119a...

 まるで止まないこの雨を体現するかのように、なまえの嗚咽は降谷の腕の中でしばらくしがみつくみたいに続いていた。常夜灯の光に落ちるふたつの影。ヘッドライトで照らされた、道端に転がる傘。水たまりに映るふたりはきつく抱きしめ合ったまま、そこから一歩も動かずに、互いに体温を分け合いながら感傷的に濡れていく。その行為はもはや何人も妨げることができず、決して壊してはならぬ神聖ささえ放っていた。

 最初は大泣きして激しく取り乱していたなまえも、時間が経つにつれて、次第に落ち着きを取り戻し始めていた。そしたら急に降谷に申し訳が立たなく思えてきて、重なるように触れ合った身体からそっと離れてみようと試みる。けれど、今度は彼がそれを許さない。降谷はなまえの背中に回していた手にいっそう力を込めて、宝物を抱きしめるみたいに自身の胸に彼女をきつく押しつけるのである。その姿はまるで、見捨てられるのが怖いと泣いている小さな子どもみたいだった。

 ずっと、本当の姿で彼女とこうしたいと思っていた。それがようやく叶った今、そんなにやすやすと手離したくはない。そのくらいなまえのことが大切なんだ。降谷はそう思う。


「零……?」
「……」
「私、もう大丈夫だよ」


 なまえは、親友が自分のことを心配しているから元気づけるためにいつまでも腕を離してくれないのだと思っていた。けれど、本当はそうじゃない。どこまでも鈍い彼女に、降谷は格好悪くて言えやしなかった。僕の方が大丈夫じゃないから、なんて。

 でもこれ以上、このまま冷たい雨に打たれていることは、彼女の体調面を考えてもあまりいい判断じゃないということは彼にもよくわかっていた。降谷は一度そう考え直すと、名残惜しくもなまえの言葉に従順に応じるかのように抱きしめていたその華奢な身体を離す。けれど、その指は甘く絡めて。もう絶対に離すもんかと決めていた。

 当然そのまま彼女を帰せるわけもなく、降谷はそのままなまえの手を引いてエンジンをかけたままにしていたRX-7の助手席に丁重に招くことにした。なまえを車に乗せるのはとても久しぶりで、少し緊張していることは自身の激しい鼓動からも強く思い知らされる。けれどそれはなまえの方も同様で、先に押し込めるみたいに車に乗せられてから、わざわざぐるりと移動する降谷を物言いたげな目線で追いかけ続けていた。彼は何食わぬ顔で転がっていたレモン柄の傘を回収して、無言のまま運転席に乗り込んでくる。

 さっきまであんなに空白を埋めるような熱い抱擁を交わしていたくせに、車内という密室の空気が途端に気まずくて、なまえは静かに目を伏せていた。大泣きしていた瞼がひりひりして痛み、そこを気にしてまたもこすってしまう。ひどい顔をしているだろうということは何も見なくてもわかったが、暗い夜を映し出している窓に反射した自分の顔を見やるとやっぱりぐしゃぐしゃで。なんだかとても情けなくて、思わず降谷に隠れて少しだけ笑ってしまった。

 一体、彼はこれからどこへ向かうというのだろうか。なまえはその質問を口にはできず、ただ、今は降谷に任せていようとだけ思う。以前、雨の中で向かった先といえば真っ先に思い起こすのはやはり東都水族館だろう。でも、そこはもう閉館している時刻だろうし、食欲はないので食事に行きたい気分でもない。彼がまだ安室透だった頃にキスをした浜辺や、このまま延々とドライブ……なんて線が濃厚かもしれないとそんな推理をしていれば、降谷はようやくその答えを告げるために重い口を開くのである。


「僕の家で話そう」
「え?」
「悪いが、今日はお前を帰せない。だから、もし今も家にいる『彼』が心配するようなら、今のうちに連絡を入れておいてくれないか」


 視線は一切こちらを見ていないままであったが、その横顔だけを見ても表情にかなりの悲痛を孕んでいるということはなまえの目にも明らかであった。彼、とはもちろん沖矢のこと。そして、それはつまり赤井のことなのだが、依然として降谷の中では彼らが別の人物として認識されていることだろうと察する。そしてなまえは、そんな赤井と自分が別れを選択したという話を既に降谷が掴んでいるなどとは、当然ながらまだ思いもしていない。

 言葉を返せば「沖矢に連絡を入れたければ入れろ」という意を持つ降谷のその発言は、彼なりの虚勢も含んでいた。まるでずるくも彼女の任意を試すような行為で。もし、なまえが当然のごとく彼に連絡を入れるようなら、辛くなるのは降谷の方であるくせに。彼はわざわざ釘を刺すみたいに強がって、そう言わざるを得なかったのである。

 発進した車の中でなまえは彼に言われた通り、携帯電話を鞄の中から取り出した。画面をタップしてバックライトを灯すと、表示された時刻は既に十時をもうすぐ迎えようとしている。この時間に家にいない方が確かに最近では珍しい。

 秀一に連絡、か。なまえは心の中でそう呟きながら、ほんの最近までは仕事等で遅くなるときは必ずそうすることが決まりだったなと思い返していた。それは彼が準備する夕食の支度に差し障りがあるからで、赤井とわざわざ取り決めたルールというわけではなかったが、いつの間にか互いの中で暗黙の了解となっていた事項だったのである。今はもうさすがに以前のように食事を用意されているということはないけれど、それでも、家にいるであろう彼に余計な心配をかけてしまうかもしれないということは事実。だから、今すぐに連絡を入れた方がいいということは、深く考えなくともよくわかっているつもりでもあった。

 けれど、なまえはその小さな電子機器を大事そうに抱きしめるみたいに優しく両手で包むと、何の操作もしないまま、再び鞄の中にしまい込んだ。そして少しだけ寂しそうに、窓に垂れる雨を眺めながら降谷にこう返すのである。


「私も、今日は帰りたくないから」


 彼女のその発言は、降谷の胸を鳴らすには十分すぎるものであった。絶対、その意味わかってないだろ、って。どこまでも無意識に煽ってくる彼女に、今も昔も相変わらずもどかしい想いばかりを募らせている。

 家で話そうと言った理由は、これから彼女に打ち明ける話が絶対に長時間に及ぶとわかっていたからで、できればそれよりも先に、雨に濡れてしまった体をシャワーで温めて欲しいと思ったからだった。沿道の安いラブホテルに入るのは簡単だけれど、それはあまりに誠実ではないし。あの家に女性を招くのは初めてだが、それが降谷のことを公安だと既知しているなまえならもう申し分はないだろう。まあ、これから男の家に連れて行かれてしまうことに対してわずかでもいいから抵抗して欲しい気持ちもあるにはあるが。先述の通り、鈍すぎるなまえの場合はそれも皆無のようで、降谷には逆にそれがじれったかった。

 他方、なまえはそんな降谷の葛藤には当然気づかず、今までの空白の期間について彼から洗いざらい説明を受ける覚悟を既に決めていた。そこにどんな結末が待っていようともすべてを真正面から受け止めよう、と。そう決意する気持ちは、今までで一番、前を向いている。



case119a. 順を追って君に話すよ


 都内にあるマンションの駐車場に車を停めると、ふたりはよりいっそう緊張感を増したように押し黙りながら、未だ雨降る外界へと降り立った。建物名はメゾン・モクバ。どうやらここが降谷の住んでいる家らしい。彼は少し怖いくらい淡々と門扉を解錠し、有無を言わさず自室のある方向へと不乱に歩みを進めていく。けれど、決してなまえをないがしろにしたり、置き去りにしたりしているというわけではなく、その手にはきちんと彼女の小さな手が指を絡めて握り締められていて、彼なりにその大切さはきちんと誇示しているつもりであった。

 高校時代も含めて初めて降谷の家に来たなまえは、今さらながら自分がとても大それたことをしているのではないかと思っていた。よく考えれば、ひとり暮らしの男の家になんて入ったこともないし。相手はあの降谷なのでおかしなことにはならないとは思うが、今の彼女には、その彼を信じることくらいしか何もできることがなかったのである。

 けれど、実を言うと本当は降谷の方がなまえ以上に緊張していたのだった。こんな夜更けに女性を家に呼ぶなんて、男として過敏にならない方がどうかしている。それに、相手は十年来の好きな女だ。その彼女が自宅というプライベートな空間に、合意の上で立ち入る。それに緊張しないわけないだろ。

 降谷はなるべくポーカーフェイスを装って自室の鍵を開けるためにドアの前に立った。しかし、急に何かを思い出したように「あ」と短く声を漏らしたかと思うと、くるりとなまえの方を向いて一言話しかける。


「ドア、開けても驚くなよ?」
「え?」


 そう言うと、降谷は返事も待たずに扉を開けた。一瞬、そんなに部屋が片づいていないのだろうかとわずかに疑問に思ったが、開け放たれた瞬間、なまえはその意味を理解する。

 玄関先で出迎えたのは、見るからにやわらかそうで、白くてふわふわした幸せの毛並み。額に眉があるのが特徴的な、愛らしい一匹の小さな犬だった。


「か、可愛い……!」
「ハロっていうんだ。名前の由来はまた話す、けど……」


 なまえは張り詰めていた気持ちも忘れてその場にしゃがみ込み、降谷の飼い犬であるというその子を軽く持ち上げて、ぬいぐるみみたいにぎゅっと彼を抱きしめた。ハロは、大好きなご主人の帰宅と、自分を可愛がってくれる思わぬ来客に尻尾を振って喜び、甘えるみたいにぺろぺろと彼女の顔を舐め始める。その様子を見ていた降谷は正直羨ましいと思ったが、何を犬に嫉妬しているんだ僕はとすぐに呆れて気を持ち直した。


「……飼い主に似るって本当なんだな」
「?」
「いや、何でもない」


 ぶっきらぼうにそう言うと、あまりに癪なのでなまえからハロを奪って降谷は先へと進む。なまえはそれを追いかけながら、部屋の様子をきょろきょろと落ち着きなく見渡していた。ここが、零の家。そう思うだけで、ぶり返したような緊張感がドクドクと激しく胸を打つ。

 けれど、その濡れた足で進めるのは精々、洗面所までだった。降谷は風呂場に続く脱衣所のドアを開けて明かりをつけると、そこに有無を言わさず彼女を押し入れる。男のひとり暮らしとはいえとても清潔に使っているらしく、ふんわりと石鹸の匂いが香っていた。


「風呂はここだから。先に入って」
「えっ!? い、いいよ……! それより零の方が濡れてるし先に入ったら」
「僕は後でいいから。それより、なまえに風邪引かれたら困るし」


 困る。そう言われても。なまえは不服そうな顔で降谷をしばらく見ていたが、半ば無理やりそこへ押し込められてはもう逃げられない。風呂場にあるものは好きに使っていいだとか、タオルはその棚だとか。てきぱきと告げてくる対応に彼女は慌てながらも、やがて少しだけ溢すみたいに笑ってしまった。安室とは全然違う。それは、心配性でお節介な学生時代の降谷そのものだったからだ。


「……何、笑ってるんだよ」


 それに気づいた降谷は罰が悪そうに言う。なまえは首を振った。


「ううん。やっぱり零だなあ、と思って」


 そう言った彼女の表情は、降谷のすごく好きな顔で。こっちの気も全然知らないで、ずっと変わっていない彼女の様子に「馬鹿だな、当たり前だろ」と可愛げのない悪態をついてしまう。そのやり取りがあまりにも懐かしくて、互いにきゅと胸が鳴る音が聞こえたような気がした。




 結局、なまえがシャワーに入った後、自分のことをないがしろにしてまで濡れたまま話を始めようとする降谷を何とか説得して風呂に入れ、なまえはその間に部屋の隅に小さく座って、彼に出された飲み物を含むみたいに飲んでいた。出されたのは、紅茶とかコーヒーじゃなくて、安心するような暖かい日本茶で。それがとても彼らしくて、つい口元が緩んでほっこりしてしまう。

 借りたスウェットは、袖口や裾がことごとく余って不恰好にももたついていた。それを下がるたびに何度も捲り上げつつ、興味津々に近寄ってくるハロをなまえは優しく撫でながら、ぐるぐると目線だけを動かして尚も部屋の中を一瞥する。思っていたよりも随分と簡素な部屋だった。清潔感があって好感は持てるが、あまり余計なものがないといった印象で。娯楽面であるものといえば、ギターくらいだろうか。ふるさとが懐かしい。

 この部屋で彼は日々、何を思い、どんな生活しているのだろうか。なまえはひとり切なく、その生活ぶりに想いを馳せていた。音信不通になってからはなまえも孤独だったけれど、降谷もそれは同じだっただろうと今さらながら思う。いや、彼女が電話をかける度に、逆に自分は彼らを追い詰めていたかもしれない。そう考えると、途端に申し訳なくて。なまえは「はあ」とその場で小さなため息をついた。

 そのうちに本棚の一番最下層に、見覚えのある一冊のアルバムを見つけた。なまえは気持ちよさそうに撫でられているハロに一度「ごめんね」と断りを入れてから立ち上がり、それに手を伸ばす。

 それは思った通り、いつの間にかなまえの部屋から消えてしまった薄黄色の分厚いアルバムであった。埃は被っていないので、定期的に降谷が見ていたのだろうか。そう思いながら開けば、途端に溢れんばかりの笑顔の写真たちが視界に飛び込んできて。なまえの手は思わず少し震えてしまう。

 なまえ、降谷、そして景光。何も知らずに心から幸せを噛み締めるように美しい日々を送る三人が、自分の過去であるはずなのに羨ましくて仕方がなくなる。すると、背後から足音がして。気づけば降谷がバスタオルで髪を拭きながら、彼女の背後に立っていた。


「それ……」
「うん。これ、私のアルバムだよね?」
「ああ。さすがにないことには気づいてただろ? でも、言い訳するみたいになるけど、盗もうって言ったのは実はヒロの方なんだ」


 降谷はそう言うと、ひときわ寂しそうに笑った。その笑みが、今はある意味でなまえにはとても怖くて。アルバムをぎゅっと抱きしめると、彼女は静かにこれから聞かされるであろう話への心づもりをしていた。

 一方の降谷は、彼女の態度の中でひとつだけどうしても気になっていることがあった。それは何もこの家に入ってからではなく、雨の中、車内にいたときから。安室が降谷だとわかっているなまえなら真っ先に尋ねてくるだろうと思っていたことを、彼女はなぜか頑なに聞かなかったのである。

 それこそ、彼らのもうひとりの友人である「景光」のことであった。


「何も聞かないんだな、ヒロのこと」


 逆に降谷はもう、自分の聞きたいことを我慢したりはしなかった。部屋の大部分を占めるベッドに背をもたれるようにして座り、そして優しい顔でぽんぽんと隣を叩いてなまえを呼び寄せる。裾を気にしながらおずおずと従うように腰掛ける彼女がとてつもなく愛しい。

 降谷はぼんやりと自分の予想が外れてしまったのかもしれないと思っていた。それはあの日、江戸川コナンが証言した「なまえは自分と同じくらい安室のことを掴んでいる」という趣旨の発言。その言葉の裏に見た、景光の件についてである。コナンの口から「諸伏景光」及び「スコッチ」という単語が出ていないことから考えてすっかり安心しきっていたのだが、きっと彼女はもう知っているのだろう。彼がこの世にいないことを。そう思って、降谷は真相を話すために口を開く。


「それとも、もう知ってるのか? ヒロが、赤井秀一っていう男に殺されたこと」


 しかし、その発言はなまえにとってあまりにも想定外すぎた。それは、景光が生きていないということにではない。このタイミングで「赤井秀一」の名が彼の口から出たことに。そして、その彼が親友を殺したということに。ぐらぐらと視界が揺れるくらい激しく動揺してしまったのだった。

 降谷と違って景光が生きていないのではないかとなまえが本格的に疑い始めたのは、実は三年ほど前のことであった。なぜなら、降谷の携帯電話にかけたときとは明らかに違って、景光の番号はコール音がせず、使用すらされていなかったからである。安室透として彼に出会い、そして彼が降谷だとわかって、その証拠は悲しいことに増すばかりだった。彼らがふたり同時に現れないことが、逆に景光の死を暗黙に語ることになっていたのである。

 おそらく彼は降谷と同様に公安警察に所属し、何らかの任務の途中で殉職してしまった。信じたくはないが、その可能性もなまえは確かに考えていたのだった。

 しかし、そこで赤井の名前が出てくるとは思いもしていなかった。しかもその彼に親友が殺されたという、ただならぬ話に理解が追いつかない。

 一方、言葉を失っているなまえに対し、降谷はきちんとその動揺を肌で感じ取っていた。そして、彼女にとって非常に酷な話になることには違いないとは思いながらも、自分たちの空白の期間について語り出すのである。


「順を追って話すよ」


 そうして遡るのは六年前のこと。警察学校を卒業し、公安への配属が決まったあの頃のことだ。

 - back/top -