前方に彼がいる。普段なら目視しただけで躊躇わず駆け寄るというのに今日はそんな気分になれなかった。無意識に歩みを止めていた足を一歩下げ体を反転させ元来た道をなぞる。
 逃げて、しまった。今まで彼から逃げたことなんて一度もない。寧ろ私が追い掛ける側だった。彼の背中を必死に追い掛け時折歩みを止めてくれる彼の優しさに心を弾ませていた。会話の中で踏み込めない一定の線引きをされていたのを感じ取っていたから当たり障りのない会話しかしていなかったが彼と話せるだけで心は充足していた。
 けどそのチャンスを今日、棒に振った。あの顔見せ以来に話せる日だったのに。最近忙しそうですね、という言葉を皮切りにそういえば王選候補者の顔見せ、私も見ましたよ! ラインハルトさん私がいたの気付いてくれましたー? なんて冗談交えつつお話出来るチャンスだったのに。
 嗚呼、でもこの選択が正しいのかもしれない。王選があるから忙しいことこの上ないだろうし、私なんかに時間を取らせるわけにもいかない。少し寂しいけど徐々に慣れていこう。元から彼は私なんかじゃ届かない雲の上のお方。剣聖、騎士の中の騎士、英雄、スーパーヒーロー──。
「何か悩み事かな?」
「──っ!?」
 突如降ってきた声に、声にならない悲鳴を上げばっと後ろを振り向くと待ち望んでいた彼がそこにいた。
 変わらない微笑みと真摯な双眸。嗚呼、いつ見ても麗しい……なんて現実逃避している場合じゃない。私の慎ましやかな逃走が何故バレた!? ラインハルトさんは私の姿を見ていないはず。背中に目でも付いているのか!? 怖い!
「生憎と僕の背中に目は付いていないよ」
「!!」
 もしかして口に出ていたかと呆気に取られる私に彼は、そりゃあもう見惚れてしまうような顔で揶揄い過ぎたかなと笑った。なんだ、冗談だったのか。やけにタイムリーだったから驚いた。
「久し振りだね、メイ。元気そうで何より。いつも話し掛けに来てくれる君が珍しく来ないものだから気になって話し掛けてしまったのだけど驚かせたようですまない」
「い、いえ大丈夫です」
 そう言葉を返しつつ私は心の中で歓喜に打ち振るえる。だって、あのラインハルトさんから話し掛けに来てくれた。今まではずっと私から話し掛けていたのに。これはどういう心境の変化なんだろう。否、きっと姿を見つけられる度飽き足らず話し掛けに来ていた顔見知りが今日に限って来ないから何かあったのかと純粋に心配しているだけだ。自惚れるな、私。
「なら良いんだ。……けど難しい顔をしている、僕に気付いて無視を決め込むのだから余程のことかな」
 私がラインハルトさんに気付いて回れ右したのが彼にバレている。あはは、と暑くもないのに汗が浮かぶのを誤魔化すように乾いた笑いを上げれば、その笑みを見た彼が不意に私の手を取った。
「へっ?」
「何かあるのなら相談くらい乗るよ。……おいで、此処で話をすると目立つ。二人きりになれる場所を知っているんだ」


 そう言われ連れ込まれたのが私とラインハルトさんが最初に会った、つまり不良に絡まれていた裏路地。日が差し込まず日中でも薄暗い路地に女の子を連れ込んで一体何が目的なの!? とふざけている場合じゃなかった。しかし、こんな馬鹿なことでも考えていないと握られた手が熱くて今にも発火してしまいそうな勢いであることを分かってほしい。手汗かいてないかな私、と握られた手に視線を落とせば黒い手套が私の手を覆っていて安心した。
 裏路地を歩いて数分。彼の止めた足に倣い私も歩みを止める。彼は私を壁際へ立たせるとその端正な顔立ちを此方へ向けた。
 百八十センチはあるだろうその長身の膝をすっと折り私に視線を合わせてくる彼は、それで何があったんだい? と優しく問い掛けてくる。嗚呼、やはり彼は優しい。私は彼に対して失礼な態度を取ってしまったというのに責めるわけでなくまずは理由を聞いてくる。
 今は、その優しさが痛かった。
 彼は誰に対しても分け隔てなく接する。騎士をお手本にしたような人、騎士の中の騎士。とても強くて、数多なる加護をその身に受ける方。王選候補者の騎士。私とは生きる世界が違う。
「……何でもありません。ただ、ラインハルトさんとはやっぱり生きる世界が違うんだなーって実感したところです」
 彼が優しい人だから。
 立場を気にせず親しげに接してくれるから、諦めず手を伸ばし続ければいずれ触れることが出来るんじゃないかと勘違いしていた。私が見ていたものは彼の幻影でしかない。触れようとしても彼の幻影は私の手をすり抜けただ前にある。どれだけ追い掛けようとしても決して縮まることのない距離。
 あの王選候補者の顔見せに現実を突き付けられた。
「なるほど」
 彼の澄み切った碧眼が悲しげに伏せられ長い睫毛がその双眸を隠すのを、私は魅入られたようにぼうと眺める。やはり、綺麗なお方。ラインハルトさんには相応の方が相手でないといけない。分かりきっていたことじゃないか。
「そ、それにラインハルトさんは王選候補者の騎士ですし! 今以上に忙しくなるでしょうからお邪魔してしまうのも気が引けるなって……今更な話ですけど」
「だから、いつも話し掛けに来ているのに止めたのかな。そうやって、君は僕から距離を置こうというのかい?」
 その問いに無言を貫く。無言は時に是と示すことを知っての行為だった。
 それにしても、彼に存外好意的に思われていることに素直に驚いている。てっきり会う度執着に絡まれる小娘、程度の認識しかされていないと思っていた。私が話し掛けに行かなくなっても、最近煩いのがいないな程度にしか思われないかと。彼の懐の深さに感動した。
 彼の質問に答えずとも私の意図を察したらしい。彼は一層悲愴に満ちた顔をすると短兵急に私の腕を掴み上げ壁へと縫い付ける。普段では想像も付かない、乱暴な動作に私は小さな呻き声を口腔で転がしてされるがまま背中を壁へぶつけた。
「ライ──……」
「君は」
 思わず呼んでしまった彼の名は、彼の声で遮られる。何が起こったのか分からず呆然と見上げると存外近い距離にある碧眼に硬直した。
 いや、確かに私は端正なかんばせを堪能していたかったと言ったが、美形が眼前にいると物凄く心臓に悪い。前回といい私に手厳しやしませんかね、神様。
「君だけは、他の人と違うと思っていた」
 ……買い被りすぎですよ。
 相手の言葉に心中で発する。彼の中で私はどう映っていたのか知らないが私は普通の町娘だ。他の人と違うだなんてどこをどう見ていたんだろう。
「君は僕を騎士でもない、英雄でもない、剣聖の二つ名に興味を持たない、純粋な僕を見ていた。君を暴漢から助けたあの日、君は助けた相手が剣聖ラインハルトだと知って驚いていたようだけれど、それだけだった。……他の人は僕自身ではなく僕の肩書きにしか興味を持たないからね」
 彼に伝心の加護があることを私は知らない。故に私は彼が何故、彼の背負うものに興味を持っていないのを知っているのか不思議でならなかった。
「……私を助けてくれたあの日。ラインハルトさんは仕事だからと仰ってましたけど本当は非番だったのでしょう? 後処理で休みを潰すことになっても私を見捨てず助けてくれました。あの日から私は、」
 貴方に懸想していると言おうとして口を噤む。立場を弁えろ、私。
「…………君はいやに物分かりが良い。だから、僕に話し掛けに来ても早々に打ち切ってしまう。僕がまだ時間に余裕があると言っても何かと理由を付けて立ち去るだろう? 僕はそれが寂しいと同時に好意的に思っているよ、次こそはと市中に来る度君の姿を探してしまう」
 見つけるのは君の方が早いけれどね、と肩を竦める彼に私は動揺を隠すことは出来なかった。
 なんだ、これは。ラインハルトさんが私のことを好意的に思っているどころの話ではない。思い上がりも甚だしいと思うがこんなことを言われてしまえばまるで、

あなたが共に居てくれたなら

AiNS