夢を見ない日は久しぶりで、起きたての意識は夢と現実の境界線を彷徨っている。
いつの間にか灯りは消されていて身体にはタオルケットが掛かっている。洗い物も済ませてあるらしいキッチンには誰も居ない。

……『インターン』を終えて戻った家に、瀬名と凛月が居て。一緒にご飯を食べたのは夢だったのだろうか。
僅かに舌に残る夕飯の味だけが確かで他には何の証拠も無い。三つ並んだマグカップくらい残っていれば、もっと現実だと信じられたのに。

「……静かだ」

このままもう一度寝てしまおうかと目を閉じれば、遠くに聞こえる虫の音に混ざって、細い歌声が聞こえてくる。
――なんだ、全然夢じゃなかったみたい。



***



「おはよう、凛月」
「……おはよう、鹿矢。………びっくりした。いつの間に起きてたの」
「ふふ。いつでしょう」

網戸越しの凛月は驚いた表情で、そうやってすぐはぐらかす、と膨れた様子だ。
そよそよと靡く風に漆黒の髪が揺れている。
遅い時間で比較的涼しいとはいえ、夏なのにちっとも暑そうじゃないのは少し憎い。

「今日満月だったんだね。いつもより大きい気がする、なんとかムーンってやつ?」
「多分ねぇ。俺もよく知らないけど……鹿矢も早くこっちにおいでよ」

くっきりと円を描いた月は夜空に鎮座して、散らばる星々を従えている。
絶好の月見日和、かつ天体観測日和。先にベランダを陣取っていた凛月も同じことを考えているようだ。

冷蔵庫に買い置いていた炭酸ジュースを二人分、貰い物の和菓子を携えて網戸を開いて夜風に当たる。
タイルは当たり前に冷えていて足の裏がぞわぞわするけど、慣れてしまえば気持ちが良い。

「はい、乾杯」
「乾杯〜♪」

煌々と光る月に夏の大三角形。お手本のような夏の夜空を眺めながら飲む炭酸は最高だ。

……たしか大三角形のうち二つは、七夕伝説の織姫と彦星だったっけ。
一年に一度しか逢えないらしいけど地上の私たちからすればずっと一緒に同じ空に輝いているように見える。実際は川で隔たれているうえに、とんでもなく離れているのだろうが。

そんなことをぼんやりと考えている隣で凛月は饅頭を口に含んで、居心地良さそうに鼻歌を歌っている。
つくづく自由な空間。私と凛月の、変わらない空気感。でも、それが私にとっては楽で、けっこう好きだ。

「……あ〜そういえば、冷蔵庫の中身見てセッちゃん呆れ顔だったよ。毎回全部使い切ってるから空っぽなんだよって言ってもあんまり信じてなかったみたい?」
「まじか。毎晩夕飯の画像送ってるのに?信用ないなぁ」
「ふふ、心配してるんだよ。分かってるでしょ」
「分かってるよ。さすがに家に居たのは驚いたけどね?……でも、嬉しかったな。帰ったときに二人がいてくれて」
「……セッちゃんが、じゃないんだ?」
「なんで単体なの。凛月も瀬名も居てくれて嬉しかったに決まってるじゃない」
「……ふぅん、そうなんだ。お饅頭おかわり」
「はいはい。まだたくさんあるからね」

ぽかんと開かれた口に饅頭を放ってやれば、分かりやすく喜びながら頬張る凛月につられて頬が緩む。
口の端に付いた饅頭の皮も相まってなんだか可愛らしい。どうせまだ食べるのだろうから、あとでまとめて取ってやろう。

「俺も昇格したんだねぇ、ふふ」
「……凛月の中の私も飛び級してるっぽいし、お互い様でしょ」
「おぉ……鹿矢にしては珍しく自覚してる。明日は大雨かも」
「ひどい。私、テンプレみたいな鈍感でもないんだけど」
「しってるしってる。はい、あ〜ん」
「むぐ」

月を見ながら食べるお饅頭は格別だねぇ、と目を細めて私の唇を指でなぞって、ご満悦。
……また恥ずかしいことをさらっとする。まあ嬉しそうだしいいか。無理矢理突っ込まれた饅頭の餡子が炭酸味と混ざって口の中が大変なことになっているけど。

「……まぁでも、この一年で色々あったからねぇ。鹿矢とまたお月見できてよかったよ」
「……約束したじゃない。だからきっとどんな形でも守ったよ。それにこの一年で凛月にはたくさんお世話になったし、お返しの意も込めて?」
「俺は鹿矢を甘やかす係だから、お世話されて当然なの。もちろんこれからも甘やかす予定……♪」
「あはは、そうでした。これからもよろしく?」
「うん。よろしくされた」

じゃあ乾杯し直そうか、と缶を掲げて笑う。
今度は感謝を込めて。今この時を共有できる嬉しさをたっぷり込めて。

他愛の無い会話で夜は更けていく。
来年の約束はしなくても、きっとまた並んで月を眺めるのだろう。思い思いに時を過ごしながらたまに会話をして、星座をなぞるのだろう。

物語にすらならないありきたりな夏の晩。
朝が来るまでの話。群青の隅っこで、私たちは静かに空を臨んだ。







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