1. 机の上の絵空事



 私には好きな人がいる。
 振り返るほどに背が高くて、長い髪を一つに結い上げ、耳には大きなピアス。切れ長の瞳は全てを見透かすよう。おまけに制服はボンタン。
 人々が初見で彼に対して抱く印象はもしかしたら、良いものばかりではないかもしれない。
 でも、見た目に反して優しい物腰とか、笑うと眉間がくしゃっとなって、あどけない所とか、心地良い落ち着いた声とか。
 

 自分の食べたいものより、甘党の五条くんを優先し、硝子ちゃんの吸うタバコの銘柄を覚えていて、私が体調悪い時、真っ先に気づいてくれるのは、いつも夏油くんだった。


 そういう彼を知るたびに、私の心にはまたひとつ想いが募ってしまう。
 告白する勇気もないくせに。 









「あれ?」


 朝、いつものように教室の扉を開ける。
四つ机があるのに、埋まっているのは入り口に近い席だけ。その席の主はスクールバッグを枕代わりにして、覆い被さるように机に伏せていた。昨日、夜蛾先生が言ってた話とは違う光景に戸惑い、教室に入りかけた足が止まる。
 あっ、と小さく声を出した私と、気配に気づいた彼がゆっくりと顔をあげたのは同時だった。
 耳につけていたイヤフォンの片方がスポッと抜け、一房の前髪がサラリと落ちる。
 私の姿を確認すると、眠そうな瞳のままで、口元だけをへらりと動かす。



「おはよう、なまえ」



 耳触りのよい、まるで凪いだ海。慈しむような優しい音に自分の名前が包まれ、気恥ずかしくなる。
 同時に、起き抜けの無防備の状態を見せられて、自分よりはるかに強い彼に、庇護欲のようなものが生まれた。ふにゃっと崩れてる目元が、猫みたいで可愛いと思った事は内緒。
 見惚れていることが聡い彼にバレないよう、反射的に小さく右手を上げて、



「お、おはよう。夏油くん」



と何気なく挨拶を返した。
 眠そうな夏油くんの視線を感じながら、私はいそいそと自分の席につく。
 今日は珍しく、同級生四人が揃うはずだったのにどうしたんだろう、と両隣の空いた席に目を向けていれば、右から落ち着いた声。



「悟は急な任務だってさ。硝子もさっき急患が入ったらしくて。私たちは自習してろだって」

「そう、なんだ。二人とも朝から大変だね」



 これは予想外。夏油くんと二人きりの空間に突然放り込まれた。一気に体に緊張が走る。
 大きくあくびをする夏油くんは、私と二人きりだろうが、何も思ってないだろう。焦っているのは私だけなのだ。急にちょっとだけ教室の居心地が悪い。
 気を紛らわすように、自習かぁ、何しようと考える。そういえば、一般科目を教えてくれる窓の人が、抜き打ちで数学のテストするって言ってた。その勉強でもしようかとノートを取り出すと、



「ちゃんと自習するんだ。なまえは真面目だね」



私の方に体ごと向けて、傾いた頭を右手で支える夏油くんが感心したように微笑む。バカにするわけじゃなく、偉いねと純粋に褒める響きがあった。
 突然自分の行動を讃えられ、返事に困った私は、そうかな…?と曖昧に笑う。


 真面目だからではない。夏油くんと二人の空間に緊張するから、他の作業をして気を落ち着かせたいだけだ。本当は数学の勉強なんてやりたくない。
 なんでもない風に私がシャーペンを手に取ると、夏油くんも暇つぶしにカチカチとスライド式の携帯電話をいじり始めた。
 言葉のない教室に、時計の針の音だけが響く。こんなに音大きかったっけ?って思うほど。


 ノートを開いたのはいいものの、一問目からつまずき、自分の出来なさに早速失望した。
 うーん、と頭を悩ませていれば、ふと自分の横に大きな気配。
 顔を向けると、ガタイのいい夏油くんが、窮屈そうにその体を折り曲げていた。一房の前髪の隙間から見える琥珀色の瞳は、興味深そうに私の手元を注視している。




「数学か」
「う、ん。窓の先生が、抜き打ちでテストするって言ってたでしょ?私、数学苦手だから…」
「私が教えてあげようか?」




 えっ、と思いがけない発言に夏油くんの顔を二度見する。疑問系で聞いてきたにも関わらず、夏油くんは私の答えを待つ気はないらしい。
 窓際の五条くんの椅子をガタガタと音を鳴らし、私の机の前に持ってきた。向かい合う状況に動揺を隠せない。



「そんな、いいよ!」



と反射で答えてしまうが、正直数学はテストがある度に「お前どうだった?何点?」とワクワクした様子で五条くんに聞かれる。完全にバカにしているのだ。
 でもそのくらい、いつも壊滅的な点数をたたき出す。なので、教えてもらえるのはありがたいけど…夏油くん教えるの大変じゃないかなと不安になる。
 私、数学ほんとに出来ないよ?理解するまで時間かかるよ?
 夏油くんに、こんなのも出来ないのか…と呆れられたらショックで寝込みそう。
 しかも向かいあってなんて、自然と距離が近くなる。私の心臓、絶対もたない。

 数秒悩んでいれば、見かねた夏油くんがペラペラと教科書をめくる手を止めて、



「私が復習をかねてやりたいんだ。あ、もちろん君が良ければだけど」



 そう言って微笑んだ。
 夏油くんは復習しなくても、このくらいの数学のテストは解けるはず。しかし、私の気持ちを察したのか、自分の復習の為にやりたいと瞬時に言い換えてくれた。
 そんな風に言われたら、じゃあ教えてもらおうかな…と思ってしまう。
 相手に気負わせず、うん、と言わせるのが上手な人だ。彼の人柄を表すやりとりに、またも胸に柔らかい何かが積もる。



「じゃあ、夏油くんが迷惑じゃなければ、その…お願いします」
「うん、いいよ」



 私のあわよくば好きな人と話したい、なんて下心とは裏腹に、「喜んで」と穏やかに笑う夏油くん。そんな彼を直視できなくて、慌てて視線をノートに落とした。









「それは、さっきと同じ公式だよ」
「あ、そっか」



 無骨な長い指先がスッとノートを撫でる。短めの睫毛がおりた双眸は、私のシャーペンの動きに合わせて、左右に移動していた。

 そんなに凝視されると手元が狂ってしまう。下手な字は書きたくないし、計算式も間違えたくない。指先から緊張してることが伝わってしまいそうだ。
 


「なんだか、なまえと話すのも久しぶりだね」
「そうだよね。み、三日ぶりくらい? 」



 夏油くんは指先でコロコロと消しゴムをもてあそびながら微笑んだ。


 夏油くんは三日ほど、泊まりがけの任務に行っていて、昨日の夜遅くに帰ってきた。どうりで朝から眠そうなわけだ。


 一級の夏油くんは一人で任務に赴くことが多い。対して私は三級。二人体勢での任務が多いけど、相方は主に先輩術師や、後輩の七海くんや灰原くんだ。
 そのため、彼と会うのは任務外のこういう学校生活でしかない。



 開いた窓から優しい風が流れてきて、私たちの髪を揺らす。
 その心地の良さに、季節が夏に変わりつつある青空に、つい視線を向けてしまうほど。


 そんな私に気づいた夏油くんも頬杖をつき、顔を外へ傾けた。
 空に浮かぶ綿あめみたいな雲。それと同じ髪色をした同級生が頭をよぎる。


 今、この瞬間、五条くんや他の術師は呪霊と戦っている。
 硝子ちゃんも呪霊のせいで怪我した人の治療している。
 血生臭い現実が隣り合わせ。
 なのに、私と夏油くんの間に流れる時間がこんなにも穏やかで、自分は術師ではなく、ただの高校生なのではないかと錯覚してしまう。
 本当にそうだったら良いのに、とさえ。

 

「ふっ」



 突然、気の抜けた声が聞こえたので、ハッとして顔を正面に戻す。思わずでた、という感じだった。
 頬杖をついていた夏油くんの切れ長の瞳が、横目で困惑した私を捉える。彼はあぁ、ごめんと困ったように眉を下げ、観念した素振りで静かに告げた。




「もし、私たちが普通の高校生なら、こんな感じなのかなって思ってね」
「えっ」




 心を読まれたのかと思った。口を半開きにして、目を丸くした私を、今度は夏油くんが不思議そうに眺める。




「わ、私も今、同じこと思ってた!」
「本当に?」




 思わずうわずった声と同時に、夏油くんの口元がふはっと弾けた。それが子どもみたいで、三日ぶりにみる彼の笑顔に、私まで嬉しくなる。
 二人でひとしきり笑った後、私は冗談めかして夏油くんに言った。




「でも、きっと普通の高校生だったら、夏油くんと私に接点なんてなさそうだよね」

「…どうして?」



 思いがけず真剣な声色に、返す言葉が遅れる。夏油くんの口元は微笑んでいるけど、琥珀色の瞳はどこか探るような動きがあった。
 その視線に思わず、手に持っていたシャーペンをギュッと握りしめる。



「ほら!夏油くんって目立つし、私とはタイプが違うっていうか!」



 言い訳がましくなるのが、余計に恥ずかしい。
 どうしてこんな、何気ない言葉を深堀りしてくるの?!と少しばかり夏油くんをうらめしく思う。


 でも実際に思ったことだった。もし、仮に私たちが普通の高校生だとしたら。
 夏油くんと関わりをもてるのは、よく彼の周りを囲っている先輩術師や、物怖じせず彼の連絡先をゲットしようとする補助監督のような、積極的な女性なのだろう。
 私なんて同じクラスにいても、名前を覚えてもらえるかすら危うい。

 呪術師という立場で、たった四人の同級生だから、こんな私でもタイプが違う三人と仲良くなれたのだ。
 そんな説明を必死にしていれば、徐々に目の前の彼の顔が崩れていく。ククッと堪えるみたいに体が震えていた。え、笑われてる?




「すまない。接点ないなんて悲しいこと言うから、イジワルしたくなっちゃった」

「は、はい?」

「目立つとかタイプとか、関係ないよ。多分私から話しかけてる」

「どうして?」




 意外すぎる回答をした夏油くんを訝しげに見やれば、唇が綺麗に弧を描いており、瞳はスッと細い三日月のよう。
 笑顔というより、人間を手のひらで転がす美しい狐のような、妖しい笑みと表した方がしっくりくる表情だった。




「今みたいに戸惑ってる君、可愛いから」




 話しかけたくなっちゃうな。
 それは本音か、はたまた私を気遣っての言葉か。
 口をぽかんと開けた私に、夏油くんはにっこりと微笑み、


「休憩しよっか。自販機行くけど、何飲みたい? 」


といつもの調子で聞いてきたのだった。