Day 1
エンジン音と木の葉がカサカサと風で擦れ合う音がして、ふわりと意識が浮上した。そしてタッタッタッ、という軽い振動が耳に直接伝わってくる。何だろう、足音だろうか…ぼんやりとした思考はできるものの、依然として瞼はまだ重かった。
「…、―――…ょうぶ?」
声がした。少し焦ったような、女性の声だ。
「――…たの、ねぇ、どうしたの?大丈夫?」
僕に言っているのか?
「ねぇ、目を開けて。ここは危ないから、早く起きて!」
いくら声をかけても無駄だと思ったのか、今度は肩を掴まれてゆらゆらと体を揺すられる。
「ん…」
ゆっくり瞼をあげると心配そうな、困ったような顔をした女の人がいた。その後ろには青々とした緑が僕らをぐるっと囲んでいて、木や土のにおいがしていることに気付く。
「良かった!目を覚ました…。ねぇ、大丈夫?」
「ここ…」
森の中か?体を起こそうと身じろぎすると全身が痛かった。何もアスファルトのゴツゴツした跡が原因では無さそうだ。腕にはくっきりとその跡がついているけれど、それだけではなく、肩や腰、頭も痛い。
「大丈夫?」
その人に体を支えられながら起き上がると、どうやら僕は森の中の道路のど真ん中にいるのだとわかった。こんな場所で横になっていたなんて僕は一体何をしていたっけ――…
「詳しいことは後で聞くけど、いつまでもこんなところにいたら危ないから早く車に乗って」
言われるままに腕を引かれて道路の端に停車させていた赤い車の後部座席に乗せられた。慣れた手つきで車を発車させる彼女をぼんやりと見つめながら、ここに来るまで自分は何をしていただろうかと考えを巡らしてみる。でも、まったく思い出せなかった。
「あなた、名前は?」
それどころか、バックミラー越しに聞いてきた彼女の質問にさえ答えられなかった。
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「名前も忘れちゃうなんて…それが本当ならあなたは記憶喪失ってやつなのかな?」
僕を助けてくれた女性――なまえさんは困った顔で首を傾げた。僕は何となく申し訳なくなって彼女の綺麗な目から冷たいココアへと視線をずらした。記憶喪失なんて本当にあるんだな、なんて他人事のように思う一方でやはり自分のことが全然思い出せない…というより、そんなもの存在しないんじゃないか、と思ってしまう程度には何も記憶の中に無かった。昨日の夕飯を聞かれて何だったけ、とモヤモヤするのではなく本当に空っぽなのだ。
「…すみません」
「あ、ごめんなさい、責めてるわけじゃないの。ただ、記憶喪失となると…うーん、私も初めてだからどうすればいいのかなって思って」
なまえさんは考え込むように腕を組んでうーん、と唸った。
「持ち物も何も無かったし…まぁ、色相は白だったからきっと良い人なんだろうけど…」
きっとこの人はすごく良い人なのだろう。何一つ思い出せず、手がかりになるものすら持ち合わせていない僕のために家に入れてココアを出して、こうして悩んでくれている。記憶が戻る確証があるわけでもない僕のために。
「ご迷惑をおかけしてすみません…僕やっぱり、出ていきます」
ソファから立ち上がろうとする僕をなまえさんは手で制止した。
「待って。行くところはあるの?」
「無いですけど…」
「じゃあしばらくうちに居ていいよ。部屋余ってるから」
「でも、なまえさんは迷惑じゃないですか?」
「記憶喪失の人を外になんて放り出せないよ」
「…良いんですか?」
「うん。記憶が戻る手がかり、一緒に見つけよう!」
「ありがとうございます」
そう言ってくれたことやこちらをホッとさせる笑顔に救われたような気がした。なるべく迷惑をかけないようにしよう、と決意したところでなまえさんは部屋を片付けてくるというのでこのままリビングで待つことになった。なまえさんの家は広く、ここが郊外だということを鑑みても一人暮らしには広すぎるくらいだ。インテリアは暖色系でまとめられていて、暖かみがある。壁には大きな本棚があってこの時代には珍しい紙の本がたくさん並んでいた。専門書や学会誌から小説まで。なんとなく懐かしさを感じてソファから立ち上がって本棚の傍に行くと、ずらっと並ぶ本の背表紙を眺めた。
「……」
そして、その中のある一冊に目が留まった。
「じゃあ、部屋に案内するね。こっちに来て」
「あの、なまえさん」
廊下へ向かう彼女を呼び止めた。
「どうしたの?何か思い出せた?」
にこやかな笑みを浮かべたなまえさんに僕は小さく頷く。
「僕の名前は多分、ショウゴです」
「ショウゴ?」
「本棚を見ていたら、ショウゴという著者がいて…僕と同じ名前だな、と」
「じゃあ早速前進だね。ショウゴくん」
嬉しそうな顔をする彼女を見て、僕もまた嬉しくなった。
部屋を案内してもらったとはいえ、荷物が何もない僕はまた何か手がかりはないだろうかとリビングへ戻って本棚を眺めていた。はじめて見るタイトルのものもあれば、何となく聞き覚えのあるタイトルのものもあって、そういうものは手に取って流し読みをしてみた。そうしていると記憶をなくす前の僕はわりと読書をしていたんだな、ということに気付く。
「本、好きなの?」
「そうだったのかもしれません」
「読みたいのあったら部屋に持って行っていいからね。もしかしたら記憶を思い出すきっかけになるかもしれないから」
「ありがとうございます」
返事をしながらも僕は次々に本を手に取っていた。これは多分、読んだことはないな…じゃあその次は…
「…ところで、これからお昼ごはん作るんだけど、ショウゴくんはハイパーオーツじゃない天然食材大丈夫?」
「大丈夫です」
「よかった」
ハイパーオーツではない食材にも不思議と苦手意識はなく、即答していた。記憶が無いとはいえハイパーオーツが何なのかぐらいの知識はちゃんとある。ただただ、自分に関する記憶だけが抜け落ちているのだ。本を読む手を止めてなまえさんのほうを見るとすでにキッチンへ入っていくところだった。
「ショウゴくんは座っててね」
その言葉に甘えて僕は再び本棚に向き合った。少ししてキッチンからは食欲をそそる良い香りが漂ってきた。すると思い出したかのようにグゥ…と腹が鳴った。そういえば最後に食事を摂ったのはいつだったっけ…ああ、そんなことすら思い出せないんだな、僕は。
「お待たせ。トマトリゾットだよ」
その声に本を片付けて四人用の木目が美しいダイニングテーブルにつくとチーズの乗ったトマトリゾットとスープが並べられていた。
「とても美味しそうですね」
「あはは、不味くはないはずだよ。では、いただきます」
「いただきます」
記憶を無くしてからはじめての食事かつなまえさんはきっと料理が得意なのだろう。僕は次々とリゾットを口に運んでいた。
「美味しいです、なまえさん」
「よかった。どう?はじめて食べる感じとかする?天然食材って、普段食べない人は苦手って聞くんだけど」
「いえ、何だか…食べたことがあるのかもしれません。違和感とか、はじめての感じとかはしません」
「じゃあショウゴくんは少し変わり者だったのかなぁ?」
そんなことを言いながらもなまえさんはどこか楽しそうに笑っていた。
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