49…
館は既に誰からも見捨てられたかのようにひっそりとしていて、まるで死んでいるみたいに静かだった。私は死体発見現場である赤い壁の部屋に入り、夢でそうしたように周囲を注意深く観察する。しかし、その意味合いは夢の中と少し異なり、一刑事として立派に事件の手がかりを探すためだけではない。必死になって探しているものは、これから高明くんを殺害しにくる犯人に抗う方法が何かないか、だ。
夢の中の高明くんは白い椅子に座って壁を見つめながらしばらく考え事をした後、急に何かを閃いたように立ち上がって再び周囲を見渡し、誰かにメールを打ち始めたのだった。その内容は「死せる孔明」。その後すぐに背後から襲われたことで幽霊のように傍観していた私は気が動転して、そのメールの内容が彼のあだ名である「コウメイ」にかけて、自分はこれから殴られて死んでしまう、という意味を誰かに伝えたかったのかと思った。だが、ここに来る前に冷静になって考えてみればおそらく彼が襲われたことは彼自身も想定外の出来事であり、「死せる孔明」とはこのダイイングメッセージの謎が解けたことを誰かに教えるためのメールだったのではないかと思う。もしそうであれば、その句の続きは「生ける仲達を走らす」に違いない。
“死せる孔明、生ける仲達を走らす”とは三国志に登場する有名な故事だ。蜀の軍師、諸葛亮孔明は魏軍である司馬仲達との闘いの最中に病死してしまい、それを聞きつけた魏の軍勢が追撃を開始した。だが、蜀は怯むことなく反撃の構えを見せ、それを見た魏軍が孔明の死は謀略であると勝手に恐れ、撤退したというエピソードに基づく。つまり、生前の威風が生きている者を恐れさせるという例えである。
もしそうなれば、その死せる孔明に当たる人は、この事件の場合、被害者の明石周作さんということになり、逆に仲達に当たる人物は犯人ということになる。けれど、それを踏まえてもう一度、この壁を見つめてみても、残念ながら私の頭脳では赤い壁の謎を解くヒントにはならなかった。
あれこれ唸りながら考え事をしていると突然、私の携帯電話が鳴り出す。確認すれば、着信相手は高明くんからだった。
「はい、もしもし」
「諸伏です。大丈夫ですか、風邪」
「あ、うん。平気」
私は心配そうな彼の声を聞いて一瞬は嘘をついた罪悪感で満たされたが、今の行動を隠すためにすぐに気持ちを持ち直す。そして、白い椅子に座って先ほどの続きとばかりに赤い壁のダイイングメッセージを検討しながら彼の話を聞こうとした。しかし、それはすぐに打ち消さなければならないほど、衝撃的な話が私を襲ったのだ。
「実は。宣言通り今朝、直木司郎氏の部屋に行ったのですが……大変申し上げにくいことに彼が何者かによって殺害されていました。部屋の壁を赤く塗り潰されて」
「ええ!?」
「しかしこれではっきりしたことは、必ず残りの彼ら三人の中に犯人が含まれているということです。館の壁が赤く塗りつぶされていたことを知っているのは、捜査関係者を除いて彼らだけなので」
容疑者四人の中で最も怪しかった直木氏が殺されたことで、悪戯に事件を振り出しに戻されたようなもどかしさが募る。しかし、第二、第三と事件を起こせば起こすほど、痕跡は蓄積されていくはずだ。それが犯人の首を絞める手がかりになっていけばいい。
「これからもう一度、残りの三人の聞き込みに出ます。もし来られそうなら連絡してください。体調が心配なので本当は休暇をとって欲しいくらいですが、出てくるようなら僕が迎えに行きます」
「ありがとう。でも、大丈夫。そっちはそっちの捜査に尽力して」
「……承知しました。また連絡します」
そう言って彼は短く別れの挨拶をすると電話を切った。そして、私は再び赤い壁と対峙し、先ほど聞いた第二の事件も踏まえてこの謎を解こうと考えを巡らせる。
「赤く塗られた壁か……」
この館の壁を塗ったのは被害者の明石さん以外に考えられないが、一方で直木さんの部屋の壁はおそらく犯人が殺害後に塗りつぶしたと考えられた。第二の事件が衝動的犯行か計画的犯行かは現場すら見ていない私には判断もつかないが、殺される前の直木さんが目の前で赤く塗られる壁を黙って待っていたとは考えにくいからである。なら、どうして犯人は直木さんの部屋の壁まで赤く塗る必要があったのだろう。それほど自信があったのだろうか。この壁を見ただけでは、自分には辿り着けないという自信が。
「結局、やっぱり何の役にも立ってないな。この予知夢体質……」
そうひとりごちて笑えるくらい、私は事件に対してとても無力だった。だからせめて高明くんを助けるためには有効的に使わないと。彼に手柄を上げさせて早く本部に帰してあげるためにも、彼に傷ひとつつけてはいけないのだ。
今日は署に立ち寄っていない分、拳銃は所持していなかった。あるのはいつの日かバッグに忍ばせていたのと同等の催涙スプレーだけ。でも、同じ轍は二度と踏まない。刑事として絶対に犯人を取り押さえてみせる。思い出すだけでゾッとする、あの、夢の中の高明くんに報いるためにも。
Phase.49 恨む、神様
『ありがとう。でも、大丈夫。そっちはそっちの捜査に尽力して』
普段通りの声色でそう言っただけの彼女だったのに、なぜか高明は電話の後、ひどいくらい心配になって異様に大きな焦燥に駆られてしまっていた。連日の捜査で疲労も蓄積し、おそらくそれで風邪を引いてしまっただけだと思うのに、なぜか嫌な予感がしてしまう。だが、目の前に考えるべき事件が山積しすぎていて、その心配には否が応でも目を背けざるを得なかった。今日はもう休むと無理矢理にでも言わせた方がまだ、安心できたかもしれないのに。
直木司郎氏の部屋で再び大和から監視の目としてあの白眉の少年をつけられそうになったとき、高明は蹴落とすようにそれを断って、得意の単独捜査に飛び出していた。一刻も早くこんな事件を解決して、なまえに想いを伝えたい。早く楽になりたいとすら思うほど、もどかしい愛しさばかりを募らせる我慢はもう限界なのだ。仕事以外でも彼女に会う口実が欲しいし、幼馴染なんて綺麗事の役は未練なく捨て去って、誰の目も気にすることなく堂々と彼女に触れたい。そして本部に戻る際に、ともに連れ出してやりたいのだ。彼にとっての「最善」の方法での本部復帰とはもちろんそういう意味で。でないと、あの様子で放っておけば新野で見ず知らずの男と結婚するだなんて言いかねない。そんなこと、自分の気持ちを理解した今の高明には許せるわけがなかった。
もはや閉じ込めて誰の目にも触れさせたくないくらい気持ちがどんどん加速していることを、高明は自分でも困惑していた。なのに、実際は次々と事件が起こって、まるで見えない力によって彼女との仲を阻まれているのではないかと思う。まあ、昨日聞いた彼女と小橋葵の話に運命だと口にした通り、阻まれることも運命であるならば致し方ないのかもしれないが。しかし、時折「運命」とはとても残酷であることを彼は多くの事件で既に知ってしまっているから。
とにかく、今はまだあの壁の謎も解けていないのだ。気持ちばかりが焦っても仕方ないだろう。高明は残った容疑者三人への聞き込みが終われば、もう一度、あの館に行くことを決めていた。そこにもし彼女が来てくれるのなら、自然に落ち合って、知恵を出し合いたいと思う。刑事としては割にしっかりした顔をするなまえが傍にいてくれるだけで、落ち着いて物事を考えることができそうだから。まるで、図書館で勉強を繰り返していたあの頃のように。
部屋の中にいるばかりでは気が滅入りそうだったので、私は気分転換に考え事をしながら館の中を自由に散策してみることにした。まず入ったのは、葵さんの部屋。彼女の結婚後に何度かお邪魔したことがあるその部屋は、ごっそりと本が無くなっている以外に特に変わった点はない。よく、故人の部屋をそのままにしておくと、魂がこちらに残って成仏できないなどとスピリチュアル的なことを言われたりもするが、身内のいない葵さんにとって唯一の家族である夫の明石さんの意向が、私は最も大切だと思う。アトリエにこもって半日放置してしまった、と署に保管されてた調書には書かれていたが、何もそれは彼が葵さんを別に愛していなかったからではない。亡くなって三年も経つのに、まるでほんの最近まで使っていたかのように美しいままで維持されているこの部屋が何よりの証拠だと感じた。
次に向かったのは、葵さんが亡くなった館の倉庫だった。倉庫は建物を出てからしか行くことができず、しかもちょっと回り道をしなければならない。私はこの際、館の外周をぐるりとひとりで回ってみる。途中、明石さんの亡くなった部屋にある割れた窓が外側から見え、この草むらに画材道具が落ちていたのだと確認した。そして見えてきた倉庫の厚い扉を引いて、古い埃の匂いを開け放つ。そこは、明石さんが描いたと思われる絵画でいっぱいだった。
一歩進めば、まるで画廊の中を歩いているようだった。葵さんは毎年誕生日になると、明石さんから贈られた自画像を飾るのが恒例になっていたという。彼女がここで亡くなる数時間前、見つからない自画像の行方を尋ねるために、あの容疑者たち四人にも電話していたことは調書で明らかになっていた。しかし、誰もその行方を知らず、葵さんは持病の心臓発作で息を引き取ったというわけである。
私も同じように膨大な絵画の中から、葵さんの絵を探してみることにした。カバーがかけられているものをめくったり、重ねられたものを汗をかきながら移動させてみたり。しかし、彼女の自画像はおろか、人間が絵描かれたものなど一枚もなく、私は休憩とばかりに汗を拭って倉庫内を広く見渡せる位置に立ち、腰に手を当ててため息を吐く。この中からたった一枚を見つけるのは確かに大変で、心臓が弱い彼女にはかなりの負担だっただろうと容易く察した。
携帯電話で確認した時間は、高明くんから電話があってからもう二時間半も経過していた。そろそろ聞き込みが全員分終わった頃だろうかと思い、電話を鞄の中にしまう。その際、指先に例のスプレーが当たってカチンと音を立てた。
本屋強盗のときは上手くいかなかった反撃も、今回は刑事になって大人になった分、上手くいく自信があった。私は一度スプレーを取り出して眺め、頭の中で使い方を反復練習する。聞き込みが終わったら、容疑者たちが本格的に動き出してもおかしくはない。邪魔なコウメイを始末するために移動を始めている頃だろう。そう思い、いよいよ私もそれを迎え討とうと赤い壁の部屋へ戻ろうとしたとき、背後で何者かが砂利を踏む音が聞こえた。
「え?」
たった一瞬の出来事だった。瞬間的に構えたスプレーも虚しく、後頭部に感じたことのない大きな衝撃が走り、私は力なく前へと倒れ込んだ。カラカラと転がっていくスプレー缶の音だけがまるで遠い夏の風鈴みたいに、虚しいほど寂しく聞こえる。殴った犯人を見ようと必死で頭と目玉を動かしたけれど、最悪に最悪が重なるように仄暗い倉庫と外が逆光になってその顔は見えない。油断した、と思った。殴られるのは何も赤い部屋だと決まっていたわけじゃなくて、どこにいてもその可能性はあったのに。
頭は燃えるように熱いのに、次第に体の、特に端の方からはカチカチに凍りついていくように冷え固まっていく感覚が襲ってきた。ぬるりとした生暖かい血が横たえた顔半分にべったりとついて。その血とともに、体温が急速に自分の体から逃げていくような気がする。死というものをはっきりと意識したのはそれが初めてのことだった。
やがて犯人は何を思ったのか、たくさんの絵画に何か水のようなものをかけ始めていた。それが匂いで灯油だと分かった途端、私は込み上げてくる笑いを抑えられず、いつもの神様をいつものように恨む。
だから毎回言ってるじゃん。大事なところまで、ちゃんと夢を見せてよって。
駄目だ、もう眠いかも。そう思い、私はゆっくりと眠るように目を閉じる。最期に高明くんに会いたい。その夢だけはどうか叶えて。お願い、神様。