50…
もはや慣れた道である五丈の森を抜け、館に到着した時点で高明は目の前のあまりの光景に言葉を失ってしまっていた。パチパチと火の粉が爆ぜるほど館が轟々と燃えていたからだった。おそらく直木氏の死と同様、犯人によって先手を打たれてしまったのだろう。被害者の明石周作が残したあの赤い壁のダイイングメッセージを先に解き明かし、その謎を今後ヒントとして我々に与えないよう慌てて炎で覆い隠してしまうために。
だが、その衝撃はすぐに他の衝撃で上書きされてしまった。なぜなら館の傍に見知った車が一台。なぜか人目から隠れるように雑木林の中で停車しており、それが間違いなく自分のよく知る人物のものだと気付いたからだった。
「まさか……」
この中に、なまえが。そう思ったときにはいてもたってもいられず、高明は携帯電話で彼女を呼び出しながら恐れもなく業火の中に飛び込んでいった。館に行くなら連絡してと言っていたのに何度電話しても連絡がつかず、病院内にでもいるのだろうと無理矢理納得していた自分が恥ずかしくなる。やはり自分の第六感を信じるべきだった。
彼女がいるとすれば、きっとあの赤い壁の部屋に違いないと思い、まだ火回りの遅い裏口を選んだのが功を奏した。呼び出し音を頼りに館の内部を捜索しようとした矢先に微かな音が聞こえてきたのはなぜか三年前に小橋葵が亡くなっていた外にある倉庫からで、いち早くそちらの方に回ることができたからだった。
「なまえ!」
嘘であって欲しいと願いながら倉庫内に飛び込むと、そこには無惨な状態で倒れ込む彼女の姿があった。高明は飛びかかるように駆け寄り、冷たくなっている彼女の半身を抱き起こす。何者かに頭を殴られて出血がひどく、むやみに揺り動かすことは危険だが、ここで倒れていては今にも炎が襲ってくる。この倉庫内は館と比べてまだ火の回りもマシなようだが、そこかしこから油の匂いが充満していていつ爆発や突然の延焼を起こしてもおかしくはなかった。
「何があったんですか!? どうして」
そうだ、そもそもなぜ彼女がここにいるのだろうか。風邪気味だから朝イチで病院に行くと言われて。いや、その電話を受けたところからよく考えればおかしかったのかもしれない。起き抜けの声で「おはよう」という挨拶も、今思えば泣いていたようにも聞こえて。もしかしてと高明がひとつの仮説に行き当たったとき、うっすらと希望の光が差すように彼女の美しい瞳が開く。
「なまえ!? しっかりしてください! すぐに救急車を……!」
「た、かあきくん……?」
彼女の乾いた唇が必死に音を紡ぐ。
「あの、ね……今朝、私ね。あの部屋で、高明くんが犯人に殺される夢を見たよ」
「っ!?」
「でも、ごめん。犯人の顔、見えなかった」
そう言うと、なまえはまるで少しミスをしたことを誤魔化すみたいに軽くヘラりと笑っていた。やはり高明が先ほどその仮説に行き当たった通り、彼女は見たのだ。この事件の予知夢を。そしてその夢で見た悪意が自分にではなく、先回りした彼女に向けられた。運命の掛け違いのせいで。
「馬鹿なんですか!? どうして。約束したでしょう!? 事件に関係する夢を見たら絶対に教えるように、と。あれだけ念押ししたのに、なぜ……!?」
「なぜって……。そんなの、決まってるじゃない」
「……?」
「だって、約束したもん。高明くんのこと助けるって。その約束よりも、ずっとずっと昔から」
なまえはまるで当然のことを言うようにそう言ってのけるので、高明はまたも言葉を失くしてしまった。そして「約束守れてよかった」と呟いて再び眠るように瞼を閉じようとするから、脳に衝撃を与えてしまうかもしれないという可能性も忘れて再び彼女を激しく揺さぶり起こしてしまう。
「なまえ! いやだ、目を開けてください。まだ君に言えてないことがあるんです、だから……っ!」
「……」
「僕は、君のことが……!」
そう言いかけたとき、なまえの手が彼の頬に伸びた。その冷たさに驚き、高明は目を見開いてしまう。
「なんだ、高明くん」
彼の頬を柔らかく拭ったその親指には、暖かな水滴がついていた。
「泣き方、知ってたんだね」
そう言って弱々しく笑うとなまえは安らかに目を閉じ、手もそれきり力なく落ちてもう動くことはなかった。轟々と燃え盛る炎が、すぐそこまで迫ってきている。なのに無情にも熱を失っていく彼女の冷たい頬に、ぼたぼたととめどない雫が落ちた。この地獄はなんだ。割れそうに痛む心はなんだ。自分の指の隙間から今にもこぼれていくような命の粒を、何もかもかなぐり捨ててでも必死にかき集めたい衝動に駆られる。けれど、実際にはもうどうすることできないくせに。
好きだと言えないまま、愛しい人が死んでいく。大きすぎる絶望に打ちひしがれ、その小さな体を抱きしめたまま、高明はその場から一歩も動くことができなくなってしまっていた。ただ悪い夢なら早く覚めて欲しい、と何度も何度も心の中で強く願う。覚めろ、覚めろ、覚めろ! 彼女が夢で見た本来の通り、自分の方が殴られて死んだって構わないから。頼むからこの子だけは見逃してほしい。いつも健気で、愛しくて、自分の命よりもずっとずっと大切なんだ。だから。
どこにも連れて行くなと、いるかどうかもわからない神に必死で願った。そこで世界は暗転する。
Phase.46 運命の掛け違い
気が付けばもうよく見慣れた新野署にいて、なぜか多くの人間に囲まれていた。いつの間にこんな場所にいたのだろうと記憶を辿ってみるも、何もかも曖昧でよくわからなくなる。ただ、自分の命よりも大切だと思っていた人の死がこんなにもつらいとは思わなかった。一緒に勉強をして、キラキラ笑って、時々可愛がりすぎて怒らせた大切な彼女はもういない。唐突すぎる、あっけない別れだった。
隣には署長である恰幅のいい男が自分を見て誇らしげに微笑んでいた。何がそんなに嬉しいのかと、僻む気持ちで見つめていれば、署長は笑顔で全員に向けてこんなことを言い始める。
「えー。こちら、県警本部から移動になった諸伏くんだ。有名人だからみんな知っているとは思うが、ここと本部はずいぶん勝手が違うだろう。皆で協力して、彼が早く馴染めるようによろしく頼む」
何を言っているんだ彼は、と未だに理解が追いつかず、一同から注目を浴びているにも関わらずただぼんやりと突っ立ってしまう。しかし、集められた集団にも、その後の一塊のような返事にも、署長の台詞にすら確かな覚えがあった。
これはもしかして新野署に配属になった初日の挨拶じゃないだろうか?
そう思った瞬間、あのときと同じように集団の後ろの方でこちらを驚いた表情で見つめるなまえの姿があった。当時は嫌われていて当然だと思って気まずくすぐに視線を逸らしたが、今度はまるで彼女に縫い止められてしまったかのように視線が外せない。彼女が無事で生きていることがまだ信じられなくて。
「諸伏くん?」
何がどうなっているのかはわからない。ただ、理解できたこと。それは、先ほど見たあの館での出来事が長すぎる予知夢だったのかもしれないということだった。どうして彼女の体質がいきなり自分に移ったのか、その理由は今考えてもよくわからないが、これはきっと運命の掛け違いで得た好機であると思う。もう絶対に失わない。彼女を死なせたりしない。
高明は強い瞳でなまえを捉えていた。そして“前回”のようにすぐに視線を逸らしたりはせず、その目を見つめたまま一直線で彼女の方へと進んでいく。
「えっ?」
「ちょっといいですか」
そう言って高明は堂々とその場からなまえを連れて飛び出した。困惑気味な彼女の手には確かに体温がある。それだけで今は言い表すことができないほど幸福だったのだ。