あなたの
グソンの部屋は機械だらけで無骨で温かみがない。槙島さん家のようにモデルルームのような部屋というわけでもない。グソンが過去に行って一か月。ちゃんと生きているだろうか。妹を守ろうとして死んでやしないだろうか。槙島さんにグソンは過去に行ったと伝えたら少しの沈黙のあと長い長い溜息を吐かれた。この人もこんな風に溜息吐くんだなぁと意外に思った。私が槙島聖護の心を操っているというのは嘘だ。人の心というのは複雑で一時的になら心を操れても、それが長期間となるとなかなか難しい。だから槙島さんと親しくなったのは自然なものだったと言えるのかもしれない。まぁ、彼からしたらいくら私という人間の本質が凡人であろうと魔女という特典が付与されているので、それだけで興味深い人間なのだろう。槙島さんに呼ばれて訪れた泉宮寺邸の一室はグソンの部屋とは真逆の懐古趣味の重厚感のある内装だ。間違っても電気ケーブルなんて散らばってない。槙島さんは部屋によく合った豪華な四人掛けソファに座っていて、私はその向かい側の一人掛けソファに座っている。家主の変態じいさんはこの部屋にはいない。私はあの人が苦手なので顔を合わせなくて良いことにほっとした。
「グソンが過去に行って一か月、か」
「はい」
「前にも聞いた気がするけど、君は本当にグソンのためにこの世界に来たのかい?」
「そうですよ」
「いくら魔法が使えると言っても君にだって危険はあるはずだ。見返りだってないのになぜそんなことをしたのかな」
なぜ。言われてみると、うまく言葉が見つからない。もちろん、グソンのことは好きだ。これは異性としてというより人としてのもので、彼にとっての幸福に私自身は関わらなくても良いと思っている。私はきっと彼が幸せになったら純粋にうれしいと思うだろう。けれどその感情だけではない。何て言えば良いんだろう。槙島さんなら丁度良い言葉を知っているのだろうか。ああ、私には見つからない。
「…しっくりくる言葉が見つからないけど…でも、ただグソンのためだけってわけでもない。グソンが幸せになったら、私はきっと嬉しいって思うからそうしたっていうか…」
「少しわかるよ、その感覚」
「自分が聖人君子とは思いませんけど、槙島さんと一緒にはしてほしくないです」
「ははっ、酷いなぁ」
軽やかな笑い声が重厚なカーテンやカーペットに吸い込まれる。サイコパスで犯罪者の槙島さんと一緒にはしてほしくないが、けれど確かに似通っている部分はあると思った。槙島さんは魂の輝きを見るために様々なものを与える。槙島さんへの見返りがあるとすれば、“魂の輝きが見られるかもしれない”ということ。対して私がグソンの過去を変えることで得られる見返りは“グソンが幸せになった姿を見られるかもしれない”ということ。……認めたくないが、実は私たちは似ているところがあったようだ。私ってサイコパスだったのかな。うーん、と難しく眉間にしわを寄せる私を槙島さんは何をするでもなく優雅に座って見つめている。その視線に気づいて居住まいを正すと彼はフフ、と綺麗に笑った。
「僕にもなまえが欲しい」
「え?」
「家族や恋人ならまだしも、自分の幸福を願ってくれる赤の他人なんてそうそういないよ」
「…きっといますよ、槙島さんなら。今までもいたのかもしれないし」
「じゃあ…僕はその存在に気付けなかったのかな」
どこか遠い目をして語る彼に私は何も言えなかった。
私は自宅には戻らずグソンの家に戻ってきていた。まだ人の気配はしないので彼は帰ってきていないのだろう。電気はついていないし、暖房もつけられていない。ひんやりする空気に思わず腕を擦って空調をつけた。結局、泉宮寺邸では夕食も御馳走になってしまったのであとはお風呂に入って寝るだけだ。ここ一か月ずっとここで生活していたので既に勝手は知っている。適当にタオルを出して浴室に入るとシャワーを浴びた。やっぱりちょっと水圧が弱いんだよなぁ。まぁ、困るほどではないんだけども。髪と体を洗って、顔を洗って浴室を出る。リビングでテレビでも見ようかと廊下を歩いていると、物音がして反射的に息をひそめた。グソンが整備したセキュリティがあるとはいえここは廃棄区画だ。シビュラの庇護下ではない無法地帯。気配を消してそっと様子を窺うと奥のキッチンの電気がついている。私はつけていない。グソンが帰ってきたのか?
「姉様」
「っ?!」
聞きなれない声に思わず振り向くと、そこには背が高く美しい女性が立っていた。スラリとバランスのとれた細身の体型に少し切れ長の大きな目、柔らかい笑みを浮かべる唇。この人はもしかして…
「スソンちゃん?」
「はい。どうしましたか?」
「ううん、なんでもない」
至極当たり前のように返されて私も必死に平静を装う。グソンの妹がここにいる。しかも、彼女はこうして美しく成長している。うまくいったのだ、グソンは無事に彼女を救うことができた。それがわかって安堵の笑みと同時に不思議と涙が頬を伝った。
「姉様、どうされたのですか!涙が…どこか痛いところでもあるのですか?」
心配そうに自分よりも背の低い私の顔を覗き込むスソン。ああ、本当に可愛くて綺麗な子だ。私は指で涙を拭って笑顔を作ると彼女に何でもないよ、と告げる。スソンは少し心配そうにしながらも頷いてくれた。
「姉様が平気だと言うのなら…ああそうだ、お茶を淹れたので良ければお飲みになりませんか?」
「だからキッチンの電気がついてたんだね。ありがとう、いただくね」
「では座っていてください」
彼女に促されるままリビングのソファに座ると、キッチンでカップのカチャ、という軽い音がした。それからすぐにティーポットとカップ二つを持ったスソンが戻ってくる。彼女は私の隣に座るとお茶を注いでくれた。コーン茶のようだ。とうもろこしのいい匂いがする。
「どうぞ」
「ありがとう」
普段あまり飲まないコーン茶だったが、良い香りと丁度良い温かさが体に染み込んでホッとした。スソンもしなやかな動作で一口飲むと私のほうを見て微笑んだ。見れば見るほど大切に育てられたのがわかる。まぁ、育てたのはグソンなので彼がどれほど妹のことを溺愛していたのかもわかる。その彼をまだ見ていない。部屋に籠っているのだろうか。
「そういえば、グソンはどこにいるの?」
「お仕事があるとかでお部屋に」
「そっか」
こっちの世界では約一か月、彼は仕事を溜めていたのでまぁそうだろうな、と思った。しばらく彼は忙しい日々を過ごすことだろう。槙島さんにまた溜息を吐かれるかもしれない。そんなことを考えているとスソンが私に見えないように下を向いて小さく欠伸をしているのが目に入った。
「眠いなら寝ていいんだよ。片付けはしておくし」
「いえ、片付けなら私が…」
「スソンちゃんはお茶を淹れてくれたんだから、片付けは私がやるよ」
「では…お願いします。おやすみなさい」
「おやすみ」
廊下を歩いて私の知る限り物置として使われていたはずの部屋に入っていくチェ・スソンの姿を私はずっと目で追っていた。部屋に入る前にこちらを向いて微笑みをくれた彼女に私も微笑んでおいた。それにしても彼が妹を救えばここに彼女がいるというのはわかってはいたことなのだが、何しろ顔は見たことがなかったので少し驚いてしまった。しかし、あの子がスソンか。グソンが世界中の何よりも大切にしてきた妹。兄と同じく細身の長身に、こちらを安心させるような微笑み。きっとグソンはあの微笑みが大好きだったんだろう。ティーポットにはまだ半分以上お茶が残っている。せっかくだからグソンにも飲ませてあげるか、と新しくカップをもう一つ出して彼の部屋に持っていく。ドアをノックするとすぐに扉は開いてグソンが姿を見せた。彼の姿はよく見慣れたもの――とは少し違うようだ。そうか、そうだよね。
「おかえり。スソンちゃん淹れたお茶飲む?もう寝ちゃったけど」
「ああ、ありがとう。入ってくれ」
部屋に入り、ソファに座る。そして二つのティーカップにお茶を注ぐとグソンのほうへ一つをやった。一か月前とほとんど何も変わっていないように見えるが、彼は一か所だけ明らかに違っている。黄色と赤の人工的な色だった瞳は焦げ茶色の本来の色になっていたのだ。その目を見ただけでも私は嬉しくなった。この色がグソンの本当の瞳の色。義眼の彼も好きだったがこうしてあるべき姿の彼もやっぱり好きだ。
「良かった、無事に帰ってきてくれて」
「ありがとう、なまえ…本当に、ありがとう」
グソンはこれまで見せることのなかったような、普通の笑みを浮かべた。
「過去から戻るってどんな感じ?」
「不思議な感じだ。きっちりダンナやなまえたちとの記憶はあるし今日ここへ戻ってきたって認識してるのに、俺自身は経験してないはずの思い出が頭ん中にたくさんある」
「どんな思い出?」
「スソンが歌ってくれて、俺のために料理を作ってくれて、そして美しく成長していくんだ。…幸せな思い出ばかりだよ」
思い出すように目を閉じたグソンを見るとなぜか鼻がツンとして視界がぼやけた。少しだけだがスソンと一緒にいたことで、彼女がどれほど大切に育てられ兄の愛情を受けてきたのかがよくわかった。それほどグソンにとっては大切な大切な存在だということも。そして、かつての過去ではその大切な妹――スソンを滅茶苦茶に壊されたグソンのことを考えると、本当に本当に二人がこうして本来の姿で存在していることがどうしようもなく嬉しくなった。
「良かった…良かったね、グソン」
「おいおい、泣くほどうれしいのか?」
グソンが困ったように笑った。私も涙を流しながら困ったように笑う。ああ、何でこんなに涙が出るんだろう。槙島さんが言っていたように私たちは他人だというのに。
「嬉しい…よかった…」
けれど、その嬉しいという気持ちは紛れもなく本物だった。それから私たちはスソンに淹れてもらったお茶を飲みながら、見たことのない“思い出”を語った。
ソファで寝落ちした私と違ってグソンはしっかりパジャマに着替えて自分のベッドで眠っていた。毛布は掛けてくれたようだが腰と背中が痛い。けれど、すぐ傍でまだ眠っている彼の寝顔が気になってそっとベッドに近づいた。すーすー、と静かな寝息をたてて眠る顔はずいぶん穏やかだ。なぜだかその寝顔を見ていると笑みが零れてしまう。すると、彼の瞼がぴくぴくと動きゆっくりと瞼が開かれた。
「なまえ…?起きてたのか」
「おはよう」
「おはよう」
のそり、と彼らしくないゆっくりとした動作でベッドから上体を起こすとしばらく一点を見つめてぼーっとしている。その視界に入るようにベッドに腰かけると焦げ茶色の瞳が私を捉えた。
「私何時ごろ寝た?」
「何時だったかな…3時とか、3時半とか」
「で、今は9時か…そりゃ背中も痛くなるわ」
はあ、と一つ溜息を吐くとコンコン、とドアがノックされた。
「兄様、姉様。お目覚めになりましたか?」
ドア越しのスソンの問いかけにグソンはその場で少し声を張って答える。
「起きたよ、スソン」
「朝食を作ったので、良ければ召し上がってください」
「ああ。ありがとう」
本当に良い子だな…と感心してしまう。これは確かに兄としては心配で大切で可愛くて仕方がないだろう。と、そこで昨日から気になっていたことを思い出した。
「そういえば、どうして姉様?」
「どうやら俺の知らない間にそういうことになっていたらしい」
「…ん?」
「なまえは俺と結婚するんだそうだ…。俺となまえが築くであろう家庭をスソンに熱弁された……という記憶がある」
「何とまぁ…そ、そっか」
思いもよらない事態に少し頭が混乱していた。昨晩も姉様と呼ばれたときは少しだけ戸惑ったが、近所に住むお姉ちゃんのことを呼んでいる感覚なのかと思っていた。それがまさか本当に義姉という意味だったとは…。
「そう言えば、なまえは俺の願いを何個でも叶えてくれるんだっけ?」
「…う、うん」
何となく言いたいことが予想できる。その願いは多分、魔法とか関係のないやつだ。少々身構えてしまう私にグソンは茶色い瞳をまっすぐ向けてきた。
「それなら、これから先も一緒にいてくれないか。スソンが言うような結婚はしなくてもいい。でも、あいつにとってなまえはもう家族なんだ。俺がスソンを救ったから役目は終わりだなんて言わないでくれ…頼む」
以前のグソンだったら絶対に言わないようなこと。頼む、だなんて…そんな真剣に言われると断れないじゃないか。
「…わかった。まだこの世界にいる」
「ありがとう、なまえ」
「何かグソン、戻ってきてからよくありがとうって言うようになったね」
「はは、そうかな」
「そうだよ。良いことだと思う。スソンちゃんのお蔭かな」
「そうだろうな」
すっかり毒気の無くなったグソンもこれはこれで良い。一つ気になることがあるとすれば、グソンの帰還を待っているもう一人の人物が今の彼を見たらどんな反応をするのだろう、ということぐらいだ。
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