始まり


「気持ち悪い。」


俺はその時そう言ったあいつの顔を知らない。怖くてとてもじゃないが顔を上げることができなかった。蔑んだ目をしていたのか呆れていたのか引いていたのか、なんにしろ声から良い顔ではない事は分かっていた。事実あいつの口から発せられた言葉が全てを物語っていたのだから知る必要も無いのだろうし、二重にダメージを受ける余裕があの時の俺には無かった。



「……っくそ、久しぶりに見た。」

あの日から何度も繰り返して見る夢。寝起きはもちろん最悪で汗で張り付くシャツが気持ち悪くて仕方がない。耳からあの声がこびりついて離れない。折角の休みで穏やかに過ごせるはずだったのに。あの夢を見た日は一人でいるとろくな考えをしないことはこの3年間で嫌という程わかっていた。乾ききった喉を潤して一息ついて携帯を開く。こういう時に頼る相手はいつも決まっていた。

「もしもし進藤?今日暇?」



「今日はどしたん。」
「別に。暇だったから。」
「いつもの夢か〜。」

何てことの無いようにいうこの男は本当に見たままの人間だと思う。かるそうな顔と頭で軽く物を言ってしまう。なのに勉強の出来は良いらしいのだから腹が立つ。そもそも簡単に言ってくれるが当の本人としては気が滅入って仕方がないのをこの男は分かっているのだろうか。

「だって苗字が暇だからって言う時は大抵アレ関連で荒れてる時じゃん。」

進藤という男はやけに鋭くて的を射たことをよく言う。チャランポランのくせにこういう所があるのが悔しいと同時にそういう奴だからこそこういう時安心して会えるのは否定できない事実だった。

「何、まだ引きずってるわけ?」

行くあてもなく大きな通りを歩いて行く。俺たちの会話はこの人混みではお互いにしか聞こえず飲食店に入るよりもずっと話しやすかった。店の前を通るたび自分の興味が惹かれる物には視線を投げつつも買い物をする気分では無かった。それを進藤も察しているからか店に入ることは勧めず適当に歩く俺に合わせてくれているのだろう。

「そういうつもりは無いけど、アレじゃない。トラウマ的な。」
「的なってあなた自分のことでしょ。あとそれは一般的に引きずってると言う。」
「分かってたらわざわざお前を呼び出さないでしょ。」

嫌味を込めて言い方を真似てみると横にいた進藤は歩みを止めた。

「えっ、お前の友人達の中で唯一俺が選ばれたの光栄すぎない?」
「進藤きもい。ただ単にお前の場合は付き合い長いだけだから。」
「うんうん、その長い付き合いでお前のことを良く分かってるのが俺だもんな。」
「死んで。」

割と強めに進藤の肩を殴る。よろけた進藤は別段気にしていないらしくヘラヘラとしていた。いつものふざけた戯言を流す作業は俺を落ち着かせてくれる。いつも夢を見た後は進藤を呼び出して気を紛らわせてもらっていた。というのも夢の内容も夢を見る原因を知っているのも進藤だけで、中学からの付き合いである気心の知れて信用のおける友人は進藤しかいないからだ。

「進藤あのさー宮…」
「あ、堀さんだ。」
「は?」

俺の言葉を遮ってきたのは誰かを見つけたような声。そしてそれは聞き覚えのある名前であった。視線も少し離れた所にいる女子に向けられていた。俺が何かいう前に進藤の足は彼女に向けて進んでいた。慌てて追いかけると俺は近づく女子に見覚えがあった。

「おーい。堀さーん。」

振り返りこちらを向く顔はやはり隣のクラスの堀京子であった。彼女は自覚がなくとも学年では有名である部類だ。けれどそんな堀さんでも他校にまで名が知れ渡っているなんてことはないだろう。そんな彼女と進藤は一体どこで知り合ったのだろうか。同じ学校の俺でさえ話したことがないというのに。

「何、買い物?持とうか?」

しかし俺の考えは間違っていなかったようで馴れ馴れしく話しかける進藤に対し堀さんは困ったように笑っているだけだった。顔には、この人誰だっけ?と分かりやすく出ている。完全に置いてけぼりの俺と堀さんに進藤は一人でベラベラと喋っていた。助け舟にもならないが一応俺の存在も主張させていただきたい。

「ごめんね堀さん、こいつ馬鹿でさ。」
「え、えっと、あれ、苗字だっけ?」
「うん、苗字名前です。てか同じクラスにもなって無いのに名前覚えてもらってんだ俺。」
「隣のクラスよね?」
「そうだよ。」
「堀さんはこれからどっか行くの?」

本当進藤は空気読まないな。大方ワザとからかっているのだろうけど。ほら堀さん困ってるだろ。俺だって初めましてで何を喋れば良いか分からないし、そもそもやはり進藤が堀さんを知っている理由が分からない。この場をどう過ごせばいいのか2人で困惑していると目の前を黒が横切った。

「何をしてんだテメエは!」
「あ、宮村だー。そこで会っちゃってさー偶然…。」

スパーンと乾いた音が響く中俺と堀さんは呆然と立ち尽くすだけだった。

「痛い。」
「あの、大丈夫ですか。」
「うん…まだいい方。」

俺より立ち直りが早かった堀さんは進藤の心配をしていたが俺は今それどころではない。会いた口が塞がらず徐々に口の中は乾いていく。

「いや堀さん見つけて嬉しくて思わず声かけちゃったんだってー。」

懲りない進藤は変わらず宮村の神経を逆撫でするような事を言っているが俺には左から右に流れるだけだった。そんな俺を知ってか知らずか宮村の後ろからやってきた人は置いてけぼり同士の俺に近づいてきた。

「苗字?」
「…石川?何してんの?」
「宮村と買い物してたんだけど…。」

声をかけてきたのは一年の時同じクラスだった石川だった。ただ彼にも俺はこれといって接点がなく殆ど話すこともなく一年を終えていた。そして俺が今一番不可解なのは石川と宮村が一緒に居たことで、堀さんとも知り合いということ。

「ちょお〜俺たち昔からの親友だろお〜。堀さんに紹介くらいしてくれよ。」
「進藤、高2、元同級生、以上。」
「そんな…検索ワードみたいに…。」

自己紹介らしきものが始まっているらしく気付いた石川は慌てて堀さん達の元に駆け寄って行った。

「宮村〜…この人、知り合い?」
「え?ううん。」
「こっちは?」
「えっ、名前!?」
「……久しぶり。」

今更気づいたのかとか石川のこっち呼ばわりとか他にも色々言いたいことはあったがなんとか口は当たり障りのない事を発してくれる。

「宮村苗字と知り合いだったの?」
「……。」
「名前も同級生で…。」
「どうも宮村と苗字の親友の進藤です。2人のことなら何でも知ってます。」
「おおおおい!」
「寝言は寝て言え。」

俺と宮村のツッコミをものともせずに個人情報をばら撒くこいつは警察に差し出せば捕まえてもらえないだろうか。

「進藤…は高2ってことは17歳?」
「いやぁ…18歳。」
「バカだからさこいつ、本当のバカだから。」

石川の疑問も当然だった。さっき同級生と言っていたのに学年が1つ下とはどういうわけかと。まあ原因を知っている人間からしたら宮村の反応が妥当だと思う。

「仮にも八阪だぞー。」
「じゃあ何でその使える頭があるのに留年なんてしたんだろうな。」
「なー何でだろうなー。」

本当に進藤は一回解剖して貰えばいいのに。

「あっ、そろそろ帰らないと。」
「ごめんねバカのせいで時間取っちゃって。」
「あはは…。」
「家まで送るよ。」
「まだ明るいしいいわよ。せっかく会ったんだから話でもしたら?」
「えっ。」

堀さんの提案に宮村は分かりやすく動揺していた。それもそうだろう、宮村としては有難迷惑にも程があるのだ。だが俺にとっては都合がいい。色々と言いたいことが宮村にはある。堀さんの提案は有難く利用させてもらう。

「まだ時間あるだろ?いいじゃん、何か食べに行こうぜ。」
「し、進藤。」
「宮村ワックがいいって。」
「い、石川くん。」
「ん?俺も行きてえけど用あるから帰るな。」

宮村の顔には分かりやすく絶望と刻まれていた。この事に関して進藤が宮村の味方をしない事は分かっていた。石川も宮村のSOSには気付かない。

「じゃあまた学校で。」
「また明日。」
「またねー!」
「バイバイ。」
「ちょ、」

宮村をがっちり捕まえて離さない進藤と逃げたくて仕方が無さそうな宮村と共に2人を見送る。

「じゃ、行こうか。」

地獄へ。