113...


 それは、高校二年の修了式の日のことだった。明日から始まる春休みが明けたら、いよいよ揃って最終学年の三年生。通っている高校が割に進学校ということもあって、同学年のほぼ全員が二年の夏の段階で自分の進路を決めており、この春休みも自主的に予備校に通う生徒がほとんどである。

 そしてそれは、降谷と景光も例外ではなく。彼らは以前からふたり一緒に進学する大学を決めていて、それに向けて予備校の春期講習の申し込み手続きも既に仲よく済ませていた。もちろん、彼らの大事なヒロインでもあるなまえのことも何度かその講習に来てみないかと誘ったのだが、何だかんだと理由をつけて結局は断られてしまう始末。まあ現に、普段の定期テストのときから降谷と張り合うレベルであったなまえの学力なら、どんな大学を選んでも今のままで十分かもしれないが。ふたりはそんな風に納得して、あまりにしつこく彼女のことを誘うのはもう諦めていたのである。

 しかし、彼女が断っていた本当の理由は、何も自分の学力に自信があったからではない。かなり早い段階から進路を決めている彼らと違って、長らくなまえ自身には「なりたい夢」というものがなかったからである。

 なまえは一度、降谷と景光の輪に入ってしまえば普通なのではあるが、依然として学校では少し浮いた存在であることに変わりなかった。他に友達がいないというわけでもないし、特にいじめられているというわけでもない。けれど、彼女自身が意図せず周りとは一線を画すような、近づきがたい雰囲気を自然とその身にまとわせていたのである。無論、そんなオーラが出ていることなど、当の本人は一切、気づいていないらしいのだが、ひとりでいることがなぜかとてつもなく似合ってしまうことは事実で。そんな彼女であるからこそ、同じく学校を代表する秀才の降谷と、その幼馴染の景光とだけは不思議なくらいに波長があった。それはまさしく、彼らの運命だったのだ。

 話を戻そう。ともかくなまえは利口であるはずなのに、その存在はどこまでも異端であった。故に、学校に提出しなければならない自分自身の進路についても二年の修了式を迎えた今でもまだ白紙のまま。そんなだから先生たちからは早く希望の大学を決めるようにとせっつかされて、それもできるだけ上のランクを目指すようにという大きな期待もかけられていたのである。しかし、それでも一向に石のごとく動かないなまえに対し、教師一同は隠れてふつふつとその業を煮やし続けていたのであった。

 見かねた彼女の担任がある日、直々に優作と有希子を呼び出して、臨時的な三者面談を行ったことがあった。しかし、なまえのことを優秀だと褒めながら一方で過度な期待をかけ続ける担任に対して、一刀両断するように優作が言い放ったのはたった一言。「娘がなりたいものを自分で決められるまで、どうか暖かく見守ってやってください」と。彼女を手元に引き取ってから、いつの間にか世界的大作家にまで成長しようとしていた年若い男に年配教師が言い負かされて。それ以降はもう誰も説得を諦めてしまい、この学年で唯一、進路が決められていないということを、彼女はずっと黙認されていたのである。

 だが、だからと言ってなまえ自身、本当に何も考えていないというわけではなかった。むしろ、彼女なりに時間をかけて熟考していたからこそ、その結論に行き着くまでに膨大な時間を必要としてしまったのである。

 孤児院育ちで夢を持ったことのないなまえが、この先もずっと手放したくないと思った、唯一のもの。それはもちろん、両親の次に生きるということを教えてくれた降谷と景光の存在であり、だからこそなまえは時間をかけて、三人でずっと一緒にいられる方法を考え続けていたのであった。

 そしてようやくその夢を形にしようと決心がついたのは、本当にごく最近の話。今日はその夢を、先生に言うよりも先になまえは自らの口で彼らに報告しようと思っていたのである。



case113. 三人でずっと一緒にいられる方法を


 見上げた夕焼けが、燃えるように赤かった。

 学年が上がって受験生になってしまう前に、まるで遊び修めのごとく音楽室でひとしきり騒いだ後。無駄に寄り道を繰り返しながら歩いていた三人は、もはや彼らのトレードマークになってしまった揃いのレモンスカッシュを片手に下校している最中であった。なまえは降谷と景光の一歩後ろをとぼとぼとと歩いて、話を切り出すタイミングを必死になって伺い続けている。

 明日からの春休みでまたしばらく会えない分、今日、絶対に言わなくちゃ。なまえは数日前から、まるで自分に強いるようにそう思い続けていた。自分の、初めての夢を。ずっと失いたくないふたりに。


「なあ、ヒロ。講座いつからだった?」
「うわっ、急にそんな現実的な話する? ……確か、明後日からだったと思うけど。そんなに楽しみか?」
「なわけないだろ、僕も気が重いよ」


 まあ、せめて予備校になまえがいれば、気持ちも少し違うんだろうけど、と。本当は、降谷はそう言いたくて。でも、言えなくて。ただ恨めしそうな目でちらりと背後にいる彼女のことを見ては、わざとらしく盛大なため息をついた。いや、ここはポジティブに考えるとしよう。他校の男子に、なまえのことを知られなくてよかった。じゃないと、自分が見ていないうちに手を出されるんじゃないかと思うと気が気じゃないし。勉強どころじゃなくなって、こちらがそいつに社会の厳しさとやらを先に教えてしまいそうだ。

 一方。普段ならそういうことには驚くほど察しの悪いなまえでも今の降谷の視線には珍しく気づいていて、一瞬、その肩をびくりとさせていた。そして、きっと予備校に行かないと言ったことを彼は未だに根に持っているのだ、と思うや否や、途端にしょげる。正直、自分が立てた目標を成し遂げるためには、彼らと同じ予備校に通っている暇もないほどなのだが、それはまだ夢を告げられていない今の段階では言えやしない。だからこそ、いっそう気を取り直して、はやる気持ちで「今すぐ言わなきゃ」と改めて強く思うのだった。

 しかし、そんなふたりの空気に全然気づいていない景光が、降谷が渋って言えなかったことをさらりと代わりに言ってのけてしまう。しかも、いつもながらの、彼らしい底抜けの明るさを伴って。


「なまえも予備校にいたら毎日会えるから、オレたちの気も重くならずに済んだかもしれないのになー?」


 そう言って、彼が満面の笑みで視線を上げる。やはりその空は、途方もなく赤い。

 自分が言えなかった意見をやすやすと言ってしまう彼の率直さを、降谷は相変わらず心の底から羨ましく思っていた。だが、なまえはその後ろで少し違った風に彼の発言を捉える。景光が話すきっかけを作ってくれた、と。夢を語るなら今、切り出すしかないんじゃないか、と。

 なまえが自分の進むべき道をずっと決めかねていた理由は、自分が養子であるという自覚にもあった。いくら優作と有希子のことを本当の両親と思っているとはいえ、あまり費用的なことで迷惑をかけるのは避けたい。彼らの本当の息子である、弟の新一の学費だってあることだ。なら、選ぶのは「就職」かと問われれば、進学と天秤にかけているなんて言うだけ教師から大目玉を食らうことはわかっている。いや、別に怒られることが嫌なわけじゃない。けれど、就職という選択も、自分の中でずっとどこか違うなと感じていたのだった。

 なまえには、ずっとなりたいものがなかった。それは孤児として、優作に出会うまで諦める生活ばかりを送ってきたせいなのかもしれない。しかし、それを急に親を得たからと言って、貪欲になることもできないでいた。

 そもそも、わからなかったのだ。夢とか希望とか。光とか。

 けれど、それを教えてくれたのがこの高校で出会って、自分なんかと友達になってくれた他でもない彼らの存在だった。だから、今度は、自分が教えてもらったその「光」を彼らに与えられてあげられるような立派な人になりたい。それが今の、なまえの夢だ。


「あのね、ちょっと、聞いて欲しいことがあるんだけど」


 前を行くふたりの背中に呼びかけた彼女の声は、不恰好にも少し上ずっていた。しかし、仲よく肩を並べていた彼らを呼び止めるには十分すぎて、むしろその改まった神妙さに驚かせてしまう。


「どうした? なまえ」
「何かあったのか?」


 そうやって、いつも優しく手を差し伸べるように言ってくれる彼らに対し、なまえは思わず胸が詰まる。けれど、不恰好に声を上ずったままでもいい。とにかく、今、言わなくちゃ。そう思って、ようやく彼らをまっすぐ見据えてその口を開いた。


「私ね、ヒロと零と三人でずっと一緒にいられる方法、やっと思いついたんだ」


 すると、その発言に先に嬉しそうに反応したのは景光の方であった。なぜなら、高二の春。彼女に対して自分たちが警察官を目指していると話したのは彼の方で、彼女の「三人でずっと一緒にいられる方法」という言葉から、いよいよなまえも決心がついて、自分たちと同じ道を辿るつもりなのかと早合点したからである。


「えっ、じゃあ! もしかしてなまえもオレたちと一緒に警察に……!?」
「ううん。警察官、じゃないんだけど……」
「……」
「私も最初はふたりと同じようにって思ったけど、夢ってたぶんそういう風に決めるものじゃないよね? 誰かと同じは確かに安心するけど、自分の中にヒロや零ほどはっきりとした正義を持っていない私が、警察官なんてなるべき職業じゃないと思うし……それに、本気でなりたいと思ってるふたりに対して、それじゃあまりにも失礼だと思うから」


 親友であるふたりはその言葉を聞いて、ただただ言葉を失くしていた。そんなことはない。なまえも十分優しくて、悪を憎む正義感がある。警察官に向いているかと言われれば怪しいところもあるが、彼女ならきっと責任を持ってやっていけるだろうし、何より自分たちがずっと傍でサポートもしてやれる。だから、自分のことをそんな風に卑下したりする必要はどこにもない。

 ふたりはそう思ったが、それを言う前になまえが先に言葉を続けた。それも突然、その口から出てきたのは、一見すると、彼女の進路とは何の関係もなさそうな友人たちふたりの「名前」に関する話題である。


「私ね、実はふたりの名前を初めて聞いたときからずっと綺麗だなって思ってたことがあるんだ。ほら、ヒロの名前って『景色が光る』って書いて景光でしょ? で、零はヒロからゼロって呼ばれてるけど、レイって『R・A・Y』で一筋の光のことだよなあって」
「……」
「つまり、ふたりにはそれぞれ光があるんだなって」


 なまえはそう言って、わずかに目を細める。その目はまるで本物の光を見つめるような眩しい目をしていて。彼らはそんな彼女があまりにも美しいことに息を飲み、そしてその言葉の続きを静かに待つ。


「だから、私たちの中で唯一『光』を持っていない私が、ふたりの『光』になれたら素敵だなって」


 そう言うと、なまえは一瞬、ぎゅっと胸に手を当てて祈るように鼓動の高鳴りを抑えた。そして、再びぱっと見上げたその顔は。夕日のせいなどではなく、初めて誰かに夢を語ることへの緊張と期待で、頬を赤く染めてキラキラと輝いていたのだった。


「私、監察医になろうと思うの。そしたらふたりが刑事になって真実を解き明かすための『光』を与えられるような手助けができるでしょ? 私はホームズにはなれないけど、ヒロと零にとってのワトソンみたいなお医者さんにならなれるかもしれないと思って……だからっ……」
「いいんじゃないか」
「え……?」
「いい夢だなって言ったんだ、僕は」


 即答だった。降谷はなまえが話し終わるよりも先に、いつもはあまり見せてくれない優しい微笑みを素直に浮かべ、その澄んだ瞳でじっと彼女のことを見据えながらまるで褒めるみたいにそう言ってくれたのである。誰かに夢を語ることが不安でしかなかったなまえには、それが何よりも心強くて。なぜ今まで話すのを渋っていたのだろうと思うほど安堵して、とっさに少しだけ目の奥が熱くなった。

 数秒遅れて、いつも優しい表情の景光もそれに続く。


「オレも。なまえらしい、いい夢だと思うよ」
「それより、僕はなまえの進路がやっと決まって安心したよ。なまえのクラスの担任から『大学の推薦状どこでも出すから早く工藤に言ってくれ』って会う度に言われてたんだぞ」
「えっ」
「まあ、これで堂々とその仕事は負わなくてよくなったみたいだけどな」


 そう言うと、降谷は後方で立ち止まっていたなまえを、ちょいちょいとそのしなやかな指の先で呼ぶ。すると、なまえは途端に嬉しそうな顔をして。ふたりの間に駆けて入ってくるのが、彼らには何よりも愛おしい。


「で、大学はどこに?」
「アメリカ! 父さんに相談したら、すぐにロス市警の友達に電話して聞いてくれたみたいで。難関だけど奨学金制度も充実してるし、そこが一番だって教えてくれたからもう決めたの! メリーランドにある医大なんだけど」


 しかし、それを聞いた瞬間、今まで散々彼女の夢を一緒になって喜んでいたはずの降谷の時がピタリと止まる。なぜなら、てっきり彼女が通うのは、この美しい日本という国にある大学だとばかり思っていたからだ。


「……は? アメリカ?」
「え、だめ?」
「いや、だめ、じゃ、ないけど……」
「大丈夫! 働くのは日本だからちゃんと帰ってくるよ」
「当たり前だろ!? なまえに帰って来てもらわなきゃ僕が困っ……!」
「? なんで零が困るの?」
「……さあ。自分で考えれば」
「えー……?」


 横暴だなあ……。そう嘆きながら、自分の横に並んで歩き始めたなまえに対して、今日の夕焼けが赤くて本当によかったと降谷は思う。そりゃ、困るだろ。お前のことを幸せにするのはこの世界で僕だけだってずっと馬鹿みたいに信じてるんだから。降谷はそう思い、じっとりとした目つきでなまえのことを睨む。だから早く、こっちを向いて。僕だけのものになって。

 そう悶々と悩む降谷に対し、友人ふたりにようやく夢を打ち明けられたことで気分が弾んでいたなまえは、自然と口数も多くなってその幸せを噛み締めていた。そして、真っ先に背中を押してくれた降谷に対し、改めて心からの笑顔でお礼を口にする。


「零、ありがとうね。いい夢だって言ってくれて」
「……」
「零のことも、ヒロのことも。私、本当に大好き!」
「なまえ……」
「ずっと三人で一緒にいようね!」


 約束だよ! と、そう言って。小指を立てて笑う彼女のことを降谷はずっと忘れないだろう。なぜならそれが彼女の口から初めて聞いた自分への「大好き」という言葉だったから。

 そう。大好きだった。三人とも。甘酸っぱくて幸せな、レモンスカッシュみたいなこの日々が。全員が永遠を信じて止まなかったのだ。その数年後には、まるでその炭酸が抜けてしまうかのように、幸せがなくなってしまうことなど誰も知らずに。

 静かに一歩下がった彼らの後ろで、景光だけはわずかに浮かない顔をして赤い空をいつまでも見上げていた。今後のそれぞれの運命など、当然、彼らはまだ誰も知らない。

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