116a...
出勤の支度をするために、まずはパジャマから着替えようとクローゼットを開ける。いつも通り特に何も考えず、機械的に手に取るのは白のブラウスと黒のパンツというベーシックな組み合わせ。それをふたつとも取り出して身につけようとした瞬間、なまえはようやく、窓を叩きつける激しい音の存在にそこで初めて気がついた。
前開きのパジャマを羽織るように着ただけの、ほとんど下着のような格好なのに、無防備にも窓の傍に近づいてガラスにそっと指先をつけてみる。まるで、凍っているみたいに冷たい。外は見渡す限り灰色に霞んで見えるほどの大雨で、音の正体は激しく降り続けるこの雨が必死に窓を叩いていたことによるものだったのだと知る。しなければならない支度のことも忘れて、なまえはしばらく見入るようにその雨を眺め、そして、こんな大雨にもかかわらず、今までまったく気がつかなかったことを自嘲した。ガラス面に映る、自分の憔悴しきった表情。考えることが多すぎて、発熱が収まった今でも実はあまりよく眠れていない。
以前なら、朝起きてすぐに顔を洗ってキッチンに行き、赤井と束の間のコーヒーを楽しむ余裕もあった。夕飯に食べたいものはあるかと聞かれたり、今度の休みはどこへ行こうかとか、何をしようかとか、恋人らしい雑談を交わしたりすることもできていたはずなのに。今はそこへ下りることすらもう怖くなって、ほとんど自室と職場を往復するだけの生活を続けている。それは一見すれば、以前、まだその正体を知らないときに、沖矢昴という人物を信じられなくて意図的に彼を避け続けていたときと似ていることだろう。けれど、あのときと明らかに違うのは、赤井の方がこちらをわざと避けているということにあった。
なまえは数日前に赤井に告げられた言葉を、雨を見つめながら頭の中で繰り返し何度も反すうさせる。別れよう、俺たち。そう言って、一度たりとも振り返ることもなく立ち去った赤井の背中が、今もこの目に焼きついて、離れない。
でも、そうなって当然だと思っている自分もいるにはいた。誰に何を言われても、なまえは安室のことを見捨てられなくて。そんな彼女についに愛想を尽かせて、赤井が逆になまえを見捨ててしまったとしても仕方がないことなのだと思う。赤井に対しては、本当に申し訳ないことをしてしまったから。だから、今感じている孤独を寂しいと思ってはいけないのだと、なまえはあの日からずっと、自分にそう言い聞かせ続けている。
一度出していた黒のパンツをしまい、普段のバイク通勤の日なら避けるスカートの中からひとつを選び直そうとする。彼女にとって、その行為はほとんど癖のようなものだった。雨の日ならスカート。または、ワンピース。そんな風に、少しでもおしゃれして気分だけでも楽しくするように。
久しぶりに紺色の膝丈フレアスカートを取り出して、クローゼットを締める際、ちらりと見えたのは。あの日、安室からもらった、思い入れのあるレモン柄のワンピースだった。クローゼットの奥底で悲しげに紙袋に入れられたままになっているそれは、ベルツリー急行乗車後、なまえ自らの手で封印したものである。そのときは安室の記憶に蓋をするための必要な儀式であったはずなのに、もう日の目を見ないそれを未だに女々しく捨てられていないことが、今、赤井への罪悪感を募らせることになるとは思ってもみなかった。
『また迎えに行きますよ。雨の強い日にね』
弟が誘拐された事件の後、そんな風に言ってのけた安室の言葉をふと思い出して。その彼もまた降谷だったのだと思うと、途端に鋭い痛みが走るみたいに胸が苦しくなる。あのときは雨の日が怖いような、待ち遠しいような何とも形容しがたい不思議な気持ちだった。その気持ちのままで今もいられたら、何か違っていたかもしれない。でも、思うのだ。
はたして、あのときの自分は。安室だったから彼を好きになってしまったのだろうか。それとも、ふとしたときの挙動が降谷に似ていたから好きになったのだろうか。その真相を考えてみたところで、なまえにはその答えが未だによくわからない。
着替えを終えた彼女は、チェストの上に置いてあったバイクの鍵をじっと見つめた。長い間、キーホルダーの類は何もつけていなかったはずなのに、今ではそこに、おそらく彼と揃いであるはずのお守りが大事についたままになっている。なまえはそれを握らずに素通りし、気持ちごと置き去りにするみたいに自室のドアノブに手をかけた。
「来るわけないのにね」
でも、なんだか彼が迎えに来るような気がして。馬鹿だなとやはり自嘲しながら、なまえは部屋を後にした。
case116a. 気持ちは雨の日に集う
「今日は朝からずっと予報通りの大雨でしたね」
閉店時間まで残り一時間と差し迫った、喫茶ポアロにて。梓が各テーブルを拭いて回りながら、キッチンで洗い物をしている安室に向かって何気なくそう声をかけた。
その日は梓の言う通り、朝からずっと強い雨でそのせいか客足もわずか。人件費ふたりを雇う方が高くついたのではないかと疑うほどで、そんなだから自然と早じまいの支度をしようという話になり、それぞれが片づけ作業に没頭している最中だったのである。
安室は梓に適当に相槌を打ちながら、激しさを増していく雨脚をじっと眺めていた。度重なる尾行と、大雨の日だけはなまえがバイクに乗らないという話を蘭から聞いて、チャンスだとばかりに彼女を東都監察医務院まで迎えに行ったこともある。そのときは今よりもずっと楽観的で、雨が降るのが待ち遠しかった。ただの、恋をしている男だった。
今日みたいな日なら、なまえは電車で通勤しただろうか。そんなことを、未だに抜けない癖みたいに考えてしまう。
「……理由がないと会えないのは、昔からだな」
梓には決して聞こえないように、そうひとりごちる安室は、傷だらけだった幼い頃の自分を回想していた。彼にとって初めての恋の相手でもあった忘れもしないあの女医のことを思い浮かべて、喧嘩して怪我をする度に彼女に優しく手当てしてもらえるのが嬉しかったな、と少し笑う。容姿のことでからかわれ、名誉の負傷を負う度に小さな町医者に通った、あの愛しい日々のこと。
思えば、なまえの白衣姿を初めて見たとき。過去の甘酸っぱい初恋のことを思い出して、顔は全然似ていないのに少し彼女と重ねてしまったことを思い出す。バイバイだね、零くん。そうやって、目の前から消えてしまうところも、本当はよく似ているのかもしれない。
「そういえば、大雨だったらなまえさんは」
突然、梓から出たその名前に驚いて。安室は握っていたはずの皿を、ガシャン、と大きな音を立てて指の先から滑らせてしまった。シンクの中でバラバラになったそれは見るも無残で、人前でらしくもないヘマをやってしまったと彼は頭が痛い気持ちになる。幸い、割ったのはソーサーではなかったので、カップだけがひとりぼっちになることはないが。それでも気分的に下がることは確かだった。
「だ、大丈夫ですか!?」
「すみません。パスタ用の皿を一枚、割ってしまったようです」
「怪我はないですか?」
「はい。それよりも」
「?」
「……なまえさんが、何か?」
いや、何を聞いてるんだ、僕は。そう思ったときにはもう、口から質問が出ていた後で、梓はぽかんとした様子でその発言を聞いていた。これじゃまるで、なまえの名前を聞くだけで皿を割ってしまったと自ら言っているようなものだ。そう思うと、些か分が悪くなる気持ちもあるが、出てしまったものはもうどうしようもない。第一、相手は梓だ。今さら変に飾る必要性もないだろう。
しかし、安室のそうした照れをよそに、逆に梓の方がなぜかすまなさそうな表情をしたのであった。
本当のことを言えば、今日は彼女の方がなまえの話をずっとしたくてたまらなかった。先ほど言いかけたのだって、大雨の日にちなんでなまえがこんな日はバイクに乗らないという話を前置きに本題を切り出そうという、梓なりの配慮だったのだから。
「本当は、蘭さんたちから口止めされてるんですけど」
「え?」
「いえ、えっと、その話の前に……今日のお昼、安室さんが来るよりも先に毛利さんがポアロに来たんです!」
安室は破片を片づけながら、懐疑的な気持ちで梓の話に耳を傾けていた。みっともなく反応してしまったなまえの話ではなく、この上階に住む毛利小五郎の話から仕切り直すように始まった今日の出来事を。
「毛利先生が? ランチにですか?」
「はい。私、実はレモンパフェが発売になる日に合わせて食べに来てくださった蘭さんたちから、それはそれは驚愕の事実を聞いてしまったんですけど……彼女たちからはきつーく口止めされていたから、今までずっと安室さんには言えなくて」
その事実が何なのかは一旦さておき。梓の話によると、彼女は安室にその話をするかどうかの是非を、ここ最近ひたすらに悩み続けていたのだという。そんな折、客足も少ないポアロに昼食を食べにきた小五郎を捕まえてその悩みを赤裸々に打ち明け、一体どうすることが最善なのかと、コーヒーをご馳走しながら名探偵のご意見を伺ったという話であった。
「で、そこで毛利さん。なんて言ったと思います?」
「さあ……?」
そもそも梓の言う「驚愕の事実」が何なのかさえわからないというのに。推理するには不十分なものしか手元にない安室は肩をすくめて彼女に視線を送ると、梓はとびきりにこにこして。小五郎に言われたのだという言葉を、怪訝な表情を見せる彼に向けて励ますみたいに言ったのだ。
「『それは絶対に教えてあげた方がいい』って! 確かに安室くんはたまに何を考えているかわからないときもあるけど、いつも必死に頑張ってて、それにいい男だから。だから、後悔して欲しくないって」
その話を聞いた瞬間、店中央のテーブル席で小五郎が新聞を読みながら咥え煙草でそうぶっきらぼうに言ってのける場面が、見てもいないのに安室の頭の中を過ぎっていった。彼がそこまでこちらのことを評価しているとは思いもしていなかった。そして何より「後悔して欲しくない」という優しい言葉が、ここのところずっと後悔ばかりをし続けている自分を見透かしたような発言で、心の深いところまで染みるみたいにすっと素直に入り込んだのだ。
だから、本当は言ってはいけないことになってるんですけど、特別に教えちゃいますね。そう言うと、梓はずずいとカウンターにいた安室に近づき、ようやく勿体つけていたその「驚愕の事実」というものを彼に伝える。
「なまえさん。大学院生の彼とはお別れしたそうですよ」
「っ!?」
「あ、これは女子たちの噂なんかじゃなくて、コナンくんからの情報らしいので絶対の絶対に確かです! ……まあ、理由は誰も知らないそうなんですけどね」
「梓さん」
「え?」
すると、破片を片付け終えた安室は乱雑にエプロンを脱ぎ、余裕なくぐちゃぐちゃのままでそれを調理台の上に投げ捨てる。その行動はいつもの彼なら考えられない、まるで別人のようで。そして、普段なら絶対に見せることのない切羽詰まった表情で彼女にこう返すのである。
「すみません、後の戸締りを頼みます」
安室はそれだけ言い残すと、そのまま一目散に大雨の中に飛び出していった。それは誰の目に見ても、恋をするただのひとりの男の顔だった。梓はそんな彼を黙って見送り、雨の夜に消えていく彼の背に優しく微笑む。
「雨、続いたらいいですね。安室さん」