02...
その孤児院は東京近郊の山間にあって、工藤なまえは十二歳になるまでそこで過ごした。正確に言えば、そのときはまだ「工藤」ではなく、下の名である「なまえ」も、幼い頃に自分を捨てた親につけられた呪いのように感じられて愛着が湧かず、自己肯定感が持てずに彼女は変わり者として浮いていた。無口で内向的。感情に乏しく、まるで凍ったように笑わない。施設の図書館に朝から晩まで入り浸り、誰とも話さずに本を読んで一日が終わる。そういう生活を送りながら日ごと成長し、ついには蔵書すべてを読み切ってしまうほどの秀才に育った。
特に気に入ったのはコナン・ドイルのシャーロックホームズシリーズ。天才的な観察眼と推理力に圧倒され、どの話も繰り返し読むほど気に入った。故に、施設にあるドイルの本はどれも劣化が進み、見かねた施設長がシリーズすべてを刷新したとき、その日のなまえの機嫌は最高潮だったと女性職員は嬉しげに眼鏡の若い男に語る。
「ですから取材とは言え、ミステリー作家の工藤先生が当施設に来たのも何かのご縁です。是非、彼女に会ってやってください。先生の闇の男爵も、すごく気に入っているようなので」
「それは是非」
小説家・工藤優作は新作のミステリーを書くための取材として、偶然、その孤児院を訪れていた。記録としてとっていたメモの端に、職員から聞いた「なまえ」という名前をなんとなく書き加えて丸で囲む。想像の中で、今も息をしている小説の登場人物。そのモデルになるかもしれないなと、そのときはそんなことを考えていたのだ。
案内するという職員の後を追うように施設の中を歩き始めた優作は、すれ違う少年少女たちにされた挨拶をにこやかに返しながら先に進んだ。最近、結婚した妻、有希子のお腹には早くも命が宿っており、ここにいる少年少女に重ねてしまうことは必至だ。そして、先程聞いたなまえという少女の親のように、最後まで、責務を果たさずに我が子を手放すことは決してしまいと誓う。まるで反面教師のようにして、その子には申し訳ないが。
「ここが図書室です」
前を行く職員がそう言ったので、優作は静かに頷いた。あの子いるかしら、という間延びした言葉とともに、開かれた簡素な扉。解き放たれたような古書の匂いに愛しさを感じると、窓際に小さな人影がひとつ。
優作はそこで息を飲んだ。
「ああ、いたわね。なまえ!」
少女は物憂げにこちらを見て、そして興味がないと言いたげに再び本の中に入っていってしまった。苦笑いを浮かべる職員をよそに、優作は少女の傍に吸い寄せられるように駆け寄って行く。
口を真一文字に結んだままの少女は、不安そうに見知らぬ男を見て首をかしげた。
「……誰?」
その質問に、優作は跪いて答える。
何を言うかはもう、何年も前から決まっていたことのように感じられた。
「私の名前は工藤優作。君の、お父さんになりにきたんだよ」
少女はたいそう驚いて、本の上に置いていた手を思わず離した。風を含んだレースのカーテンが踊り、ページがめくれてどこまで読んでいたかわからなくなる。
その本のタイトルはコナン・ドイルの『緋色の研究』。言わずと知れた、ホームズの最初の物語だった。
後にこの出来事を、優作は「必然だった」と語った。なまえがなまえという名を与えられて捨てられるように孤児院に入ったことも。ホームズを愛読していたことも。あの日、光射す窓際で、はじまりの物語である『緋色の研究』を読んでいたことも。
すべてはなまえが工藤家に引き取られるための、必然だったと彼は語ったのだ。
そして同時に優作は「決して君を手放すことはしない」と少女に約束した。なぜならなまえはその日から、自分の大切な娘になったからだ。

case02. 沖矢昴とはじまりの物語
工藤邸一番の自慢でもある書斎の整理をしようとしているときに、うっかりホームズに手を伸ばしたら最後。まるで癖のように時間も忘れて読みあさってしまうことが頻繁にあって、それが工藤なまえの休日の過ごし方の最たるものになっていた。東都監察医務院において施設開設以来、最年少で、しかも女性。アメリカ帰りの秀才麗人は、実はあまり片づけが得意ではないという残念な性質を持っているということを、おそらく誰も知らないだろう。
「明日、蘭ちゃんが片づけに来てくれるって言ってたけど……」
そう独りごちながら、ようやく読みきった『緋色の研究』を書棚に返し、うんと背伸びをしてリビングへと移動する。暗い部屋で読んでいたせいか目がちかちかして、なまえは思わず目をこすった。
新一とふたり暮らしをしていたときもそうだったが、弟のガールフレンドである毛利蘭はよく片づけや掃除を手伝ってくれていて、その名残で今も定期的に部屋の掃除に来てくれている。なまえはそのたびに、得意料理であるレモンパイを焼いて待っているのだが、生憎、今日はそれを焼く時間も残っていないほど読書に時間を割いてしまったらしい。どこかで美味しいケーキを調達して来るかと考えあぐねていると、おもむろに玄関の扉が開く音がした。
「新ちゃん?」
工藤邸の部屋の鍵を持っているのはなまえ以外に、蘭と、アメリカに住む両親。そして弟の新一だけである。両親が帰る予定は特に聞いていないし、蘭が連絡もなしに家に入って来ることはないため、後者だと推理して出迎えに行けば、そこには確かに小さくなった弟と、ひとりの知らない男が立っていた。
「あ。えっと、なまえ姉ちゃんこれは……!」
「……どちら様でしょうか?」
なまえの質問に、コナンよりも先に男が口を開く。
「これはこれは、お美しい。あなたが『新一兄ちゃん』のお姉さんですね」
その明らかに胡散臭い発言に二の句を詰めながら、なまえはとっさに目線を下げて、年の離れすぎた弟を睨む。コナンは焦って取り繕いながら、長身の彼について紹介し始めた。
「あ、なまえ姉ちゃん! こちらは沖矢昴さん。東都大学の大学院生なんだって。じ、実はおうちが火事にあって住むところがなくなっちゃったから、ここに住めばいいじゃないかって、新一兄ちゃんが……」
「ここに?」
「ほら、なまえ姉ちゃん、アメリカでルームシェアしてたって言ってたし!」
ええ、でも同性同士でね。と、つけ加えたくなるのを抑えて、今一度、沖矢と紹介された男の顔を見つめた。整った顔立ちに、糸目。優しく笑みを作る口元。不審に思うほど柔和な印象を受ける男性だ。なまえは過去の男友達たちと重ねてみようとしたが、その似ても似つかなさに不毛な行動をやめる。自分の知る男性とはもっと粗暴なものだった、ような。
「あの。やはり、女性と同じ屋根の下というのはいくら何でも抵抗があるのではないでしょうか? 弟さんは構わないとおっしゃるかも知れませんが、一番は、今ここに住んでいる家主のあなたがお決めになることですし」
至極まともなことを言う彼に、なまえは逆に好感を持った。ある意味、非常識な弟よりずっと常識があると思う。
にしても気になるのは、新一がこの「沖矢」という人物をここに住まわせることをまるで勧めているように見える点だった。黒ずくめの組織との繋がりなども考えて、なるべく正体のわからない人間と接点を持つのは避けて置いた方が無難であるはずなのに。
それとも、あの推理オタクがお墨つきを与えるほどの安心できる人なのか。なまえはひとまずそう合点して、改めて沖矢に声をかける。
「私は構いませんよ。部屋数も多くて、使っていない部屋もあるので」
「本当ですか」
「ただし、干渉するのはやめましょう。お互いに」
それだけです、と、あえて冷たい言い方にしたのは、まだ彼を信頼できる人間かどうか判断する材料がないからだった。コナンもそれを理解してか、黙って行く末を見守っている。火事で家を失ったのはさすがに災難だし、いざとなれば昔、「彼」に教えてもらった護身術で自分の身くらいは守れる。……隣人の博士も、灰原哀も。
「ええ、当然です。居候の身になるわけですし、あなたの生活に一切の干渉はしません」
「じゃあ、よろしく」
「ええ。こちらこそ」
アメリカ式の軽い握手の後、一件落着とばかりに帰宅するコナンをふたりで見送って玄関を閉めた。にしても、この家に自分以外の人がいるというのは、なまえにとってかなり久しぶりの感覚だった。それが新一ならともかく、まだよく知りもしない男性だなんて。
「なまえさん」
「え?」
「と、お呼びしても?」
沖矢は言う。断る理由も特にないので頷けば、食事は自分が作るから一緒に食べようと明るく続けてきた。なぜか、何かが引っかかる。
ポケットに入れていた携帯電話が、一件のメールを受信する。
“突然悪かったな、なまえ。でもまだ、彼に新一のことは伏せておいてくれ”
その意味は、彼女にはよくわからないままだった。