口から空気が抜け、代わりに海水が入ってくる。
あぁ、私ーーー死ぬのかな。
全くそんなつもりじゃなかった。
普段陸地でしか生活のしない私は、いつもならスルーしてしまうその広い、綺麗な海にその時は酷く感動した。足首だけ浸かる程度の場所で潮風と、冷たくて気持ちの良い海に心地よさを感じ、暫く目を瞑りその心地よさを楽しんでいた。
そろそろ戻らないと、と波が引き、踵を返したその時ーーー足首まであった海水は膝位までの高さになっており、その波の水圧により、バシャンと前にこけてしまう。
濡れないように捲し上げた服も海水でびちょびちょだ。
「・・・最悪」
はぁと溜息をつく。せっかく気分が良かったのだが、自分の現状に落ち込んでしまった。今度こそ立ち上がろうと力を込めるも、膝位までの高さになってしまった波は転んでしまった私を優に超え、やばいと思った時には波に飲まれていた。
ある島に立ち寄ったおれ達は備蓄を揃えるために次々と島に降り立った。
ルフィやクソマリモの野郎共がメシやら酒やら、盗み食い(又は飲み)をしたり、すぐ宴をしたりと普通の船より絶対に食料の減るペースが早いそれにぶち切れて、足蹴にしたのは数刻前。
苦笑いのナミさんに頼み込み、島に立ち寄らせてもらった。
この島はログが溜まるのが遅いらしく、次に行く場所へのログが書き換えられることなく済みそうだと、美しい笑みと共に許可をもらった。
ここは海も水も綺麗で、街自体はそこまで大きくはないが、とても豊かな街に見える。治安もよく、水の綺麗さならあの
買い物を一通り終えたおれは綺麗な海に足を運び、砂浜に腰をかける。
普段騒がしい奴らの近くにいるからだろうか、このような穏やかな時間も悪くない。
煙草を1本取り出すと、手慣れた動作でそれに火をつける。
「ふぅ・・・」
綺麗な青空に溶け込む煙。見上げていた視線を海に戻すと、海辺に女性が一人佇んでいた。
清潔感のあるワンピースと、艶やかな髪を靡かせ海を感じているのだろうか。そこだけ時間が止まったような自然な美しさに思わず目を奪われた。
だが、波が水位を上げると彼女は海辺でこけてしまう。あのままでは危ないと立ち上がった瞬間ーーー彼女は海へと奪われてしまった。
おれはすぐさま駆け出した。
ーーー・・・ぃ、ぉぃ
え、何。何か聞こえる。
ーーーおい、しっかりしろッ!!!
聞こえてるよ、大丈夫。
力強い声に、意識が浮上していく。息苦しさに胸がつまり、かはッと口から飲み込んでしまった水を吐き出す。あれ、私・・・何してたんだっけ。段々と覚醒していった意識と共に薄っすらと目を開けた。身体が凄く冷たい。濡れた衣服が纏わりついて、背中越しに伝わる砂浜の温かさに、若干の気持ち悪さを覚えた。
私、そういえばーーー溺れてしまったのか。
仰向けに横たわっているのか、目を開けた時の陽の眩しさと、視界に映る綺麗な金髪に目を細めた。
「良かった・・・目が覚めたんだね」
「・・・ぁ、ありがとう、ございます・・・」
やっと明確に人物を捉えることができた。
恐らくこの特徴的な眉毛をした男性が助けてくれたのだろう、と思い、感謝の意を告げる。彼はほっとしたような優しい笑みを浮かべ、安心したのか大きな溜息をついた。
「君が波に攫われてしまった時は心臓が止まるかと思ったよ・・・」
「ハハッ・・・そんなわけ、ないじゃないですか・・・」
少し気障なセリフを言った彼だが、その言動は自然で、この人の雰囲気や、穏やかな意思の強い声に似合っていた。よく見るととても綺麗な顔立ちをしているが、彼も全身びしょ濡れだ。
私は手をついて、上半身を起こす。
「あの・・・本当にありがとうございました」
「気にしないで。君が無事で何よりだ」
彼は本当に何でもない、というような笑みで返してくれた。
「あなたは、海から来た人ですか?」
「・・・えーっと、そうだね。君が言う海からというのが"この島の人間じゃない"っていうのであれば、その通りだよ」
「そうなんですね・・・助けてくださり、ありがとうございました。良ければお礼に、私の店へ寄りませんか?」
「店?」
「はい。私この島で小さなカフェを経営しておりまして。お茶もできるし、お酒もこだわりを揃えているんです。」
「それは最高だ。・・・レディーのお誘いとあれば断るのも気が引ける・・・お邪魔しても?」
少し思案した後、彼は自身の金髪に負けないくらいの笑みで答えてくれた。
「ここが私の店、'ベゴニア'です。」
「へぇーここが・・・」
彼女に案内されたそこは、彼女の言う通り、年季のある木造の建物の中にひっそり構えられていた。
海から見える大通りから少し小道に入った、裏通りとでも言うのだろうか。大通りに比べ人は少ないが、それでも人の多さは窺える。その中で彼女の店は不思議と喧騒から離れたような落ち着きがあった。
中にはカウンター席が8席ほどと、小さなテーブル席が1席。店内には木造の建物に合うように薄緑色の観葉植物やドライフラワーがいくつか置かれていた。また穏やかなBGMが流れており、気持ちが落ち着く。
先程まで騒がしい奴らに囲まれていたからか、余計に静けさが心地よく、ふぅと息が溢れた。
「サンジさんは好きなものはございますか?」
「あー、おれは紅茶に合うものが好きかな。」
「紅茶も好きなんですね。そしたら私のおすすめをお出ししますね」
彼女は穏やかに微笑むと、奥のキッチンへと消えた。
店に来る途中で自己紹介は済ませた。
彼女は'ナマエ'と言って、生まれも育ちもこの島で海に出たことはないという。
海も近いからか、潮の香りと彼女が用意している料理の匂いだろうか。香ばしい匂いも一緒に混じり、今となっては懐かしい'バラティエ'を思い出した。やかましくて騒々しい店だったが、この心温まるような雰囲気が似ていて心地よい。
思わず鼻歌でも歌いそうになった時に彼女が奥から顔を見せる。
「お待たせいたしましたサンジさん、ボンゴレのペペロンチーノと、ダージリンです」
「お!これは美味そうだッ!いただきます。」
ニンニクや鷹の爪をきちんと火入れしたのだろう。食欲を唆る匂いに加えて、ボンゴレの風味豊かな潮が香ってくる。オリーブオイルに絡められたモチっとしたパスタは艶めかしくて、見た目からも美味しさが伝わってくる。
またニンニクのような風味の強い食材には、ダージリンの渋みと香りの豊かさが抜群に合うのだ。
「・・・ナマエちゃんは中々に腕の立つ料理人だね」
「え?そ、そうですか・・・?」
「あぁ。しかもパスタの食材にあった紅茶を選んでくれたんだろう?ありがとう。とても美味しいよ。」
彼女にそう言って心からの感謝を述べると、彼女は顔を真っ赤にし口をパクパクと動かしていた。
そんな姿に思わず吹き出して笑ってしまう。本当に茹で蛸のようになっていて、素直に可愛いなと思ったからだ。
「・・・そんな、真っ直ぐに言われると、照れます・・・」
「ははッ!いやでも本当のことだから。・・・おれも、さ、実は船でコックやっているんだよね」
「え!!!?そ、そうなんですか!?そんな、私ガチの料理人さんにお粗末なものを・・・」
「そんなことないよ。人に作ってもらったのなんて久しぶりで・・・本当に美味しかった。」
これは正しくおれの本心であり、嬉しかった。仲間がおれの飯を美味い美味い言いながら食ってもらえる姿は、やりがいと達成感、嬉しい気持ちが常にある。ただ自分が作る喜びと、人様が作ってくれた喜びというのはまた別の幸せがあるのだ。おれは久しく後者の気持ちを忘れていたのかもしれない。
そんなきっかけをくれた彼女には感謝と、喜びが伝わればいいなと思う。
「サンジさんが、喜んでくれて良かった、です」
「おかわりあるのでたくさん食べてくださいね」とはにかんだ笑顔に思わず目が奪われた。
まだ照れているのか少し赤らんだ頬に、笑うと細くなる優しい目元。はたまた懐かしい、優しくて強くて大好きだった'母親'を思い出した。
ここに来てからどうにも懐かしい気持ちが押し寄せてきて、情緒が乱れる。ドキドキと鼓動が速くなり、ふわふわとした気持ちになる。ナミさんやロビンちゃん、美人な女性に出会った時とは違う、胸のざわめき。
こんな感情、知らないわけないだろう。
「・・・ま、じか」
「?サンジさん?どうされました?」
おれはすぐに視線を逸らしてしまった。
少し日が沈み始めた頃、サンジさんは腰を上げた。途中、何やら思案していたように見えるが、吹っ切れたように色々な話をした。お仲間の騒がしくて楽しいお話、今までの旅の話、これからの夢の話。少年のように語るキラキラとした瞳がずっと輝いていて眩しかった。
私には力もないし、海に出る度胸もない。だから'憧れ'を持たないように海を遠くから眺めることしか出来なかった。今日はたまたま、海に近付いてみただけ。そしたら海がもたらした出会いに私は'憧れ'を抱いてしまった。素敵な人、素敵な仲間、素敵な夢。その全てが彼を形成し、ここに連れてきたのだろうと思うとそれはもはや必然なのかもしれない。
ただ私は'憧れるだけ'で手は出さない、出せない。
「そろそろ船に戻らなきゃ」
「・・・もうそんな時間なんですね。今日、立つのですか?」
「そうだね。そもそもこの島に立ち寄ったのはたまたまなんだ。でもナマエちゃんに出会えて良かったよ」
「ありがとう」彼はそう言うと片手を出して握手を促してきた。
私はなんだか名残惜しく感じてしまい、一瞬眉をしかめるも、すぐに切り替えて笑顔を貼り付ける。寂しいと思わない、思わせない。笑顔で送り出さなきゃ。海に出る度胸もない人間がこんなことを思うなんて烏滸がましい。
彼の男らしくも綺麗な手にそっと手を重ねる。
するとそのまま手を引っ張られ、彼の胸の中に抱かれた。
「・・・さ、サンジさん、あの・・・」
「ごめん。少しこのままで」
鼻を掠めるタバコの匂い。でもそれは全く不快ではなくて、寧ろ驚きと恥ずかしさと、喜びが頭を占める。
私の鼓動か、彼の鼓動か分からないが急激に脈を打つ音が耳に振動する。
どのくらい経ったか定かではないが、彼の胸から離されると、芯の強い瞳に射抜かれる。
「おれさ、また来るから。それまでどこにも行かず、待っててくれないかな。」
彼の強すぎる瞳に目が離せなかった。だって彼のその言葉は私をここに縛り付ける鎖のようなものに感じた。
会って間もない人に言うセリフでないのに、彼の言葉は優しく、麻薬のように溶け込んでくる。
「あ、あの・・・わた、し」
「ごめん。こんなこと言うの卑怯だとは思う。優しくしたいけど、君にはどうにもできそうにないや。だから'盗り'にくるから、待ってて」
「とりに・・・?」
「そ、ナマエちゃんを、ね」
彼は器用に片目で目配せしたかと思うと、私の額に口付けを落とした。
「またね、プリンセス」
「おーい!サンジ遅いぞ〜!!!」
「おぉ、悪いな」
「どこに行ってたんだァ?街中でも見かけなかったしよ」
「あぁ、ちょっとお宝を見つけて」
「宝!?おま、それどうしたんだよ!!!」
「時間がなくてな、持って来れなかった」
「それなら言えよなァ!」
鼻の長いそいつは驚きと残念そうな顔をするも、うちの美人航海士には内緒にしてくれるらしい。
おれは最後に見た、顔を真っ赤にして固まっている'お宝'を思い出し、一つ笑みを溢した。
end
ベゴニア
シュウカイドウ科の花
花言葉「愛の告白」「幸せな日々」