もの
チェ・スソンを救うことができたグソンの犯罪係数は急降下し、今ではアンダー100なのだという。スソンに関しても彼女は元々清らかな性格の持ち主であったため、当然アンダー100のクリアカラーだ。ネックなのは不法移民という点で、そのために彼らは廃棄区画で生活をせざるを得なかった。スソンに関しては平和ボケとは別の意味で心が綺麗なので、騙されたり事件に巻き込まれる可能性のある廃棄区画を歩かせるわけにもいかず、彼女はほとんどを家で過ごしている。時々グソンとドライブをすることもあるようだが普通の家族のように出かけたりショッピング等をすることはできない。彼女自身は何も不満に感じていないようだが、グソンは年頃の妹をずっと室内に閉じ込めておくのは可哀相だと思っているようだった。なまえが以前スソンに聞いた時も彼女は兄様と姉様が一緒にいてくれるから平気だと答えていたが、その兄と姉からすればやはり不憫に思えてしまう。なまえは今では自宅にはほとんど帰らずほとんどグソンの家で過ごしている。幸い、彼の家はそれなりに広さはあったので掃除をすれば一室確保することはできた。今ではどんどん彼女の物が増えている。グソンは自宅での仕事もあれば、槙島からの呼び出しやその他の取引で家を空けることもあり、そういうときのスソンの話し相手はなまえだった。グソンほど年齢の離れていないなまえはスソンにとって本当の姉のようで、はじめのころは少々慣れなかったなまえもすぐに仲良くなった。女同士ということもあるのか、今ではグソンに言えないこともなまえには話すようになっていた。
スソンの淹れたハーブティーを二人で飲みながら槙島がくれた紙の本を読んでいるとふとスソンが口を開いた。
「兄様は今日は何時ごろお帰りになるのでしょう」
今日の仕事というのは確か槙島絡みのことだったな、と頭の中で思い浮かべる。グソンはなまえには仕事や槙島との話をするがスソンには隠していた。もちろん彼女は自分の兄が何か危険なことを生業としていることには気づいているが、グソンがそれを隠したがっていることにも気づいていたので気にしていないふりをしているのだ。しかし、たった一人の大切な兄のことだ。本当は心配で仕方なかった。それを唯一言えるのがなまえで、なまえにもグソンの仕事の詳細は聞かなかったけれど時々それとなく訊ねてくる。なまえもそれをわかっていた。
「少し遅くなるかも」
「そうですか…」
「でも今日は危ないことはないから、大丈夫だよ」
「それなら…良かったです」
なまえの言葉に少し安心したように微笑んだ。グソンの今日の仕事はエグゾゼでクラッキングをすること。公安局からは姿が見えない場所にいるし、脱出ルートも確保してある。いくつもの命がけの任務を成功させてきた元工作員からすれば簡単なことだ。けれど、このまま槙島のもとにいればそのうち危険が迫るのも確かで、スソンのためを思うならこのままでいるのは良くないというのはなまえはもちろん、グソンもわかっていた。それでも抜けられないのだ、一度この世界に入ってしまうと。一度、槙島のもとに行ってしまうと。なまえはもどかしさを感じつつもスソンには安心させるように笑みを浮かべた。
数か月後―――――
ヘルメットによる暴動が起きると意外と廃棄区画のほうが治安はマシという逆転現象が起きていた。何しろここの住人の多くは犯罪係数が高い一方できちんとコミュニティを築いているし、防衛手段を心得ている。そのためなまえたちの暮らす廃棄区画ではヘルメットの目撃情報は無いままだ。しかしスソンを外に出すのはやはり心配だという兄の意見もあり、彼女は依然としてほとんど室内にいる。なまえもそれは同じでここ最近は週に1,2回短時間だけしか外に出ていない。だが、今日だけはそうもいかない。普段は入らない物置部屋から出てきたなまえをスソンは心配そうな不安気な瞳で見つめた。
「姉様、どこかへ行くのですか?」
「うん」
「…それは、どこですか」
「グソンのところ」
「兄様に…何か…」
スソンの目が不安そうに揺れた。なまえは以前までなら槙島の友人でもあったのでグソンの仕事場に行くこともあったが、スソンが来てからというもの、彼女は一度もグソンの仕事に同行することはなかった。そのなまえが今日はグソンのもとへ行く。そのことでただ何となく不安だったものが確信へと変わっていくのをスソンは感じた。
「何かあったら困るから行ってくるだけ、大丈夫」
「でも…でも、もし何かあったら…」
安心させようと微笑んでみても今までに無いほど不安と動揺を露わにするスソン。その姿を見るとなまえは彼女にも自分が魔女であることを伝えるべきなのだろう、と思った。まだ時間はある。
「スソン、よく聞いてね」
「はい…」
「私はね、魔女なの」
「魔女?それは…お伽話に出てくるような?」
「そう。良い?よく見ててね」
そう言うとなまえは籠いっぱいの杜若をスソンの前に作り出した。目を大きくして驚くその可愛らしい姿に思わず笑みがこぼれる。
「手品じゃないよ、魔法なの。私には魔法があるから大丈夫、ちゃんと戻ってくる」
「…わかりました」
戸惑いつつもスソンは頷いてくれた。なまえも強く頷くと玄関に向かって歩き出す。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ、姉様」
まだ少し不安そうだったが、スソンに手を振ってなまえは外へ出た。
暗くなった外の街をノナタワーに向かって進む。距離が少しあったので適当に停車していた車のドライバーを一時的に操ってノナタワーまで送ってもらった。タワーのエントランスには大型バスの他に公安局のパトカーもある。グソンの現在地をデバイスに表示させると地下20階が表示された。もう最深部まで到達しているようだ。なまえは時々魔術を駆使しながらグソンがいるであろうところへ向かった。薄暗くて無機質なその空間を慎重に、けれど急いで進む。その途中、階下に人影を見つけた。女―――の、義体。あれは禾生壌宗か。なまえは小声で詠唱するとその人物に向かって手をかざした。すると禾生壌宗はこちらに気づかないまま全ての機能を停止させ、ピタリと止まった。手に持ったドミネーターの青いランプも消えている。その横を通り過ぎてさらに地下深くへと潜ると眩い光を放つシェルターのようなものが見えた。扉は開いている。グソンはあの中だ。なまえも慎重に中へ入る。
「グソン」
シビュラシステムの動画を撮るグソンに声を掛けるともう一人、執行官の縢秀星もなまえのほうを向いた。
「だ、誰だアンタ!」
縢は使えもしないドミネーターをとっさに構えるがなまえはそれを無視してグソンへ呼びかける。
「グソン、帰ろう。今日で終わりって約束でしょ」
「……そうだな、帰ろう」
グソンは動画撮影をやめて携帯端末をポケットにしまうとなまえと共に二人並んで歩きだし、地下の暗闇へと進んだ。
さらにXXXか月後――――
「あ、ここシャワー強い!」
「セキュリティはもっと強化しておくべきだな」
「兄様、姉様、素敵なバルコニーがありますよ」
三人は梱包された家財に囲まれながら家中を見て回った。なまえはバスルーム、グソンは玄関や窓、スソンはバルコニーをそれぞれ見ている。築年数はそこそこあるがリノベーションをしているためホロがなくても十分綺麗な内装のマンションだ。間取りは3LDKなので三人がそれぞれ部屋を持てるがグソンの仕事道具や装備品を収納する部屋はないので、彼の部屋にすべて詰め込むしかないだろう。だが、誰も文句は言わなかった。文句など無かったのだ。
ノナタワー襲撃以降、グソンは槙島とは手を切った。スソンが傍いる今、シビュラを暴くことやこの世界を混乱へ陥れることはもはやどうでも良くなっていたのだ。それよりも妹と平和に暮らすことが大事だった。槙島は残念がってはいたが引き留めることはしなかった。それからは少しずつ悪い連中との取引を終わらせ、なまえはグソンとスソンが正式に日本での居住を認められるように少々ずるいことをしながらも根回ししておいた。それがついに実を結んだのだ。きちんと戸籍が作られてから、はじめてシビュラの庇護下の街並みを見たスソンは目をキラキラさせていて、その顔を見れただけでもグソンとなまえはとても幸福な気持ちになった。それから新しい我が家。これまでは廃棄区画の外とは遮断されたセキュリティを重視した閉鎖的な家だったが、ここは打って変わって大きな窓がたくさんあり、日当たりの良いバルコニーではスソンが嬉しそうに太陽の日差しの下でくるくると回っている。その姿をグソンは眩しそうに見つめていた。
「嬉しい?グソン」
「当然だろ、今でも信じられない。俺は夢を見ているのかな…」
「夢じゃないよ」
日光の下のスソンを二人で眺めていると、スソンも視線に気づいた。そして少し声を張ってなまえに言う。
「姉様、このバルコニーを杜若でいっぱいにできませんか?」
「いいよ、待ってて!」
なまえはグソンの隣から離れてバルコニーへ向かう。そして詠唱をしてバルコニー全体に手をかざすとたちまち一面が杜若でいっぱいになった。紫色の海の中で笑い合うなまえとスソンの姿を見ていると、グソンはふと自分の頬を涙が伝うのがわかった。自分でも不思議でなまえたちに泣いているのを見られまいと後ろを向くとスソンの本が梱包された箱が目に入った。一番上には花の図鑑がある。以前の廃棄区画の家にもどこで入手したのか籠に詰められた杜若があったのだが、スソンは杜若が好きだったのだろうか…そう思って索引から調べて杜若について書かれたページを見つけた。五月から六月の花で日本では古くから栽培されていたというその花の説明書きの最後には花言葉が書かれていた。
「そう、か…そうだな」
確かに俺は今これ以上ないほど幸せだ。グソンはそう思った。
「兄様も杜若がお好きですか?」
「スソン」
気付けばバルコニーにいたはずのスソンは隣にいて、一緒に図鑑を覗き込んでいた。スソンは杜若の花言葉の文字を指でなぞりながら微笑む。
「前のお家にあったものは姉様からいただいたんです」
「そうだったのか…なまえが」
バルコニーを見るとなまえはしゃがんで杜若を眺めている。本当に俺たちはなまえに幸せをもらったな、と改めて思う。スソンさえいればそれだけで十分だと思っていたが、なまえはそれ以上の幸せをくれた。自分にこれほどの幸福が訪れることなど予想も想像もしていなかった。幸せになんてなってはいけないと思っていたというのに。
「兄様、とても嬉しそう」
「嬉しいよ。嬉しくて、すごく幸せだ」
グソンはこれ以上ないほどすべてが満たされているのを感じていた。
あなたを救う 大事な人
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