑い、なんて言い合っていた新緑の季節から梅雨に向かって世界は急ぎ足になっているらしい。啓悟が見上げる先では燈矢が生み出す煙がぷかぷかと浮かんでは消えていく。腕時計で時刻を確認した啓悟はベランダを見上げながら片手を振った。
「それじゃあいってきます」
「気を付けてね、いってらっしゃい」
 煙草を持っていない方の手がひらりと揺れる。十分に余裕がある訳ではないが、普段乗っている電車には間に合うだろう。歩いている途中にポケットに入れたスマートフォンがピロンと鳴った。駅に到着してホームまで移動してから画面をタップしてトークアプリを開くと「夜はどこか食べに行こうか」の一文が届いていた。「行きたいです、食べたい物考えておきます」と打ち込んで送信をタップする。ポケットに戻した所でタイミングよく到着した電車に乗り込んだ。

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