03...
翌朝。工藤邸の二階にある自室にてなまえがベッドから這い出ると、下階から何やら賑やかな音が聞こえて来たため、驚いて反射的に身構えた。黒ずくめの組織か。もしくは、空き巣という線もある。相手の人数さえどうにか把握できれば、すぐにでもこちらの出方で対応できるかもしれない。とりあえず警察に連絡を……。
しかし、すぐに階段のところから顔をのぞかせた男に、一瞬で見覚えを抱いて安堵した。そういえば、昨日から気ままなひとり暮らしは終わったのだっけ。
「なまえさん、おはようございます」
朝食を作ったのでよかったら、と同居人である沖矢昴は朝にふさわしい爽やかさを兼ね備え、まぶしい笑顔でそう言った。確かにキッチンの方からいい匂いがして、本能的にお腹が空いてしまう。賑やかに聞こえていたのはテレビのニュース番組のようで、なまえは曖昧な返事をしながら、ひとまず油断しきっていた顔を整えるために洗面所に入った。
目についたのは、歯ブラシ立てに並ぶ、新しい青の歯ブラシ。
「これじゃ、ルームシェアじゃなくてまるで同棲だ……」
そんな独り言を呟きながら、彼女は昨日の自分の判断を今さら恨めしく思うのだった。
case03. 賑やかな朝、青い歯ブラシ
出勤まで時間はまだあるくせに、早々に身なりを整えてダイニングに向かうと、席に着くタイミングで暖かいコーヒーが差し出される。あまりに隙がなくて、なまえは苦笑いをしたままそれを受け取り、目の前を横切っていくハイネックシャツの男をぼんやりと眺めていた。
沖矢昴。二十七歳。東都大学大学院、工学部、博士課程。それが昨日の夜、教えてもらった彼の情報である。なまえはそこにすぐさま、左利きであることと喫煙者であることを記憶のカルテに書き加えていた。昨夜、食事を一緒にしたときに左利きであることは見てわかったし、それに姿はまだ見ていないが微かに煙草の香りがする。部屋は禁煙でないと伝えてもいいが、喫煙者であることは告げられていないのでわざわざ言う必要もないだろう。
「朝はパン食派なんですね」
「え? ええ、まあ。手軽ですし」
「そうですか。僕も手伝いますよ」
一瞬、その意味がわからなくてなまえは疑問符を浮かべたまま硬直した。しかし、こんがりと焼けた食パンと、サラダ、ハムエッグを乗せた皿を持って来た沖矢が笑みながら指差した先に、マグネットで冷蔵庫に貼られたシール台紙が目に飛び込んでくる。
特定のパンについたシールを集めると、AパターンかBパターン。どちらかのユルリックマのプレートがもらえるという、生活感満載のシール台紙である。
かあっと顔が熱くなり、そして走ってその台紙を引きちぎるように取り去った。三十路手前にしてさすがにこの趣味はまずい。そう自覚していると、やはり、背後でくすくすと笑い声が聞こえる。
「……沖矢さんって、意地悪なんですね」
「どうして? 可愛いと思いましたよ」
「もういいです」
ようやく引いてきた顔の熱を手のひらで抑え、なまえはきまりが悪いまま沖矢の前の席へと戻った。ニュースでは、とある造船会社の社長の誘拐事件を報じていて、気休めに視線を移しながら食事を始める。もちろん、孤児院時代から染みついた「いただきます」をきちんと言うことは忘れない。
「今日はお仕事ですよね。いつも何時頃、出勤されるんですか?」
「日によって変わりますが大体八時半頃ですね。緊急で仕事が入らなければ、七時には帰りますよ」
「コナンくんに聞きましたが、何でも監察医をなさっているとか」
「ええ。なかなかやりがいのある仕事です」
「まるでミステリー小説のようですね! 死因を解き明かす美人監察医といったところでしょうか」
「施設で女性は私ひとりなので、美人というよりは変人扱いですけど」
なまえは上手く言葉を返しながら、香ばしく焼きあがったパンをかじった。
ニュースは次に進み、最近、巷を騒がせている紙飛行機野郎を報じ始める。ほうきで公園を掃き掃除する女性が映し出されたとき、なまえはひとつ予定を思い出した。
「そういえば、今日は蘭ちゃんがこの家の掃除に来てくれることになっているので」
「蘭ちゃん?」
「ああ、えっと」
弟のガールフレンドと言いかけて、とっさに言葉を飲み込んだ。新一から昨日、届いていたメールの内容を思い出す。
“突然悪かったな、なまえ。でもまだ、彼に新一のことは伏せておいてくれ”
あの後すぐに意味を尋ねたけれど、弟から返事はこなかった。いつも通り、まったく身勝手な奴だと呆れてしまうけれど、言われた以上は守らなくてはならない。
大切な家族だから。
「……蘭ちゃんは、私の、仲のいい妹のような女の子なんです。私、こう見えて掃除が苦手で。たまに片づけに来てくれるんですよ」
「へえ。では、よければ今後は僕が定期的に掃除しますよ」
「助かります」
時刻は八時、少し前。出かける時間にはまだかなり早いが用事を思いついたことだし、何より気まずいので、こんな日は早めに出かけるのも悪くない。なまえは食器を重ねてキッチンに持って行き、軽く洗い物をこなした。沖矢はまたも微笑んで、なまえの様子を楽しげに眺めている。
今に見てろ、となまえは思った。からかった仕返し。その余裕も今のうちだ。
「もうお出かけですか?」
「ええ。寄るところができたので」
「そうですか、残念です。もっとゆっくりと朝の時間を一緒に楽しみたかったのですが」
「……ねえ、沖矢さん」
「はい?」
手についた水分をタオルでは拭かずに軽く払って、なまえは沖矢の傍に寄った。そして、わざと濡れたままの手を伸ばして彼の頬に触れようとする。理由をつけるなら「頬にパンくずがついていた」ように見えたからだ。
しかし、結論から言えばそれははっきりと拒まれた。やわらかな態度を一変に翻して、彼から初めての、否定。なまえはその態度で確信する。
「すみません。頬にパンくずがついていたので、払おうかと」
「随分な子ども扱いですね。干渉し合わないはずでは?」
「コナンくんの傍にいると、つい」
適当な理由をつけて、バイクの鍵を取り、いってきますと逃げるように部屋を出た。
もちろん、パンくずがどうとかいう話は嘘だ。気になっていたのは彼の顔の皮膚。私の指から飛沫した水を弾くように一切浸透しなかった。それに、あの沖矢という人は、付着した水滴を拭いもしない。変だ。まるで感覚が通っていない。
つまり、あの顔は人工物。その理由はわからないけれど。
「にしても。仕返しの方法が、こんなことしか思いつかないなんて」
なまえはとりあえず、出勤する前にいつものコンビニに立ち寄ることにした。理由はシールつきのパンを買うため。
プレートが、急に二種類とも欲しくなったからだ。
「……絶対、ユルリックマのプレートにカレーよそってやる」
一方、その頃。残された工藤邸のダイニングにて、沖矢は腹を抱えて笑っていた。もちろん、頬についた水滴は拭い去り、その意味にもきちんと気がついている。
「なかなか面白い女だな。工藤なまえ」
その声色は、彼女の知る沖矢昴のものではない。