澄んだ空気と雑音の中
目を開けたとき、そこに広がる風景に見覚えが無さ過ぎてまた何か別のアニメの世界にトリップしたのかな…とララは思った。薄暗くて簡易的なベッドがあるだけの部屋。しかし引っ越したてにしては随分と古びている。ここはどこだ?私はさっきまで何をしていたっけ?そう考え始めたとき自分がイスに縛り付けられていることに気づく。そしてこの前も電車の運転席に縛られたばっかりなのに…と思ったところで嫌な予感がした。
「おや、目が覚めたか」
背後から聞こえたのはチェ・グソンの声だった。首をどうにか動かして後ろを向くと彼はララの後ろにある革張りのソファでタブレットを操作していた。どうやら別次元に飛ばされたわけではないらしい。
「これ解いて」
「そんなことしたら逃げるだろう?」
「逃げないから」
「嘘だな」
「じゃあせめてグソンのほう向かせて。この体勢辛い」
ずっとタブレットを見ていたグソンだったが、ちらりとララのほうを見る。そして仕方なさそうに彼女の背後に回ってイスを回転させると再びソファに戻った。ようやく首を回さなくても視界にグソンを入れることができたので、もう一度部屋を見渡すことにした。やはりこの部屋にはほとんど何もない。さっきまでは見えなかった側にも枕と薄い毛布がかかっただけの簡易ベッド、三人掛けソファ、傷だらけのローテーブルがあるだけ。この部屋はホコリこそ被っていないがまるで廃墟だ。
「何を考えているんだ」
「今日って何日?」
「言うとでも?」
「…ねえ、ブランケットとか無いの?この真冬にずっと下着のままなんだよ?寒いんですけど」
「要求が多いなあ。アンタ、自分の立場わかってるのか?」
「人質でしょ?」
「怖くないのか」
「怖すぎて振り切れたんだと思う」
「ああ、そういうことか」
絶対に槙島に捕まるものか、と思っていたのにこうしてグソンに捕まってしまった今、恐怖で固まるのを通り越していた。むしろ喋ってないと死にそうだった。相変わらず買った覚えの無いブラジャーとお気に入りのショーツのままだし、それはつまり下着でクリスマスイブの夜を過ごしたということだ。それなのに何の色気もない状況なのはいかがなものか。本当は無事に公安局に帰っているはずなのに…
「ん?ところで何で私人質になってるの?」
そうそう、これ。今の一番の疑問。もし人質になるなら船原ゆきよろしく地下で首を切られて死んでいるはずだ。それがどうして生かされているのか。
「ダンナが少し興味があるって言うから」
これはおかしい。耳がおかしくなったのかと思った。自分に興味があるから攫った?狡噛ではなく?今だに宜野座には使えない新人だと思われてるのに?
「槙島が?槙島聖護が?私を?」
「そうだよ」
「何で?槙島が興味あるのって狡噛さんだけじゃないの?何で刑事課で一番の凡人とか言われてる私に興味を持つの?」
自分で言ってて少し悲しくなったが、二係のちょっとかっこいい執行官に影でそう言われているのを聞いたことがある。悲しいが否定はできなかった。なぜなら事実だから。ここまで生きてこれたのもアニメを見ていたからだとしか思えない。しかしグソンはそれを聞いて少しだけ眉を上げた。おかしいなぁ、とでも言うように。
「凡人?」
「そう、凡人」
盗聴とかしてきたなら知ってるでしょ、とグソンを睨むが彼は考えるような素振りを見せる。
「今まで何度かアンタたちの会話を盗聴してきたが、凡人っていうなら宜野座って監視官のほうじゃないのか」
「私は宜野座さん以上だよ。宜野座さんには今も足手まとい扱いされるし」
「でも王陵牢一の絵や死体の展示場所から王陵璃華子が犯人だって導き出しただろう?」
ぎ、宜野座許すまじ…!実際に一緒に仕事してみてアニメで見るよりダメじゃないんだなぁとか見直してきたというのに。ララは宜野座を恨んだ。あのとき宜野座が狡噛に振るはずだった問いをララに振ってしまったばかりにこの状況が生まれているのだと。ララは後ろ手に縛られながらも拳を握りしめる。無事に帰ることができたら何か仕返しをしてやると誓った。しかし、グソンはそんなララを知ってか知らずかさらに続ける。
「それにこれは一番の謎なんだが、どうしてダンナの色相や俺の祖国のことを知っている?」
あのときの私、絶許!できることなら戻りたいと思わずにはいられない。緊張するとペラペラ喋って後になって後悔するララの癖はこの世界でも健在だった。しかしまさかその癖のせいで命の危機に晒されるとまでは予想できなかった。どうしたものかと視線を彷徨わせて考えるが生憎いい言い訳が浮かばない。
「なぁ、どうなんだ?ダンナには少し話してみたいから、とだけ言われてる。ってことは指の一本くらい無くなっても良いってことだよな」
こいつ、多分本当にやる気だ。それはさすがにララでもわかった。今日こそ一番の命の危機だったかもしれない。いや、指一本で済むなら命の危機ではないのだが、骨折すらせず平和に暮らしてきた彼女にとって指一本を失うというのは映画でしか見たことのない拷問だった。自分はこれから拷問を受けることになるのかと思うと冷や汗が流れてくる。チェ・グソンてこんなに怖い人だっけ。確か王陵璃華子に血なまぐさいのは苦手とか言ってなかったか?こういう時、狡噛ならどうするだろうかと考えてみるがやはりララには良いアイディアが浮かばない。グソンはソファにゆったり座りながらもララのことを見ている。
「もし言ったら…開放してくれる?」
「それはどうかな」
「……」
「でも、言わなかったら確実に指は無くなる」
「なんていうかその…とりあえず、刑事課にはグソンみたいなハッカーはいないから機密ファイルから知りました、とかではない。槙島の名前は知られたけど顔はわかってないし、グソンのことは名前すら知られてない」
「それで?」
「それで?それだけですが?」
「だーかーら、俺が聞きたいのはどこで知ったか」
「……………ゆ、夢」
「夢?」
予知夢とかどこの映画ですか、と自分でも突っ込みを入れたくなる。が、今はこれぐらいしか思いつかない。グソンからも訝し気な視線を向けられているが言ってしまったからにはこれで通すしかない。
「夢で、見た…こういうこと時々あって、今までどれも本当のことだったから…きっとグソンと槙島のことも本当なんだろうなって」
「他に俺たちのことで知っているのは?」
「……槙島のことは3年前の標本事件にも関わってた、とかそれぐらいしか」
「俺のことは?」
「グソンは……あなたのことはもう少し知ってる」
ララはノベライズで読んだ情報を少しだけ話した。妹の名前を言おうとして首を絞められた前科があるので言うのは少し迷ったが話の流れ的にそうなってしまったし、少なくともグソンが動揺する話題だというのは確かだからだ。恐らく彼が槙島にすら話したことがない、むしろ今となってはこの地球上で誰も知ることがないようなことがララの口から次々に出てくることにはさすがに彼も驚きを隠せていないようだった。さっきまではソファの背もたれに寄り掛かってゆったり座っていたのに、今は前のめりになって俯いている。
「…合ってる?」
「ああ…合ってる」
さっきまでとは随分違う、沈んだ声だった。ララが話した内容は彼自身も心の奥底に仕舞い込もうとしていたことばかりだったのだ。それをまさか公安局の監視官の口から聞くことになろうとは予想しておらず、つい二度と会えぬ家族の顔が頭に過ってしまった。そして誰も知りえぬ情報を知る彼女の言うことが本当なのだと信じることにした。槙島の色相やチェ・グソンが元工作員だったという程度の情報ならば何らかの方法で盗聴するとか、過去に取り引きした人間から聞き出したという可能性があったが、グソンの過去を知る術は今は何もない。夢で見た、なんて嘘くさいがそれしか信じられない。
「じゃあ、アンタは俺の妹のことや日本でどんな生活をしていたかも知ってるのか」
「うん、少し」
「そうか」
このころにはララは先ほどまで感じた恐怖は無くなりつつあった。グソンが纏う雰囲気が変わったのだ。指を切る、と言っていたときはそれこそいつでもニッパーやナイフを持ち出してもおかしくないような雰囲気で、ララも元工作員に舐めたマネをしたことを後悔していたのだが、今はそういう気力が削がれたような、ただ普通に雑談をしているだけのような雰囲気に変わっている。けれど彼の目は過去を映しているのか、どこか遠くに感じる。色は人工的でまるで人らしさなんて無いのに。彼はきっとララがこの世界で会ってきた人たちの中で一番辛く過酷な経験をしている。そしてこの後、エリミネーターで死んでしまう。そう思うとこの世の中は何て理不尽なのだろうと嫌になった。
「ねえ、グソン」
気がつけば名前を呼んでいた。
「何だ」
「もし、私がグソンがいつどこで死ぬか知ってたらどうする?」
「その言い方だと知ってるってことかな」
「うん」
ララはグソンの顔をじっと見つめる。しかし、彼はフっと笑った。
「……知りたくないね、自分が死ぬときのことなんて」
彼らしいと言えば彼らしい答え。それでもララはまだ食いさがる。もしグソンを助けてしまえば一係はさらに追い詰められるし、確実にアニメとは異なる未来が待っている。それでもこうして話してしまったら死なないでほしいと思ってしまった。ララは何も知らないその辺の人間とは違うのだ。彼がどのように死ぬか知っている。何もしないというのはチェ・グソンを見殺しにすることと同義でもあった。
「それを知れば死なずに済むかもしれないんだよ?」
「アンタは監視官のくせに俺を助けようっていうのかい?笑えるなぁ」
「結構本気なんだけど…」
「良いのさ、俺には長生きなんて似合わねぇよ。……ああ、でもその代わりに教えてほしいことがある」
「何?」
「俺は死んだら、妹に会えるのかな」
いつもの人を食ったような言い方ではない、穏やかな口調だった。その声を聞いてああ、この人はもう現世の幸せなんて望んでいないんだ、と悟る。きっと彼にとっては妹が死んだ時点でこの世に未練なんて無かったんだ。あとは何かのきっかけで死ぬまでの暇つぶし。槙島聖護は楽しい暇つぶしを彼に与えた。それなら確かに自分がどんな死に方をするのかより、死後の世界のほうに興味があるのもわかる気がした。ララは直接そうだと読んだわけではなかったがきっとそうなるだろうと頷いた。
「うん。会えるよ」
「そうかい…そりゃあ良いことを聞いたよ。仕方ねえ…礼と言っちゃあアレだが」
グソンはソファから立ち上がるとララの背後に回り、彼女の体を拘束していた縄を解いた。腕や腹には痛々しい縄の後が残されている。
「来い」
言われるままに部屋を出ていくグソンに着いていくと、彼はとある部屋に入りいつも着ているライダースジャケットではないスタンドカラーのコートを渡してきた。
「さすがにその恰好で外に出たらいつ犯されてもおかしくないからな」
「ありがとう…」
コートに袖を通すとやはり大きかったが、狡噛のものほどではない。それにボタンを上まで閉めれば下着というのも傍目にはわからなくなった。グソンと一緒に彼の家を出ると見たことのない廃棄区画が広がっていた。とはいえ、廃棄区画というのは大体似たり寄ったりではあるのだが。グソンの後ろを足元に気をつけながら歩く。
「廃棄区画を出たら右折して、そのまま真っすぐ歩けば人通りの多い道に出る」
「…どうして逃がしてくれるの?槙島は?」
「ダンナには俺から適当に話しておこう」
「…ありがとう、グソン」
ララが礼を言ってすぐ、グソンは立ち止った。その50メートルほど先には廃棄区画の出入り口がある。ここでお別れ、ということだろう。ララはグソンの前に回り込むと改めてその顔を見つめた。黄色と赤の人工的な義眼。その目がララを写している。何の感情も、瞳孔の動きさえ表すことのない瞳。その目を見ているとやっぱり彼が死ぬのは嫌だと思ってしまう。
「私…やっぱりグソンに生きてほしい。本当に…聞かなくていいの?」
「…ああ」
「……わかった」
最後にグソンの少しカサついた大きな手をぎゅっと握りしめる。柔らかい小さな手に自分の手が包まれているのをグソンはただ見つめていた。
「じゃあ、さようなら」
出口に向かって歩くララの姿が見えなくなるまで、グソンはずっとその場所に立っていた。
グソンに言われた通りに道を進んでいくと確かに人通りが多くなった。腕の端末は破壊されたらしいので誰か通行人に電話を借りなければならない。監視官をやってから改善しつつあるとはいえ元来人見知りのララは見知らぬ人に声をかけるのはなかなかに勇気のいることだった。しかし、この寒空の下でコート一枚かつ裸足でいるのは辛い。勇気を振り絞って若いサラリーマンに声を掛けて電話を貸してもらうと宜野座の番号にかける。もしもの時のため、と番号を暗記しておいて良かったと心の底から思った。
「宜野座さん私です!紅藤ララ!」
繋がって1秒もしないうちに大きな声で話すララにその辺を歩いている通行人も思わず振り返る。
『紅藤?!今どこだ!』
「ちょっと待ってください。……あの、ここってどこですか?」
電話を貸してくれたサラリーマンに聞くと普段から通勤しているルートなだけあってすぐに答えてくれた。その地名を宜野座にも伝える。
『わかった。すぐに行くからそこから動くなよ』
「はい!」
通話が切れたところでふう、と一息つく。そして親切なサラリーマンに頭を下げて礼を言うと人込みに紛れていく彼を見送って、自分はガードレールに寄り掛かった。寒い。さすがに寒い。グソンがくれたコートはお尻まではすっぽり覆うものの、膝から下は外気に晒される。また、コートの下は下着のみなので風が吹くとコートの中にも冷気が入り込んだ。そして一番は足。赤くなった足の指はそろそろ感覚が無くなりつつある。
どれほど待っただろうか。寒さのせいで随分長く待ったように感じる。足は寒さで痛いのを通り越した頃、パトカーの赤い光が視界の隅に入った。それを見てぱあっと顔を輝かせると寄り掛かっていたガードレールから離れ、パトカーに走っていく。
「宜野座さーん!!」
ララを見つけるとパトカーは道路脇に停車し、すぐに運転席から険しい顔の宜野座が降りてきた。宜野座はララの顔を見るなり口を開き、恐らく怒鳴るはずだったのだろうがすぐに彼女が裸足であることや着ているコートが男物であることに気づき、まずはパトカーの助手席に乗せることにしたのだった。
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