燈矢と啓悟が出会ってから十年が立った。今も変わらずに燈矢の隣には啓悟が、啓悟の隣には燈矢がいる。
両手にマグカップを持った啓悟がベランダ前まで移動する。行儀が悪いとは分かってはいるが、足で軽く室内とベランダを隔てている窓をたたくと既にそちら側にいた燈矢が明けてくれた。燈矢の身体を包み込んでいる大判とタオルケットは先日二人で買いに行ったものだ。
「はい、燈矢さん」
「ん。ありがとね」
片方のマグカップを差し出して燈矢の隣に並ぶ。それぞれのマグカップに入っているのはブラックコーヒーとカフェラテ。奮発して少し高めのコーヒーメーカーを購入したのは先週末のことだ。こうしてベランダに出て二人でコーヒーを飲みながら話をするのはいつの間にか定番になっていた。見上げた先の夜空に浮かんでいるのは大きな満月。雲がほとんどない今夜は月の光が眩しいくらいだった。燈矢のマグカップの中には月が映り込み、絶対に手の届かない月に今だけは触れることが出来ているような感覚に陥る。
「啓悟くん」
「何ですか?」
カップの縁に唇を寄せていると不意に名前を呼ばれた。啓悟が燈矢に視軸を移すと、空いた腕でタオルケットを持ち上げてベランダの柵と自分の身体の間にスペースを開けた燈矢が「おいで」と誘う。その空間に移動をすれば燈矢の体温で温まったタオルケットに包み込まれ、背中に感じるのは燈矢の体温だった。肩に燈矢の額がぐりぐりと押し付けられる。毛先が首筋に触れて擽ったい。背中に燈矢の重みを感じながら、啓悟がもう一度マグカップに口を付けた。
「啓悟くんはあったかいね」
燈矢の腕に包まれているとぬくもりや安心感を全身で感じることが出来た。そのぬくもりに身を委ねていると背後で燈矢が動く気配がした。ベランダに置いてあるハイテーブルにカップを置いた燈矢が、啓悟の耳の裏側に唇を押し当てる。
「燈矢、さん」
「ん?」
「ん、じゃなくて」
ちゅ、と小さなリップ音と共に皮膚を啄む感覚。耳の後ろ、項と順に口付けられて啓悟は思わず首を竦ませた。燈矢はこうして唇を寄せるのが好きだった。これまでに何度も触れているはずなのに、未だに慣れないのはどうしてだろう。
「啓悟くん、見て」
「なん、ですか」
「月。綺麗だよ」
「……そ、こで、喋らんで」
耳裏に唇を押し当てられたまま言われても「ほんとだ、綺麗ですね」なんて見上げる余裕など啓悟にはない。唇が動く度に触れる吐息にカップを持つ手に力が籠る。燈矢は分かってやっているのだから質が悪い。
それでも振り払えないのは惚れた弱みというものか。
「……と、や、さん」
「ん、なに?」
「……顔、見たか」
聞こえるか聞こえないかの大きさで呟いたそれはどうやらしっかりと届いていたらしい。触れていた唇は離れて身体の向きを変えられる。背中にはベランダの柵。目の前には燈矢。カップは燈矢の手に攫われてテーブルの上に仲良く並べられた。月の光を受けて髪の隙間から覗いた燈矢のピアスがきらりと光る。再び燈矢の唇が耳元に触れる。零れ落ちた小さな声は夜に溶けていくけれど、その瞬間に啓悟も負けは決まった。目の前の身体に両腕を回して引き寄せる。
呼吸は唇に飲み込まれていった。
fin
top back melt
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