肩の荷が降りるって、たぶんこういうことだ。一つ大きな企画が終わった。約五ヶ月間駆けずり回って、ようやく先週落ち着いた。
久しぶりに心の休まる昼休みを迎えた気がする。駅前のカフェのランチはやっぱおいしいな。ここ最近はコンビニの軽食片手に作業できればいい方だったから。
自販機を目指して一つ上のフロアを歩けば廊下の壁紙が張り替えられてることに気がついた。いつから張り替えられていたのだろう。そんなことにも気がつかないほど余裕のない毎日を過ごしていたんだろうか。来年も同じ企画に参加するなら、その時はもう少し余裕を持って取り組めるといいなあ。

暖かなスチール缶を両手で包み、幾分軽い足取りで来た道を戻る。ふとガラス張りのスペースに目が止まった。あら、さっきまで誰もいなかったのに…。あそこに人がいるなんて珍しいな。

『……なんやねんそれー!言うて、そのあと…』
『……ほんまに!?そんな感じやったんや〜…』

ほんの数分前まで無人だった喫煙所が賑やかになっていた。ガラスの向こうから軽快な関西弁が聞こえる。たぶんこの階の課の人だ。オフィスの前を通り過ぎるといつも関西弁が聞こえている。
少し覗いて、煙る空間にいる二人組の男性を確認した。1人は背を向けてて見えないけど、もう一人は見覚えのある顔を見せていた。

…あの人、村上さんだ

私と同期で入社して、一瞬同じ部署だったはずの彼は あれよあれよと言う間に異動し、昇進していった。できる人っていうのは違うんだなあ、と羨望にも似た気持ちで、入社以来数年間彼を見ていた。一方的に。

彼はきっと私のことなんて覚えてない。だってまともに話したのなんてたったの数回だ。私が勝手に憧れて、勝手にそのやりとりを大切な思い出として胸の奥にしまってるだけ。それだけ。好きとか、そんなにはっきりした感情ではなかった。

彼の噂は常々聞いていた。要領がよく、気さくで、芯の強い人だと。彼の話を聞くたび、なぜか自分も頑張らねばとよく奮い立たせられた。そんな存在。

喫煙所の前を通り過ぎる寸前、ガラスを隔てて笑い声が響いた。

…あ、可愛い。

村上さんって、あんな風に笑うんだな、なんて、白く煙る部屋を少し羨ましく思った。


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定時帰宅者を横目で見送りながら階段を登る。片手にポーチとスマホ。迷ったけれど、やっぱり寄って行こう。少なからず、昼のことも頭をよぎっている。

少し重めな透明のドアを押し開く。特徴的な匂いが鼻を通ってすぐに溶けた。洒落た硬い皮のベンチに腰掛けて、わざと可愛らしいデザインを選んだポーチを開ける。

煙草を吸い始めたのは、いつからだろう。会社でも吸うようになったのなんて、ここ数年だ。別に人に知られたくないわけじゃないけど、ただなんとなくここを使うときは人の少ない時間帯を選ぶようになっていた。

火をつける、ゆっくりと吸い込む、吐き出す。
この瞬間が、落ち着く。憩いの場、癒しの時間。

ふと吐き出した煙が動いて、ドアが開いたんだと気付いた。来客は仕方がない。ここは会社の一角だし、この階の喫煙所は利用者が少ないとは言えこういうことは往往にしてあった。
とん、とスタンドに灰を落として、何気なく見上げたその顔に わたしは絶句した。

…村上 さん

彼はちらりと私を見て、自然な流れで隣に座った。二人の間にはオーソドックスなスタンド灰皿がひとつ、ただ一定のこの距離に違和感を生み出さない唯一の味方がいた。

別に普段は気にしてなかったけど、彼に喫煙がばれてしまったのには少しだけ動揺した。いや別にいいんだけど。ただ吸い始めた当初、少なからず彼の真似をしていたところがあった。それを思い出して恥ずかしくなってる。ただそれだけだ。

足を組み替えるふりをして流し目で彼を見た。手持ちのオイルが切れているようで、煙草を咥え小さく舌打ちをしてポケットを探っていた。


「……どうぞ、」


迷って、自分のちゃちな百円ライターを彼の前に差し出す。


「おん、どうも。」


軽く会釈をして彼が口元を寄せる。かちんと音を立てて照らされた彼の顔が、伏し目がちにこちらを向いただけで手先が震えないか心配だった。


「ありがとうな」


吐き出された煙に遅れてお礼が聞こえて、「いいえ、」と返すと自分の煙草とは違う匂いがした。



「…煙草、吸うてんねや」



絶妙な間で飛んできた言葉に、逸らしかけていた視線を再度彼に戻す。煙草吸うてん…わたし?


「はあ、まあ、?」


あまりに唐突なセリフに曖昧に返すと
「入社したての頃は吸うてなかったやろ」
なんてとんでも無いことを言いだすから私は小さく息を吸った。


「…わたしのこと、覚えてるんですか?」
「…はあ?何言うてんねん。」


同期の顔くらい覚えてるわ。なんやその敬語、気持ちわる。
わざとらしく顔を顰めた彼は悪態をつきながら煙を吐き出した。


「神谷響子、ちゃんと覚えてんで。お前こそ俺のこと覚えとるんか。むらかみしんご。はじめ隣のデスクやったやろ」


昔俺が火ぃ忘れて貸してくれ言うたら吸うてない言うてたやん。なんやねん。

まさか彼が自分のことを認識してくれていたなんて、嬉しくて。そんな些細な会話まで覚えてくれていたとか、なんだか信じられなかった。


「いろいろあったっちゅーことやな神谷も」


なんてからかうように、数年ぶりに呼ばれた自分の名前がいつもより特別なように感じて。彼の笑顔が昼に見た可愛いそれだったから不覚にも胸が高鳴った。
今日の煙草は、美味しいような、味がわからないような。不思議な感じだ。

煙が灰を落として、わたしの服からは彼の匂いがした。彼のスーツにも、わたしの匂いが移ってればいいのに。







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7F喫煙所、午後5時30分。

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ミガッテ