115a...


「え!? なまえさんと昴さん、別れちゃったの!?」

 そんな素っ頓狂な大声を上げたのは、ご存知の通り色恋沙汰には滅法目がない天下の鈴木財閥のお嬢様、鈴木園子。彼女は保育園時代からの幼馴染でもある工藤新一の姉・なまえがようやく掴んだ初めての恋を、親友の蘭とともに応援していたひとりでもあった。監察医という職種柄、男を容易に寄せつけないほど理知的で聡明ななまえと、それに上手く甘えながらリードしていく不思議な年下の大学院生・沖矢昴の組み合わせなんて、とても大人っぽい恋愛の雰囲気を感じて密かに憧れの的だったのに。まさかこの度、彼らが別れを選んでしまうことになるとは夢にも思っていなかったのである。

 驚愕の事実に顔をしかめる園子に対し、その話を切り出した当人でもある蘭はわずかに躊躇しながら彼女に答えた。


「うん……私もコナンくんから聞いてびっくりしちゃったんだけど」
「そうなんだ。ってか、なんでガキンチョから……?」


 園子はひとりごちるようにそう言いながら、まるで睨みつけるみたいに蘭の足元にいたコナンを無遠慮に見下げる。その何とも威圧的な視線には思わず、えへへと苦笑いを浮かべるしかないコナンではあるが、その実、未だに姉と赤井が別れを選択したことに対して彼の方こそ信じられない気持ちでいっぱいなのであった。


「それで? 理由とか、どっちから切り出したかとか、何か聞いてるわけ?」
「昴さんの方からって聞いたけど、理由までは……」
「あっそう……」


 急に興味を失くしたかのような園子をよそに、コナンはうっすらと先日の出来事を頭の中で回想し始める。

 工藤邸で執り行われた、優作扮する沖矢と安室の一騎打ち。その後、なまえが体調不良で倒れ、コナンは赤井の帰宅と入れ替わりに工藤邸を後にし、気を使って博士の家で泊まることにしたのではあるが。再び起きて自宅に帰る頃には、まるで幸せな魔法が一切合切すべて解けてしまったかのように、もう既にふたりは破局を迎えていた後だったのである。たった一晩で状況がそんなに変わってしまうだなんて。そんな話、当然、急に言われても信じられるわけがない。

 しかし、今の園子やコナン以上に驚いていたのは、何を隠そうなまえと新一の母でもある有希子の方だった。マカデミー賞の会場でも場を沸かせるほど『緋色の捜査官』のモデルとなった赤井にメロメロであることを言い放った彼女は、作戦が滞りなく成功したことを受けて「これでもうなまえちゃんの結婚も安泰ね!」とハートマークまで飛ばしていたはずなのに。いざアメリカから意気揚々と帰国した途端、未来の息子だと信じて疑わなかった赤井からきっぱりと言い渡されたのだ。「なまえとは別れました」と。そのときの有希子の呆然とした表情。思い出しただけで、やはりコナンからは苦笑しか出てこない。

 別れるに至った詳しい理由は教えてくれなかったのだが、赤井から切り出したことには違いないらしかった。なので、仮説ながらコナンは赤井が安室に遠慮したのではないかと推理する。安室はかつてなまえの高校時代の大切な友人のひとりで、彼が姉に対して並々ならぬ執着心を持っていたことは以前からわかりきっていたことであったし。なまえだってベルツリー急行で彼がバーボンであると判明するまでは、安室のことを好きになってはいけないと思いながらも、時折、気にかけているような素ぶりを見せていた。その様子を知っている赤井なら、たとえ敵に塩を送ることになろうとも、ふたりの想いの強さに負けを悟って、不本意な別れを切り出すこともあるかもしれない。

 しかし、やはりそう考えてもコナンは心のどこかが腑に落ちないでいた。第一、あの赤井が遠慮なんてするだろうか、と。それも、優作扮する沖矢に一泡吹かされた後、来葉峠から彼の仲間に借りた携帯電話で完膚なきまでに真実を突きつけ、自らトドメを刺したあの安室に。


「あの日だって『任せろ』って言ってくれたのに……」


 そう呟く小さな少年の言葉は、決して誰の耳にも届かない。


「でもさ、あのふたりって一緒に住んでるんだよね? じゃあ、同棲も解消したってこと?」


 園子は半ば断定的に肯定を予期しながら、傍にいた蘭に気安くそう尋ねる。しかし、その答えは彼女の予想に反して明らかなノーだった。


「ううん。それとこれとは話が別なんだって……ね、コナンくん?」
「う、うん……」
「嘘でしょ!? 信じらんない!」


 カーッ、大人はよくわかんないわ! そう言って、大袈裟なほどため息をつく園子の背を、事情を知るコナンだけは同調し難い気持ちでじっと見つめてしまう。

 もとより赤井を工藤邸に住まわせたのは、その隣人でもある灰原哀を守るため。近い将来、さすがの気まずさから同居を解消してしまうかもしれないが、なまえもその点は理解しているので今のところ破局後もふたりの生活は継続中。それが余計にこの関係をこじれさせているような気がしないでもない。

 ただ、長年傍で姉を見てきた新一としての願いはいつもひとつ。孤独とともに生まれてきたなまえが、この先は笑顔多き人生を歩めますように。そんなこと、照れ臭くて言えた試しは一度もないが、彼女の弟として生まれてきたときから姉に対して願ってることは、ずっとそれだけだった。


「大学で好きな女の子でもできたんじゃないのか?」


 突然、それまで聞き役に回っていた世良が、そこで初めてひょっこりと会話に入り込んできた。その顔は園子とは違い、なぜか嬉しそうであることが印象的である。おそらく世良は、なまえが沖矢と付き合っていることに、最初からある意味で嫉妬していたのだろう。いや、きっと彼女の場合、なまえのことを慕いすぎて本気で身内になりたい欲が強いらしく、ひとりだけ別の角度からこの話を聞いていたのだが、今はその話をよそう。

 大学で好きな女の子。確かにその言葉は、女子高生の三人からすれば、ぼんやりとした憧れのあるフレーズでもある。沖矢が通っている東都大で、日々繰り広げられている華々しいキャンパスライフ。そこに通う女子集団の中に、彼に好意を寄せる者がいても当然おかしくはない。東都大という日本一を誇る頭脳を駆使して、彼女たちは沖矢の気を引くために日毎に様々な駆け引きをして楽しんでいることだろう。

 けれど、その逆はどうだろうか。芯が強くて、まるで聖域のように清廉で美しいなまえを捨ててまで、あの沖矢がそんな姑息なアピールを見せる女子に現を抜かすかと問われれば、誰しも首を横に振ることだろう。そして、その結論に達したのは、女子高生三人仲良く同時だったのである。


「……なまえさんよりいい女の子、早々いるかな?」


 その考えを代弁するかのように、蘭が呆れるみたいに真っ先にそう言う。すると、言い出したはずの世良もさすがに苦笑しながら同調した。


「やっぱそうだよな? じゃ、あの昴って人、案外、女見る目ないんじゃないのか?」
「かもね……」


 すると、その話を聞いていた園子が再び大きく口を開いた。それも「あっ!」と、まるで何か良案でも思いついたかのように。


「じゃあさじゃあさ!」
「?」
「安室さんにこのこと教えてあげたら?」
「っ!?」
「ほら、前にテニスのコーチしてもらったときに言ってたじゃん? 『世界中の誰よりも、なまえさんのことが好きだ』ってね」


 全然似てもいないが、安室の真似らしい男役のような雄々しい声で面白おかしく引用してみせる園子に、失恋の傷が癒えるならアリかもと嬉々とする蘭。世良は若干引き気味な表情だが、それは先ほどの嫉妬と同義だろう。おそらくコナンの持っている否定的な意見とは種類が違う。

 当然、そんな園子の提案をコナンが飲めるわけがなかった。なので、反射的に彼は、珍しくかき消すような大声を出してしまいそうになる。


「だっ……!」


 しかし、駄目の「だ」の字を言いかけた途端、ギロリと園子の視線が飛んでくる。


「何よ、ガキンチョ? 文句あんの?」


 まずい。コナンはとっさに出てしまった声を引っ込め、必死に取り繕う。

 そうだった。今までの癖で、反射的になまえと安室を近づけさせないような方法を考えてしまいがちであったが、彼はもう完全な悪などではない。公安警察として組織に牙を剥こうと機会を見計らう、潜入捜査官のひとりなのだと判明したのだから。

 けれど理由はどうあれ、なまえのことをずっと音信不通にし続けて傷つけた罪はどうやったってももう消せやしない。故にコナンは、ほんの少しの嘘を混ぜて園子にこう返すのである。


「だ、駄目ってわけじゃないけど……なまえ姉ちゃん、安室さんには言わないで欲しいって言ってたよ。今は余計なこと考えたくないからって」
「うーん……ま、それもそうね」


 園子が納得してくれてよかった、とコナンはホッと胸を撫で下ろした。もちろん、なまえ本人はそんなこと一言も言っていないし、思っているかどうかすらわからない。だが、今の彼女をこれ以上悩ませないためにも、伏せておいた方がいい事実であることは確かである。

 なぜなら、なまえが沖矢と別れたことを安室が知ってしまえば、その瞬間からそれこそ彼の方がもう遠慮をしなくなってしまうことだろう。スイッチ式の爆弾を起爆させるように、きっとタガを外してなまえとの運命を死に物狂いで手繰り寄せにくる。彼はそういう男だった。


「それより、ポアロに梓さん考案のレモンパフェが新メニューで追加されたらしいんだけど、これから行ってみない? 今日から期間限定らしいよ」
「え、行く行くっ!」
「レモンか、いいな!」
「コナンくんはどうする?」
「あ、ボクはランドセル置いたら、博士の家にみんなで集合だから」
「そっか。じゃあ、気をつけてね?」


 蘭のお姉さんらしい笑顔に見送られ、コナンは女子高生組から離れて家路を目指す。

 その道中、コナンは先ほど園子についてしまったなまえを守るための嘘を思い出して「やっぱり嘘つきはお互い様かもな」と小さく笑う。その頭に思い浮かべるのは、すべてが終わった後、安室に会うためにコナンひとりきりでポアロに行った、あのときのこと。

 悪いな、安室さん。このくらいの意地悪はちょっとだけ許してくれよな。



case115a. アフター・オール


 それは工藤邸での攻防戦の後。穏やかな昼下がり。

 喫茶ポアロの扉が小気味よいカウベルの音とともに開き、ちょうどその時間帯にシフトに入っていた安室が「いらっしゃいませ」といつも通りに言いかけたとき。入り口には自分の足元にしか及ばないほどの背丈の、よく見知った眼鏡の男の子がいた。

 彼の名は、江戸川コナン。その少年が何者なのかは未だに安室でも掴めていないが、赤井の死体偽装、引いては先日の一件にも、彼が何かしらの形で絡んでいるということは明白な事実であった。そして、そんな彼がこのタイミングでここにひとりで来たということは、やはり安室の正体を知ってしまったと考えて相違ないだろう。誰にもずっとひた隠しにしていたはずなのに、バーボンというコードネームを与えられた、公安警察からの潜入捜査官であるということを知られてしまった。こんな小さな少年に。

 安室はコナンを見つめながら、これから何を言われるのだろうかとじっとその身を構えて待っていた。心は、実はわずかに怯えている。ただの小学生にしか見えないこの少年こそ、自分以上に怖い存在のひとりであることを認めてその畏怖を思い知るのだ。

 しかし、安室の緊張を切り崩すように、コナンはわずかに首を傾げて微かな笑みを浮かべる。そして、ひときわホッとしたような、それでいて少し呆れたような顔をして。決して咎める意味合いではなく、自分を見据え続ける彼にこう告げるのだ。


「嘘つき」


 その言葉には、思わず安室の方も目を細めた。

 嘘つき。そのたった四文字の中には、様々な意味が込められていた。安室が本当は降谷零という人物で、公安という所属を隠しながら組織に潜入しているということも。渋谷夏子の事件の際に「悪い奴らの敵だよね?」という質問の返答に、きちんとした真実で返さなかったことも。その他、自分がこれまで目的を果たすために積み重ねてきた数々の嘘も。

 しかし、安室はにこりと笑って、彼と同じように呆れたように返すのである。


「君に言われたくはないさ」


 そう。コナンの方こそ、自分なんかよりもずっと嘘が得意な様子。安室がそう見透かせば、ふたりは改めて笑い合う。まるで仲直りの証のように。

 後は普段の通りだった。今さら何も知らないただの子どもを装うかのように、コナンは「僕、オレンジジュース!」と言って、ポアロの店内でも一番陽当たりのいい窓際の特等席に腰掛ける。安室はそんな生意気さをまた笑って、注文の品を用意しに一度キッチンに入った。

 けれど。実は安室には、この際、喉から手が出るほどコナンに聞いてみたいことがひとつだけあった。それはもちろん、なまえのこと。工藤家とコナンの関係性は結局わからずじまいであるが、彼女の自宅で起こった一連の出来事を、なまえ自身はどこまで把握しているのか。それが気になってどうしようもない。

 けれど、内心。彼はもう諦めている節すらあったのである。経緯はどうあれ、彼女はもう、すべてを知ってしまっただろう、と。

 この安室透という姿も、降谷零の一部だと知ってしまったとしたら。今頃、なまえはこちらに対してどんな想いを抱いているのだろうか。嫌悪? 軽蔑? 憎悪? どれも同じだ。ただ、考えただけで、彼女に嫌われているという事実が死ぬほど苦しい。

 オレンジジュースを持っていく手が、らしくもなく少し震えていた。相手はただの子ども。そう思おうとしても、なかなか思うことができない。頭の中が、どうしようもなくなまえのことばかりで。こんなにも苦しめて、嫌われるはずじゃなかったのに。

 運命の糸を手繰り寄せたいと、今でも本気で思っているのに。


「お待たせしました、オレンジジュースです」


 コースターを引き、グラスを置くのは普段通りのポーカーフェイス。声も特に震えてはいなかっただろう。けれど、意図せずストローの向きが、くるりと揺れて安室の方を向いて止まったとき、意味もなく少しどきりとする。コナンがそれを目線で追うのがわかったからだ。

 本来であれば、注文の品のご提供で小さな彼に対するサービスはこれで終わりだ。店員としては、颯爽と勘定を置いてこの場を去らねばいけない。けれど。離れられない。なまえのことが聞きたくて。

 それを聞いてしまうことが、決して自分にとっていいことではないということはもうわかっている。でも、なまえに嫌われているという事実を突きつけられたとしても、安室はどうしてもコナンに聞きたい。

 たったひとりの、大事な女の子の現状を。


「コナンくん」
「……」
「なまえは……僕のこと、どれくらいわかってる?」


 彼のその目は、不安げに揺れていた。安室透として「なまえさん」と呼んだわけではない。降谷零として彼女の名前を呼んだのだ。それは対外的には久しぶりのことで、情けないくらい心ごと震えてしまう。なあ、なまえ。こっちを向いて、と。面と向かって、彼女にそう呼びかける未来がくるとは思えないのに。

 コナンは一瞬、言葉を選ぶようにうつむき、そして顔を上げる。彼は深く言及しない。けれど、その事実ぐらい、嘘偽りなく突きつけてやってもいい。そう思って。


「……たぶんボクと同じくらいだよ。ゼロの兄ちゃん」


 ゼロ。そのあだ名をわざと彼がここで口にしたということが、なまえがすべてを知っているという事実を物語っていた。安室に悟らせるには、それだけで十分すぎた。



 しばらく経ってコナンが帰った後のポアロには他の客がおらず、安室は今までコナンがいた席をすばやく片付けることもできずに、レジスターの前でひどく痛む頭を抱え続けていた。すべては自分が蒔いた種。振り向かれもせずに、根ごと腐っていくだけの虚しい花をずっと大切に育てていた。馬鹿みたいに。

 そして、激しくその胸を焦がしながら、ぼそりと声を落とすみたいに誰もいない喫茶店の片隅でこう呟くのである。


「……会いたい」


 もう、彼女を追っていい筋合いでもないくせに。会って抱きしめてやりたいと思うのは、身勝手すぎるよな。

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