「渋谷くん」


聞きなれた声に胸が詰まった。記憶の隅に残る彼女の声より幾分大人びたそれは毎度ご丁寧にチクリと俺に刺さってじわりと溶ける。


「今帰り?」


振り返ると嬉しそうににこにこと駆け寄るパンプスの音が響いた。「飲みに行こうよ」なんて、純粋な目で見つめられれば刺さった棘がズキズキと痛くなる。

幼馴染。とは言え高校から進路は別れ、それから大学卒業までほとんど接点はなかった。
時を挟んでの再会、お互いの成長は少し違う方向へと進んでいた。



「すばくん、ちょっとペース早くない?」
「…いつも通りやろ」



社外に出た途端こいつの中の“渋谷くん”は影を潜め、代わりに大好きな幼馴染の“すばくん”が現れる。どこの誰だか知らない“すばくん”を見るその目は綺麗で、綺麗すぎて俺には少し痛い。

“すばくん”だった頃の俺は、とっくにどっかいった。
自分でもどこに置き去りにしてきたんか 知らんけど。


「なんかあった?」
「なんもあらへん」


心配そうな顔。そっけない返事に「…ならいいけど」という全く良くなさそうな素直な反応。…素直すぎるわ。一体全体どんな高校大学生活を送ってきたらこんな大人になれるんか教えてほしい。


「すばくんのいる課ってさ、大変なとこなんだね」


うまくやってる?すばくんならやってるか。
勝手に自己完結させてグラスに口をつけるこいつは、俺の何を見てるんだろう。むしろどんな高校大学生活を想像してんねやろ。
お前が覚えてるような、楽しいすばくんともうちゃうんやぞ。語気を強めてそう言ってやりたかった。
そもそも俺はその頃の俺をもうあまり覚えていない。

小学生の頃、彼女がお気に入りだと言っていた手帳に落書きしたことがあった。予想もしないほどわんわん泣いて怒られたのにはびっくりした記憶がある。怖くなってその場は逃げ出したけれど、次の日近くのスーパーで買った似たようなサイズの手帳を持って謝りに行くと、彼女は拗ねながらも許してくれた。今思い出すと俺の買った手帳はセンスがなくて 琴美のお気に入りのものとはデザインも物もかけ離れていた。それでも琴美はそれをいたく気に入っていた。

それが思い出せる琴美との一番古い記憶だ。



「お前こそちゃんとやってんのんか」



琴美は要領の悪いタイプではないけれど、どこか心配になる性格をしている。放っておいたらそれれはそれでうまくやるんだろうが、こう毎回呼び出されてはこちらも気になった。


「んー…なんとか?」
「やれてへんのやろ、お前のことやし」
「ちょっと、失礼なんですけど」
「お前がちゃんとしてるとこ俺想像できへんわ」
「すばくんの中のわたし絶対中学生で止まってるでしょう」
「しゃあないやんけ。お前の胸の成長が中学で止まってんねんから」
「止 ま っ て な い で す 。脱いだらすごいよ?」
「ほー、ほな確かめたるわ」


やだよ。
そう言う彼女の笑顔は本当に中学の頃のままに見える。見た目だけ、見た目だけいっちょまえの大人になってまったみたいに。

控えめだが華やかに彩られた化粧はよく馴染み、薄い紅に色付く唇はあの頃よりぐっと洗練された弧を描く。手入れされた髪の毛は社会人たる清潔感を持ってまとめられ、覗く視線はふとした拍子にとんでもない色気を帯びる。そんな彼女から俺は幾度視線をそらしただろう。
あまりに魅力的で、なのに手を出すことは躊躇われる。


「ええやん。他に脱ぐ機会ないやろ」
「なにそれ」
「あるんか」
「……ないけど」


“綺麗”なまま育った彼女に対して、俺は少し汚れた。ことに恋愛ごとに関しては決して心象よくないだろう。泣かせた顔が一瞬でいくつも浮かぶのは、はたまたいくつも忘れているのは、今となっては最低だと認識できるのに。重なり積み重なった歴史に恨みはない。取り戻すつもりもない。
だがこの手でひとたび彼女に触れてしまえばあっという間に汚してしまいそうで、そもそも綺麗なものが嫌いな俺は濃く太く彼女との間に線を引いた。もうちょいでええから、遊んどったような素振りでも見せて来たら食いつけんのに。と何度も思った。


「しばらくおらん言うてたやろ、彼氏」
「うん」
「はよせな貰い手なくなるんちゃう」
「…もしだめだったらすばくんがもらってくれるでしょ」


笑う彼女はこんな言葉を何度も口にする。
琴美は俺のことが好きだ。


「…あほか、いらんわお前なんか」


好意を口に出すことを躊躇わない彼女と反対に 俺は彼女を女として見るのをやめた。
入社2年目の決心だった。


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ミガッテ