118a...

 なまえは紺色に縁取られたレモン柄の傘を広げて、降りしきる雨の中、懐かしい母校の外周をぐるりと歩きながら眺めて回っていた。少し改修したらしいが、面影が残る校舎。体育の時間に走り回っていたグラウンド。部活棟やプール、体育館はそのままで。その変わらない感じが、高校時代のレモンスカッシュのようだった甘酸っぱい日々を思い起こさせて胸が詰まるほどの大きな郷愁を感じる。当時は何でもないと思っていた風景だったけれど、いつかこの日々が自分たちにとっての「ふるさと」になるという予感だけはあった。それが今、自分の思っていた通りの宝物になって。目の前に広がっているのだと思うと、わずかに視界までぼやけてしまいそうになるから、彼女は泣きそうになる原因をずっと誰かに言い訳し続けるみたいに「きっと雨のせいなんだ」とすべての責任をこの天気に押しつけていた。

 そう、雨が降ったから。だから、今日ここへ来た。あの日以来、自室と職場を往復するだけの毎日で、どこへでも行ける頼もしい相棒のバイクもあるはずなのにどこにも行けやしなかった。毎日、光のない暗闇の中にひとりぼっちでいるような気がして。滅入って。同居しているはずの赤井とも一切顔を合わさず、職場でも必要最低限のコミュニケーション以外、何ひとつ誰ともまともな言葉を交わしていない。

 学校の敷地との境界を表す黒の鉄柵を、濡れるのも厭わず指先でなぞりながら歩いて、なまえはここまで来た経緯を思い出していた。雨が降ったからバイクを避けて、いつもは選ばないスカートとお気に入りの傘を身につけて家を出た。それで気分がすっきりと晴れることはなかったけれど、たとえ些細なものだったとしても今は何かにすがっていたい気持ちでいっぱいだったのである。仕事が終わってからもまっすぐ家に帰るのが怖くて。今にも死にそうな顔をして雨を見つめていたら、帰り際、所長に「寄り道でもして気分を変えてみるのもいい」と言われて。じゃあ、そうしてみますと反射的に言ったけど、でも思い当たる場所がなくて。ぼんやりと考え事をしながら歩いていたら、いつの間にかこんなところまでたどり着いてしまった。乗ったバスは相変わらず間違えるし、夜の通学路は想定以上に暗くて、一年前にウエストサイドで迷ったときのことまで思い出して気持ち的には散々だったけれど。今はこの風景が見られて、そしてそれが何も変わっていないことにとても安心している自分がいる。

 ただ、この景色に足りないのは。大好きだった親友たちが傍にいないということだけ。

 雨に降られる校舎を眺めながら、性懲りもなく考えてしまうのはやはり降谷のことだった。安室透として工藤邸に来て、結局、尻尾を巻いて退散することになった彼。ベルツリー急行乗車後と同様、今も素知らぬ顔をしてポアロで継続して働いているという話は新一から聞いて知っていたが、あんなにも会いたいと願っていたはずなのに、こんな顔では当然、会いに行けるはずもなく。降谷としての彼ときちんと会ったのは、未だにすごく、遠い過去だ。ポアロに行く理由なんて「ただここのコーヒーが恋しいから」で済むはずなのに。もしまた彼に会ってしまったらと思うと、何かを話しかける勇気が今のなまえの手元には一握りもない。

 だから、ちょっとだけ今朝はこの雨に期待したのかもしれないな、なんて。なまえはそんなことを思って力なく少しだけ笑った。また迎えに行きますよ。雨の強い日にね。以前そう言ってくれた彼の言葉を思い出して、懲りずに再びどうしようもなく胸を締めつけられる。そして責めてしまうのだ。だったら今、会いに来てよ、そしたら今度こそもう全部許してあげる、って。……馬鹿だな、誰に言ってるんだろう? 今さら届くわけもないのに。

 傘を少し下げてうつむき、濡れてぐしゃぐしゃになったパンプスの足先をぐしゃぐしゃの瞳で見つめる。赤井のことが好きじゃなかったわけじゃない。大切にされていると痛感する度に嬉しくて幸せな気持ちになったし、自分も同じくらい彼のことを大切にしたいと思っていた。恋愛経験のないなまえに歩調を合わせてくれるところも、嫌がることを一度だってしなかったことも。人から愛されるとはこういうことなのだと、その身を持って彼は等身大で教えてくれた。

 でも、なまえが降谷のことをこんなにも忘れられないのは、もはやそれ以上に、理屈では到底説明ができないことなのだった。自分にとって「一筋の光」を見せてくれた相手で、家族の次に大切な人。こんなに馬鹿な私の初めての夢を笑わずに真っ先に応援してくれて、いつだって傍にいてくれた。口ではぶっきらぼうで本当は嫌われてるんじゃないかって何度も思ったけど、そうじゃないことは彼を見ていればわかった。それが愛情の裏返しで、本当は好きだって思ってくれていたということには、残念ながら全然気づかなかったけれど。

 音信不通にしたのだって、アルバムを盗んだのだって。結局はきっと私を危険なことに近づけたくなかったからなんだ。そんなことわかってる。わかってるよ。でも、すごく寂しかった。何か言ってくれたらって思ったし、こっちも振り返ればよかったって頭がおかしくなりそうなくらい何度も悔やんだ。こんなことになるくらいなら、出会っていなければよかったのかもしれない。でも、やっぱり私は何度生まれ変わっても、ふたりの友達がいいよ。

 なまえはこのまま降谷のことを忘れられずに、きっと自分は生きていくのだろうと思う。いろんな人を傷つけた罰に、たったひとりきりで。


「もう会えないな」


 なまえはそうひとりごちて、とうとう堪えようのない涙を地面に落とした。雨に乗じてぽたぽたと。とめどなく、静かに。

 けれど、そのときだった。


「なまえ」


 突然、あの日の降谷にそう呼ばれたような気がしたのだった。しかし、それがすぐに自分の願望を表した幻聴だということをわかって、なまえはその声をかき消すように首を強く横に振る。しかし、すぐにまたもう一度。なまえ、と。記憶の中の降谷が、再び、切なげに呼びかける。

 なまえは自分のそうした心の弱さを自嘲気味に笑いながら、わずかに傘を持ち上げた。すると、うつむいていたせいか目の前に一台の車が停まっていることに気づかなくて、そのライトに照らされた逆光の、雨なのに傘も差さずに立っている人に、思わず息を止める。

 持っていたレモン柄の傘が、手からこぼれた。


「……やっと、会えた」


 切なげに歪めるその顔は、高校の制服を身にまとった彼と重なって見えた。その人物は、雨に濡れたままかすかに笑う。愛しい人との運命を掴んで、心の底から安堵するみたいに。

 なまえが彼を見間違えるわけがなかった。だって、目の前にいたのは「バーボン」と呼ばれる黒い組織の男や「安室透」などという私立探偵ではない。

 ずっと会いたくて堪らなかった、かつての親友の「降谷零」だったのだから。



case118a. もう一度、すべてが始まった場所で


 その十数分前。東都監察医務院を後にした降谷は相変わらず愛車を飛ばし、一心不乱に目的地である母校を目指していた。かといって、決して先ほどのような身勝手な運転をしているわけではなく、細心の注意と落ち着きを払って、交通規則も当然きちんと厳守している。こうして今、彼が冷静に我に返ることができたのは、先刻の医務院で出会ったとても気立てのいいなまえの同僚のおかげであった。

 よく考えれば、彼女が高校にいるかもしれないなんていう考えは、非常に早計な、ひとりよがりの馬鹿げた考察だったかもしれないと彼は思っていた。彼女もいい大人だし、家以外でストレスを発散させる方法や場所くらい持っていてもおかしくはない。それに、そもそも寄り道するというのは言葉の綾で、本当はまっすぐ家に帰った可能性だってある。あの大学院生と未だに同居しているかどうかは知らないが、もしそうだとしても彼女の性格上、よっぽどの円満な離別でもない限り彼を避けて部屋に逃げ込んでいることだろうと思うが。そう考えただけで、握りしめるハンドルがぎゅっと音を立てるくらい歯がゆくて、そんな筋合いもないくせに今にも胸が張り裂けそうになる。

 でも、それらを踏まえても、降谷にはなぜか揺るぎない自信があったのだ。なまえはきっとそこにいる、と。万が一、そこにいなくても、自分なら世界中のどこにいたってなまえを見つけられる、と。そんな、他人から見たら笑ってしまうくらい呆れた自信を持ち合わせて、まるでそれを確かめに行くみたいに彼は夜の街をぐんぐんと駆け抜けていくのだ。

 やがて見覚えのある通学路に出ると、降谷はあまりの懐かしさに目が眩みそうになりながら徐々にその速度を減速させた。右に曲がった先にそびえ建つ、懐かしい母校。その正面玄関に、彼女の姿はない。だが、たったそれだけのことで彼が諦めることは当然ない。

 なまえにもし会えたら、今度こそ包み隠さずすべてを話そうと思っていた。警察学校を卒業してからのこと。そして、もうひとりの大切な友人のことも。それは些か気が重いことではあるけれど、なまえがあの江戸川コナンと同じくらい真実を知っているという話が本当なら、裏を返せばきっとまだ彼女は景光の死を知らない。それを直接伝える責任が、他でもない降谷だからこそあるのだと感じていた。

 そんな折。学校の外周、グラウンドが見渡せる裏門に近い場所で、街灯の下、夜を切り取るみたいに傘を差して頼りなく立っているひとりの女性を見つけた。降谷はその姿を見た瞬間、思わず短く息を飲む。

 その傘がレモン柄だったことで確証がついた。彼女は間違いなく、なまえだった。

 降谷はすぐさま車を停めて、ヘッドライトをつけっぱなしにしたまま雨の外へと飛び出した。彼女は傘の中でうつむき、時折、何度も手で顔を拭っている。やっぱり泣いている、のだろう。やっと目の前にいるのにまるでこちらに気づかない彼女に、降谷は最後の勇気を振り絞って声を言葉にする。

 呼びかけるのはもちろん、ずっと面と向かって振り向かせたいと思っていた、愛しい彼女の名前だった。


「なまえ」


 一度目の呼びかけは雨の音で聞こえなかったのか、彼女からは何の反応もなかった。降谷は切なげに顔を歪めて、だったら何度でも呼んでやる、と思い直し、もう一度、今度は少し大きめの声で呼ぶ。なまえ、と。聞こえるまで何度でも。この喉が枯れたって。そう思っていた矢先に、彼女が不意打ち気味にその傘を持ち上げて、そのままそれを手から離した。

 目が合った瞬間、ふたりとも同時に理解した。ああ、これが運命なのだ、と。


「……やっと、会えた」


 その言葉は、降谷の口から自然と溢れ出したものだった。状況がよく読み込めていないような変な顔をしている彼女に向かって、彼はもう我慢をせずに歩き出す。けれど、思いがけないことにその距離を詰め切る前に駆け寄ってきたのは彼女の方で、なまえは降谷の腕の中に勢いよく飛び込んだのだった。とっさに受け止めたその体温はまるで凍っているみたいに冷たくて、彼女が長く雨の中を彷徨っていたのだと悟るには十分すぎるほどの胸が痛い証拠になる。


「零っ……!」


 そして、ぼろぼろとその大きな瞳から涙をこぼしながら、見つけた、と言って彼女は嗚咽した。その発言は、まるでかくれんぼの最中のようだった。音信不通にしてからもう五年もずっと彼女にその役目を担わせていたことが申し訳なく、降谷は抱きしめ返すことも忘れて呆然と自分の罪の大きさを思い知って立ち尽くしてしまう。

 けれど、彼女が次に呟いたのは、彼を咎めるような言葉ではなかった。


「無事でよかった……!」


 心底安心するようなその言葉に、降谷ははっとした。彼は当然、なまえからは完全に嫌われていると思っていた。だって、あんなにも散々ひどいことをして。嘘をつき続けて。許されるわけがなかった。なのに、彼女はこんな自分を抱きしめて、まずその身の無事を喜んだのだ。それが何とも彼女らしくて、降谷は改めて彼女のことがとても好きだと思い知る。

 おずおずと遅れてなまえの背に手を回し、降谷はもう二度と彼女のことを離さないようにその腕にきつく力を込めた。そして、夢にまで見たなまえの甘い香りのする髪に顔を埋め、人知れずその胸に固い誓いを立てる。

 腕の中で大泣きするこの愛おしい命を、もう二度と傷つけずに、自分の一生をかけて守り抜くことを。

 彼女の泣き声を聞きながらふたりして雨に濡れ、お互いの存在を確かめ合うようにしばらく抱きしめ合っていた。彼らの、すべてが始まった場所で。また一から物語を始めるみたいに。

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