114...


 目を開けた瞬間、視界に映ったのはよく見知った天井で、自室のベッドの上にいるのだとなまえは意外なほど冷静にそう思っていた。とても懐かしくて、とても優しい夢を見た。いつもは無愛想で、怒ってばっかりだった降谷が真っ先に笑ってくれたときの、夢。あの笑顔に背中を押されて、なまえは絶対に監察医になろうと思った。そしてそれ以来、自分の選択がいつも最善だと不乱に信じきって。何かに悩んでいたかもしれない彼らに気づくこともなく、振り返ることすらしなかった。そう考えると、自分では彼らに「光」を与えたいだなんておこがましいことを思いながら、結局のところ、何も返せていないまま無駄に時間だけが過ぎ去ってしまったらしい。

 まだ夢見心地な感覚に襲われながらも、次第にこの状況を理解するように努めてみる。工藤邸の応接間で繰り広げられた、沖矢に扮した優作と安室の一騎打ち。それを弟のコナンと一緒にモニタリングしていた二階の一室で、その一部始終を見届けた後、必死になって堪えていた体調が極限まで悪くなってどうやらそのまま床に倒れ込んでしまったようだった。幼児化した弟では当然ひとりで運べないだろうから、一仕事を終えた優作がきっとここまで運んでくれたのだろう。おかげであんなにひどかった頭痛も嵐みたいにいつの間にか綺麗さっぱり消え去って、直前までの記憶だけが今も鮮明に残っている。いや、むしろ逆の方がよかったかもしれない。頭痛がそのままで、記憶の方が曖昧なら、まだ。じわじわじと痛みを取り戻すみたいに、この心が疼くことはなかった。

 最初からそうじゃないかと疑っていた通りに、安室と降谷はやはり同一人物であった。彼にどんな思惑があって安室という偽名を使い、頑なにその嘘をなまえにつき続けていたのかは知らない。けれど、その彼が純真な悪なのではなく、正義のために悪を偽っていたことを知って、馬鹿みたいに安心している自分もいる。

 ここからは単なる仮説になるが、おそらく降谷と景光はともに警察学校を卒業してから、希望していた刑事ではなく、それよりももっと上の、何か別の組織に配属されることになったのだろうと思った。そう思う理由は、長野で会った高明が言っていた「景光は数年前に警察を辞めた」という言葉に由来する。それも、まるで雲隠れするかのようにふたりとも一切の消息を絶ったことから、きっと配属されたのは公安部だ。そのあたりの内情には詳しくないので、調べてみないことにはわからないけれど。ともかく、公安に所属する人間は他人に自分がそうだと悟られてはいけないという話を聞いたこともあるし、それなら景光と降谷の過去を知りすぎているなまえをこれ以上近づけさせないために、不在中に部屋に忍び込み、まるで思い出ごと盗むみたいにアルバムだけを持ち去った理由にも説明がつく。

 考えれば考えるほど、一刻も早く降谷に会いたいという気持ちがうず高く嵩んでしまうことになまえは自分でもかなり困惑していた。今のままで会ってしまえば、自分があの場で彼のことをモニタリングしていたと暴露してしまうようなものかもしれない。だが、そんなことはもう度外視して、どうしても彼に会って話がしたかった。どうして消えたの? って。どこにいたの? って。いろいろ聞きたいことはあるけれど、まずは、まるで悪夢のような長いかくれんぼがようやく終わったかのように「見つけた」と言って、彼を強く抱きしめたい。きっと、そのときはまた大声で泣いてしまうだろうけれど、今はもう嘘をつかれていたことが悲しいんじゃなくて、無事でいてくれたことが何よりも嬉しいから。

 本当に馬鹿みたいだ。散々、騙されていたくせに、彼のことが全然嫌いになれていない自分が。本当に、心の底から、馬鹿みたい。

 枯れ果てるほど泣いたはずなのに、降谷のことを思うとまた懲りずに視界が滲みそうになる。けれど、その涙を制止したのは思っていたよりも傍で聞こえた、深くて低い声だった。



case114. 今はゆっくりとおやすみ


「おはよう。目が覚めたか?」

 なまえはその声に驚いて、思わずそちらへと視線を投げかけた。そこにいたのは、少し疲れた表情で力なく微笑んでいる、赤井秀一。彼女にとっての、初めての恋人になった男である。なまえが横たわっているベッドにずっと腰掛けていたはずのに、声をかけられるまで全然その存在に気づかなかった。

 違う、気づけなかったのだ。きっと、降谷のことばかりを考えていたせいで。なまえはそのことに少しの後ろめたさを感じる。


「しゅう、いち……」
「お前に意識はなかったかもしれないが、あのボウヤが躍起になって解熱剤を飲ませてくれたらしい。その様子だと、ちゃんとその薬も効いたらしいな」


 彼はそう言うと、まるで小さな子どもを褒めるみたいになまえの頭を優しく撫でてくれた。さすがにあの後、どこで監視されているかわからない分、この家に救急車を呼ぶこともできなかったから助かったよ、と。そう話す赤井の表情はどこか寂しげで、なまえはつい訝しんでしまう。どうして、秀一がそんな顔するのって。そう尋ねてみたいのに、怖くて。聞けなくて。結局、何も声が出せなかった。

 彼は軽く足を組み直して、なまえが倒れた後のことを詳しく話して聞かせてくれた。高熱により倒れた愛娘を部屋に運んだ優作はその後すぐに夜の便でアメリカに発ち、逆にマカデミー賞の会場を抜け出した有希子が、今まさに彼と入れ違いに日本へ向かっている飛行機の中らしい。明日の午前中には着くだろうと時計を見ながら彼はそう言い、そしてあのボウヤなら博士の家で今頃眠っているさ、と笑ってつけ加える。自宅でもあるこの家にコナンが泊まらなかった理由は、安室の正体を知って憔悴しきっているなまえを赤井に任せてふたりきりにしようという配慮からだったが、その赤井が帰宅するまではずっと傍で甲斐甲斐しいほどに看病してくれていたらしく、冷却シートの類や枕の上の溶けた氷嚢も、きっと小さな彼が必死になって準備してくれたのだろう。

 つられるようになまえも彼とともに時計を見やった。外が真っ暗なので薄々気づいていたが、短針は二と三の間を指し示していて、今が深い夜であることを改めて知る。赤井が何時にここへ帰ってきたのかは知らないが、来葉峠から尾行を巻きながら帰ってきた彼が疲れた顔をしているのも当然だとして、なんとか先ほどの彼の表情の理由をなまえは自分自身に納得させていた。

 けれど、なまえにはまだいくつか赤井に聞きたいことがあった。それはもちろん、この度の決戦の相手だった安室透。いや、降谷零に関することである。


「ねえ、秀一は知ってたんでしょう? 彼が、私の大事な友達だったってこと」
「……」
「前にこの部屋に入って、私のアルバムを探してたことがあったじゃない? あれって零の顔を確認するためだったんじゃないかと思って……」


 なまえがそう言うと、赤井はさすがは察しのいい女だなとうっすらと目を細めて感心していた。その利口さを時折恐ろしく思うこともあるが、だからこそ自分は彼女に強く惹かれてしまったのだとも思う。

 赤井は愛しい恋人のことをそんな風に見つめながら、もう隠せないとして白状するように素直にその問いを肯定した。


「ああ。黙っていて悪かったな」
「ううん。どう言ったらいいのかわからなかったと思うし、結局アルバムも手元になくて確証もなかっただろうから。たぶん言わない方が正解だったんだよ」
「……そうか」


 なまえは寂しそうに笑いながらも、当然のごとく彼を許した。赤井に非はない。それも一ミリも。


「彼はやっぱり公安の人間、なのかな?」
「そうだな。『ゼロ』はこの国で存在しない組織であれという思いを込めてつけられた公安警察の俗称。ボウヤの前でその名に過敏に反応してしまったことが、このピンチを切り抜けるための実に大きなヒントにもなった。それはもちろん、あの男の本名を知ることにも」
「……零は友達から『ゼロ』って呼ばれていたから」


 その友達とは、もちろん降谷にとっての唯一無二の幼馴染である景光のことだった。きっと彼も同じく、そのゼロという名の俗称を持つ、公安警察に所属しているに違いない。人一倍の正義漢だった彼が、慕っていたはずの兄にも本当のことを言わずに自ら警察を辞めたとは思えないから。

 急にズキリとした痛みが胸に走って、なまえはとっさに固く拳を握り締めた。ねえ、そうでしょう、ヒロ? 公安にいるんだよね? 心の中でそう呼びかけた記憶の中の親友は、思い出す度にいつも底抜けに明るい顔をしている。


「それで、話って何だった?」
「……」
「来葉峠に行く前に、秀一、言ってたでしょう? 『無事に帰ってきたら、聞いて欲しい話がある』って」


 無事に帰ってきてくれたから、今、聞かせてよ。そうして空元気のまま、なまえは恋人らしく彼に甘えてせがんでみせた。嫌なフラグばかりを立てて行ってしまったせいで、モニタリング中でもずっと右耳のインカムにすがりつくように彼の身を案じ続けていた。だが、それも結局、自分の取り越し苦労。あんなにも窮地に追い詰められていたはずなのに、彼はかすり傷ひとつ負わずに無事にこの家に帰ってきた。当然その手には、完全なる勝利を掴んで。

 そんな恋人の愛らしい言動に、赤井は頬を緩ませてふっと優しく笑う。そして、なまえの左頬に手を伸ばし、親指で何度もなぞるように往復しながら愛しむみたいにそこを撫で上げた。それからつつと輪郭をなぞって次第にその手を下ろしていき、彼女の細い髪の間を縫って左の首筋に優しく触れる。

 そこはもう透き通る陶器のように滑らかで、真っ白な肌のはずなのに。彼の目には、あの日、安室につけられた赤い痕が今もそこで浮かび上がる刺青のように、永遠に残り続けているみたいに見えていた。


「お前のここに、あの男が宣戦布告を意味する赤い痕をつけたとき。実を言うと俺は、らしくもなく逆上するくらい怒りに震えて、誰にも渡すもんかと、自分でも困惑するほどの独占欲を剥き出しにしてそう思っていたんだ。だから、その宣戦布告を正面から受け取るとも言ったし、そして今でも俺は、奴との戦いには完全に勝ったと思っている」
「……」
「でも、今日ここに帰ってきて、なまえの可愛い寝顔を見ていたら改めて思ったよ。本当の意味で、俺は負けたのかもしれないとな」


 なまえには、彼が突然、何を言っているのかよくわからなかった。どうしてこの寝顔を見て、彼が負けを感じる必要があるのだろう。むしろのんきに眠ってなんかいる恋人のことを指差して笑いながら、その平和を手放しで喜べばいいはずなのに。

 けれど、赤井はやはり喜べない。その脳裏に、先ほどまで眠っていたなまえの寝顔を思い出していたから。

 もし、赤井が見たのが彼女の寝顔だけだったのなら、その勝利を余すところなく味わうみたいに深く噛み締めることもできていたのかもしれない。けれど、なまえは眠っている間中、ずっとうわ言のように彼の名を呼び続けていたのだ。零、と。それも、傍目に見ているだけでこちらの胸が詰まってしまうくらい、切なくて、愛しそうな声で。何度も。それほどまで彼女の記憶に巣食い続ける降谷零という人物に、勝ったはずの赤井が劣等感を抱くのは当然だった。

 正直に言えば、羨ましかったのだと思う。そこまで想われ続けている彼が。散々、嘘をついて、彼女にひどいことをしていたくせに、何ひとつ嫌われることもなかった、彼が。

 そして赤井には、まだ彼女に告げられていないことがひとつだけあった。それは、来葉峠で彼が降谷に電話で謝罪した、唯一の負い目のこと。

 かつて組織の中で「スコッチ」と呼ばれ、公安警察からの潜入捜査官であることがバレて自殺を選んでしまった、あの男のこと。その人物こそ、バーボンとの決戦前に、なまえが大切に持っていた写真を見て気づいてしまった、彼らのもうひとりの大切な友人だったのだ。

 その写真を見てしまったからこそ、赤井の心境には大きな変化があった。同じく潜入捜査官だった自分になら彼の自殺を思い止まらせることもできたはずなのに、背後に迫ってくる足音に気を取られた隙に、目の前で心臓に弾丸を撃ち込んで彼は自ら死を選んだ。掴めたはずの手から、まるでこぼれ落ちていくかのように。赤井はその命を救ってやることができなかったのだ。

 その真実を知ったときのなまえの気持ちを思うだけで、本当にいたたまれない気分に苛まれる。そして少なからずそのときは、彼女は赤井を軽蔑することだろう。親友を助けられなかったひとりの男として。あの、降谷零と同じように。

 だからこそ、赤井は決戦の前に彼女に話があると意味深にも告げたのだ。スコッチという男の弔いのためにも、何もかもを失った降谷零と自分が、再びフラットな状態で同じ戦場に立つために。


「なまえ」
「?」


 赤井は心が引き裂かれそうになりながらも、自分が決めたことを遂行するためにわずかに深く息を吸い込む。そして、しっかりと彼女との視線を交わらせて、この決戦が終わったら絶対に言おうと思っていた通りの言葉をまっすぐに向き合って告げるのだ。


「別れよう、俺たち」
「!?」
「お前自身に、もう一度、時間をかけて選んで欲しいんだ。奴か、俺か。そのどちらかを」


 あまりに想定していなかった別れの言葉に、なまえは完全に思考を停止させる。まるで頭を鈍器で殴られたかのような衝撃が走り、言葉も出ない。

 赤井は目を細めて、再び優しくなまえの頭を撫でた。今は、ゆっくりとおやすみ。そう言って、部屋から立ち去る赤井の後ろ姿をなまえはまるで他の世界のことのように遠く見つめる。本当は追いかけた方がいいのだと思う。けれど、今しがた恋人ではなくなってしまった彼のことを、なまえはもう追いかける資格がない。

 赤井と過ごした日々。じゃれ合うような毎日も。笑い合ったあの日も。口を聞かないくらい大喧嘩をしたことも。こちらに至らない点なんて山ほどあったはずなのに、いつだって彼は全身全霊でこんなにも馬鹿な自分を愛してくれた。いつも安心をくれた。それがいつの間にか愛しい生活の一部になって、勝手に永遠に続くとばかり思っていた。それが今、急になくなって。この世にたったひとりぼっちになってしまったかのような感覚に苛まれ、途端に孤独が怖くなる。

 けれど、なまえは馬鹿だから、赤井に別れを告げられてもなお、同じくらいに降谷と過ごした日々のこともたくさん思い出してしまうのだった。景光とともに、レモンスカッシュみたいな甘酸っぱい日々を送っていた高校時代のことも。安室として再会した後のことも。そして、その彼を、胸が焦がれるくらい本気で好きになってしまったことも。

 なんてどっちつかずなんだろう。これじゃあまるで、ひどい女のそれだ。赤井のことを傷つけて、降谷のこともきっとたくさん悩ませて同じくらい傷つけていた。何もかもが申し訳なくて、こんな自分はもう、ひとりきりでいることが正しいんじゃないかと思う。

 けれど、なまえは光を見過ぎてしまった。今はもう、頭が狂ってしまいそうになるほど、孤独の沼に身を浸すことがこんなにも怖い。


「ヒロ……、私、どうしよう……うっ、ううっ……」


 まるで助けを求めるようにもうひとりの親友である景光の名前を呼びながら、彼女の悲しい慟哭がいつまでも夜半の部屋に響く。

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