「────君さぁ、まさか本気で「巫蠱(かのじょ)」を「人間」に戻せるとでも思ってる?」











「交流会以降、やけに五条先生が上機嫌なんですけど、何かあったんですか?」
「…………あった、と言えば、あった、かも、しれません」

 女性の太股に後頭部(あたま)を預け、濡れたハンカチによって大人しく血まみれの額を拭われ続けている伏黒恵は率直に相手へとそう問い掛ける。今の今までこの場に居た男の姿を脳裏に思い描きながら。
 しかし見上げる先の女性が珍しく歯切れを悪くし、挙げ句、困ったように眉を下げるものだからこれ以上の言及は敢えて避けておいた。この様子からして自分には言いにくい内容なのだろうと。

「なんと言いますか、伝え方が下手、だったみたいで」
「?」

「──……いえ、あの場合、もっとハッキリと態度で示すべきだったのでしょうね」

 “応えられない”。
 と告げておきながら、最後まで拒むことが出来なかった。

あんなの(・・・・)、大失態も良いところです。自分自身に心底失望しました」

 いや、違う。
 拒むことが出来なかったのではなく、“拒みたくなかった”のだ。

 「五条悟」と言う人間を、拒みたくなかった。

 相手の身を本気で案じ、想うのならば、何がなんでも「拒絶」すべきだったのに。
 なのにそれが出来ず、あろうことか余計に離れがたく思ってしまうだなんて──────これを『失態』と言わずに何と言うのだろうか。

(あんな風に失うくらいなら自ら手放す方がずっとずっとマシだと言うのに、)

 それなのに、何故。
 どうして五条を前にした時にだけ、抱いた筈の決意がこうも簡単に揺らいでしまうのだろうか。
 喪ってからでは遅いことを身を以て知っているくせに。

『……?その割にはあの人、終始緩みっぱなしの顔のまま虎杖達に絡んでたような気がすんだが』

 何にせよ、五条にとって彼女の失態など失態の内に入らないのだろう。
 と言うか、そもそも「失態」として認識しているのかどうか。

『巫蠱さんが関わると普段(いつも)以上に頭のネジがブッ飛ぶような人だからな。何があったかは知んねぇけど、五条先生の“あの様子”を見る限り、心配するようなことにはなってねーんだろ』

 だが当の本人はそう思ってはいないらしい。
 見るからに落ち込んだ様子で、どこか「後悔」とも違う、実に形容しがたい複雑な感情を抱いているようであった。

 だから、と言うわけでも無いのだけれど。

「────……あの、」
「?はい」
「もし、本当にどうしようもなくなった時は、言って下さい」
「……」

「俺に出来ることなら、何でもしますんで」

 否。
 例え自分自身に出来ないことだとしても、彼女が「伏黒恵(じぶん)」に助けを求めたのならば何だってして見せよう(・・・・・・・・・・)
 過去、寝たきりとなった義姉(あね)と共に救われた分だけ。
 今も尚、救われ(おも)われ続けている以上の「(もの)」を返すためにも──────“その時”は何がなんでも「彼女」の力になろうと、そう幼い時分から決意していたが故に。

『つーか、“そう”なる前に大抵のことは五条先生が何とかしちまうんだろうけど…………本当、規格外にも程があんだろ、あの人』

 “本気でやれ。もっと欲張れ”。
 そんな風に五条は自身を諭し(あおっ)たけれど、改めて思う。
 本気でやって、どんなに欲張ったとしても、『それでも勝てないのが「五条悟(アンタ)」って存在(ひと)なんだよ』と。
  ……いや、まあ、でも、曲がりなりにも期待されている以上は自分なりに色々と足掻いてみるつもりではあるのだが。言われっぱなしも癪だし。

「…………恵も津美紀に似て、本当に優しく、芯の強い子に育ちましたね。私は善人では無いと言うのに」
「巫蠱さんが善人じゃなかったら大半の人間は悪人に分類されるんじゃないですか」

 真顔でそのようなことを述べたら女性が目を瞬かし、先程のものともまた違う、実に困ったような微笑を浮かべた。恐らくどう答えるべきか迷ったのだろう。
 ただ彼女のそんな顔を見て、『やっぱり好きだな』、と言う感情が溢れ出てくる。
 未だに「これ」が親愛なのか、友愛なのか、はたまた別のものから来る感情なのかは判断が付かないのだけれど。
 でも、“もっと自分に対して色んな顔を見せてくれたら”、と想うときがある。

 五条悟以外で彼女の感情を引き出せる存在であれたら良いのに、と。

「きっと、恵はこれから先、もっともっと強くなっていくのでしょうね」
「──……」

「ならば尚のこと、いざと言う時は「自分」を大切にして下さい。……己を蔑ろにしてしまわないで下さいね」

 まるで此処に居ない「誰か」を懐かしむかのような眼差しと共に女性が伏黒の頭を撫で始める。少しだけ寂しげな手付きで、癖のあるその黒髪を。
 だからか伏黒は口を閉ざし、されるがまま、ゆっくりと瞼を落としていく。




 己に「誰」を重ねているのかは、最後まで尋ねなかった。











「ある種の悪癖だよね、恵のアレは」

 出血は治まったものの、場所が場所なだけに大事をとって家入の元にまで行くよう伏黒を促したら入れ替わるようにして五条が道場に姿を現した。その手に見慣れたコンビニ袋を提げながら。

「……………………あれから再三お聞きしていますが、治して下さいましたか」
「あれから再三答えてるけど、治すつもりはないよ。だって巫蠱が僕に付けてくれた(きず)だし。どうせなら皆に見せびらかしたいくらい」
「やめてください」
「むしろ消え(なおり)かけてきてるから新しいのを付け直して欲しいくらいなんだけど、駄目?」

 あざとく小首を傾げて「お願い」をしてきているが、内容が内容なだけに女性は敢えて無反応を貫く。
 すれば「ちぇっ」と何とも解りやすく唇を尖らせながら此方にまで歩んでくる五条だったが故に、気持ち距離を取ろうとする女性であったのだが────────抵抗虚しく、それはそれは呆気なく膝を奪われてしまうのであった。もはや当然、とばかりに。
 でもって普段と何ら変わらぬ態度でプリンを手渡されると条件反射でつい「ありがとうございます」、と口にしてしまう女性で。

「あーあ。本当なら連日連夜、思う存分巫蠱を抱き潰すつもりだったのに、仕事入っちゃうし。「上」の連中、ほんっとタイミングが悪いんだよ。空気が読めないにも程があるっての」
「…………」
「これまで我慢し続けてきた分、ようやく好きなだけ巫蠱を抱けると思ったのに」
「…………」
「やっぱり一度でも抱いちゃうと歯止めが効かなくなっちゃうもんなんだね。出しても出しても全っ然萎える気配なかったし、気持ちよすぎて最後ら辺なんか完全に加減とか忘れちゃってたし」
「…………」
「巫蠱が気を失うくらいまでシちゃったのは、まぁ、悪かったなーって思ってるけど。でも巫蠱にも原因があると思うんだよね」
「…………」
「だってさぁ、あんな顔できゅうきゅう僕のを締め付けてきたら加減なんか出来なくない?イった時の顔とか超可愛いし、何度だって見たくなるじゃん。見たけど」
「…………」
「ぶっちゃけ何回シたのか覚えてないんだけど、巫蠱が寝てる僕を置き去りにして普通に硝子の所に行ったくらいだから、これからはもっと激しくしたって問題ないってことだよね?」
「………………ッッ」

「?巫蠱、切腹する直前の武士みたいな顔になってるよ」

 誰のせいだ。
 拷問にも程がある。いっそ一思いに殺してくれないだろうか。
 口に運んだばかりのプリンの味も一切感じられない程に居たたまれないのだが。

「あ、そうだ、巫蠱」
「な、んでしょうか……」

近々、正式に籍入れるから(・・・・・・・・・・・・)

 今度は一体なんだと一口だけ味わったプリンの容器を傍らに置いたら、サラリ、と一言。
 だからであろうか、素直に“聞き間違えた”と思った。
 だが目下の五条が「何か」を確認するかのようにして左の薬指に触れてきたことで女性はすぐに“それ”が聞き間違いではなかったことを察する。
 つまり五条は女性と「籍を入れる」と、そうハッキリと告げてきたのだ。予てより公言していた通り、自分自身の「お嫁さん」にする為に。

「本当は「五条」を継いだ次の日には籍を入れるつもりだったんだけど、僕が巫蠱を独占し続けてたことも相まってか、流石に周りが黙ってなくてねー。いやもう五月蝿かったのなんの」

 特に禪院家は「禪院甚爾」の件で彼女と関わりが深かった分、断固として「それ」を阻んできたのだ。
 幾ら女性の身を預かることが出来る御三家とは言え、これまで誰一人として“そのようなこと”をしようとした者は居なかったが故に、皆が皆、改めて腹の探り合いをし始めたのである。
 ……いや、もしかしたら過去にも似たような事をしようとした者は居たのかもしれないが──────恐らく当時の五条と全く同じ結果となってしまっていたのではないだろうか。

「結局、御三家を納得させられるだけの経験、実績、名声がない限りは到底許可出来ないことだとか何とか捲し立てられちゃってさ。よっぽど巫蠱が持つ人脈やら金やらを独り占めにされんのが許せなかったのかね。僕からすればンなもん、どうだって良いってのに」
「初耳、なのですが」
「言わなかったからね。周りも一過性の感情として切り捨ててたみたいだし、巫蠱の耳には入らないようにしてたんでしょ」
「…………」

 尤も、この十数年間で経験も実績も名声も嫌と言うほど御三家に轟かせてきたので、今回ばかりは流石に誰も何も口出し出来ない筈だ。当然、根回しも怠らないつもりだし。





【そんなん、“化け物”も愛せる「最強」の自分に酔いしれとるだけやろ】





 ただ、それでも誰も彼もが素直に口を閉ざしてくれるとは限らないのだけれど。

「巫蠱は初恋キラーだからなあ」
「……今度は何の話ですか?」
「よく聞く“初恋は実らない”、って話。但し僕は除く」
「??」
「牽制したくなる気持ちも解らなくはないんだよ。逆の立場ならね。たださぁ、“本気で手に入れるつもりのない奴らがそもそも口出ししてくんなっつうの”」

 その時その時で出来ること、為すべきことをし、ありとあらゆる手段を用いて“やっとスタートラインに立てた”事も知らずに、よくもまあ好き勝手なことを言ってくれるものだ。
 どいつもこいつも此方の耳に入らないと思って思うがままを口にしているのか、或いは耳に入ることを想定した上での発言の数々なのか。無論気にしたことは一度もないけれど、それなりに耳障りであった事は確かだ。

『加茂家は過去に巫蠱の地雷を踏み抜いちゃった件があるからか、「巫蠱」の名前を出せば渋々ながらも多少は融通を効かせてくれるようにはなったけど…………禪院家はなあ』

 過去の因縁と言うものであろう、兎にも角にも「五条家」が関わると未だに頑なな態度を取り始める人間が多いのである。
 両者死亡の御前試合なんて疾うの「昔」の話で、「今」を生きる自分らにまで“それ”を押し付けて欲しくは無いと言うのに。

「……今からでも、考え直しては頂けませんか」
「じゃあ巫蠱が未だに僕に隠し続けてる部分(こと)、そろそろ教えてくれる?」
「──……」
「大方、宿儺関連なんだろうけど。しんどいとは言え、最終的には僕が「勝つ」んだから安心して僕の腕の中に飛び込んでくれば良いのに」

 触れたままであった女性の指に指を絡め、五条はジッと相手を見つめる。
 「全て」を打ち明けてくれさえすれば後は自分が何とかするから、と、暗にそう伝えながら。
 しかし見詰める先の女性は彼の願いとは裏腹に、どこか苦悶に満ちた表情で唇を噛み締めると、相も変わらず沈黙を「答え」とした。

『「宿儺」に関する事柄は話せないよう“縛り”が科せられてる、って訳でもないだろうに』

 これまでにもそれとなく促したことはあったものの、やはり彼女は自身を呪った「両面宿儺」の事となると口を噤む傾向にあるようだ。
 単純に己を苦しめ続けている「呪い」について話したくないだけならば、まあ良い。
 だが、もしも話すことが出来ない“明確な理由”が「他」にあるのだとしたら。

『やっぱり僕が重要な「何か」を見落としてる、ってことだけど』

 果たして見落としているであろうその「何か」とは?
 いっそ全てを白紙に戻し、そもそもの「前提」からして考え直してみるべきなのか。

『でも宿儺の「呪い」が基盤となってるのは確かなんだよな……』

 何はともあれ、“彼女の身体を巣食っている「両面宿儺(のろい)」をただ祓うだけでは根本的な解決には至らない可能性も視野に入れて行動し直すべきだろう”──────と、そこまで静かに思考したところで暗い表情のままでいる女性に視線を戻す五条は、相手に気付かれぬよう小さく肩を竦ませると「ところで」と続ける。宿儺の話題(はなし)はこれでお仕舞い、と言わんばかりに。

「僕、また暫く出張になりそうなんだよね」
「?はい」
「で、だ。思い返すと何だかんだで“あの日”以降、一度も出来てないわけじゃん」
「……?」
「だから今夜は最後まで付き合って欲しいなぁって。あ、勿論ちゃんと加減はするよ?可能な範囲で」
「………………まるで決定事項のような口振りで居ますが、するつもりはないですからね」
「チッ」

 流れで押し切れるかと思ったら流石にそう都合良くは行かないらしい。
 なので「このままじゃ僕、また自分で自分を慰めなくちゃいけないじゃん。巫蠱が居るのに。巫蠱が居るのに!」などと続け様に訴えかけてみるのだが、見事にサッと顔を逸らされた。まさかの聞こえなかった振りである。顔を逸らした時点で聞こえていたことを証明していると言うのに。
 と言うか、この距離で聞こえていない振りはどう考えても無理がある。いやまあ確かに五条(じぶん)自身もよく使う手ではあるのだが。

「じゃあ今日は我慢するから、巫蠱からちゅーして」
「(今日は?)」

 じゃなきゃ今日はもう何もする気になれない。
 そう言ってツーンと拗ねて見せる五条ではあったものの、なんと言うか、その、二十八にもなる大の大人が取る態度ではない。しかも膝枕は堪能したままなので余計に「いい大人が」感がある。
 ただ、このまま本当に何もせずに居ると、彼は本気で怠惰を貪り始めるのだろう。「巫蠱が僕のささやかなお願いすら無下にするから……」とか何とか言って。
 なので悩みに悩みながらも最終的には仕方なく彼の望みを叶えてしまう女性の図、とやらが出来上がってしまうのであった。

「…………なんで手首?そこは普通唇じゃないの?」
「どこに、とは指定されていませんでしたので……距離的にもそこが近かったですし」

 それにいつだったか、と女性は記憶を呼び起こす。
 こんな風に手首へと口付けられたことがあった、かつての日のことを。




【いつの日か必ず、私が、私の「理想とする世界」を手に入れたのなら…………その時は貴女と色々な話がしたい。貴女に、聞いて貰いたい想い(ことば)がある】




 手に手を重ねられ、強く握り締められた後、何かの「願い」と共に────────こうやって静かに唇を寄せてきた、彼の人物の事を。

「無意識で“ここ”を選んだってんなら嬉しい限りなんだけど、巫蠱だからなぁ」
「……?」

 乱れることなく脈を打ち続けている箇所に触れるだけの口付けをされた五条は『これ、誰かしらにされたことがあるんだろうな』、だなんて見解を胸に抱くと気怠そうに上体を起こしていく。それでいてジトッとした目で相手を見やると距離を詰めるなり、かぷっ、と彼女の喉に噛み付いた。

「!?」

 甘噛みである。
 でもって“ちゅぅ”、と音を立てて吸い付けば繋いでいた手を離した女性が慌てた様子で喉を押さえた。「痕」を残されたことが解ったからであろう。

「なんっ、こ、こんな見える場所に……!」
「良いじゃん、解りやすくて。「この身体はもうどこもかしこも五条悟(ぼく)のものだから手を出したら容赦なく潰すぞ」ってアピールにもなるし」
「…………巫山戯てますね?」
「真面目も真面目、大真面目だよ。巫蠱の前では良い子ちゃんでいるけど、野郎の前の僕なんて大体そんな感じだし、ちょいちょい悪どいこともしてるしね」

 特に彼女に対して邪な感情を抱いている人間の前では体裁を取り繕う必要もない。
 露骨も露骨、生徒達が見ていたらドン引きも良いところのクズっぷりを発揮しているくらいだ。
 現に“その辺り”のことをよく知っている家入から「相変わらず清々しいほどのクズっぷりだな」だなんて評価を改めて受けてしまった位だし。



「そんな訳だから、もしも僕に“万が一”が遭った場合(とき)は──────僕と一緒に堕ちるところまで堕ちてね」













「巫蠱さーん。なんかこう、良い感じのヒモとか無い?」
「紐、ですか」

 偏に「紐」と言っても様々な種類(もの)があるが、この場合は雑誌などを片付ける際に使用するビニール紐とかでも良いのだろうか。
 それならば以前使ったものがある、と場所を移動する女性は虎杖を伴いつつ“とある部屋”へと足を踏み入れる。見渡す限り段ボール箱しかない、ある種「物置」とも取れそうな一室へと。

「うおっ。なにこれ」
「過去の任務で使用したもの、ですね。あとは普段使いのものとかも含まれていますが」

 何分、呪術高専は万年『人手不足』故に後片付けが追い付いていないのだ。
 時間さえあれば補助監督らもちょこちょこと片付けに来てはくれるのだが、如何せん彼らも彼らで多忙な身、むしろ此処に物を置きに来る頻度の方が高いので一向に段ボール箱が減らないのである。なので専ら女性が一人で後片付けに勤しんでいるのだ、他にすることもないし。
 それに去年の「百鬼夜行」以降この身を自由に動かせるようになった事もあってか、これでも当時と比べて大分片付いた方なのだ。そう見えないだけで。

「悠仁はそこで待っていて下さい。場所によっては崩れてきてしまいますから」
「手伝わなくて平気?」
「大丈夫ですよ。どこに何があるかは把握していますので」
「んじゃ大人しくしときまーす」

 女性の言葉通り、場所によっては天井近くまで段ボール箱が積み重ねられている為、どこに何があるのかを知らぬ虎杖は大人しく隅っこへと身体を寄せていく。下手に触ると雪崩が起きかねないからだ。
 虎杖自身は埋まっても問題はないのだが、もし万が一にも女性の身に何かがあれば、先ず間違いなく伏黒にどやされる。それはもう目に見えて明らかな程に。
 で、その事を知った釘崎にも漏れなくどやされてしまうことだろう。本気で気を付けねば。

「ところで、悠仁は部屋の片付けでもなさっていたのですか?」
「んーん。単純に今度の任務でヒモを使うかもしんなくてさ」
「……?捕縛用の呪具でなく、普通の紐で良いのですか?」
「平気平気。飛び降りるときに必要なだけだから」

 ………………何て?

「あの、本当にビニール紐で良いのでしょうか……?」
「?うん。全然オッケー!」

 女性からの不安げな問いに思わずキョトンとしてしまう虎杖ではあったものの、段ボール箱の中から取り出されたものを目にしては即座にグッ!と親指を立てる。正に「これを探してました!」と言わんばかりの笑顔と共に。

「あざっす、巫蠱さん!」
「いえ……くれぐれも、くれぐれも無茶だけはしないで下さいね」

 虎杖の身体能力を持ってすれば並大抵のことは容易に切り抜けられるであろうが──────目を離すと割と普通に無茶をする子なので多少の不安は残る。
 だが次の任務は一年生組、つまりは伏黒と釘崎も一緒であるらしいとの事なので“いざ”となったらあの二人が虎杖を止めてくれる筈だ。……多分。
 ならば後の事は伏黒と釘崎に任せよう、と女性が手にしたビニール紐を虎杖に手渡そうとしたら。






「この千年で随分と「人間のフリ(・・・・・)」が板についたものだな」






 “だがオマエが「何」であるのかを忘れたわけではあるまい”、と。
 ビニール紐を受け取ろうとした虎杖の手の平からそのような呪詛(ことば)が吐き出された瞬間、反射的に肩を震わせてしまった女性の身体から一気に熱が(うしな)われていく。と同時に、カチ、と小さく歯が鳴った。

「一度ならば見逃してやる。だが二度はない(・・・・・・・)
「──────、」

「本来その血と肉を喰らっていいのは“この世でただ一人”、どこぞの最強然とした術師なんぞにくれてやって良い代物ではない」

 己が俺の「一部」であることを忘れたか。
 皆まで言わずとも“そう”告げられているであろうことが理解(わか)ってしまったが故に、女性は何も答えなかった。否、答えられなかった(・・・・・・・・)
 「答える」ことが悪手であることを知っていて、「応える」ことが自分自身を苛む結果になることを知っていたからだ。

 だから何も言わずにいると、

「ふんっ!!!」

 向き合う先の虎杖がバッチイィン!、と、それはそれは勢いよく自身の手の平を叩いた。
 それでいて“ぐりぐりぐり”と捏ねるようして手と手を擦り合わせると、「いきなり出てきて何言ってんだテメェ」だなんて言いながら尚もベシッ!ベシッ!と己の手の平を痛め続けるものだから、我に返った女性がすかさず彼の手を取ってその行為を止めさせる。もう大丈夫だから、と。

「ごめん、巫蠱さん。気を付けては居んだけど、どうしても勝手に出てくんだよな」
「…………いえ。悠仁が謝るようなことではありませんから」

 今度こそ虎杖の手にビニール紐を手渡すと女性は何てこと無さそうに微笑む。
 いつも通りの態度でなければ彼が気に病むと思ったのだろう。
 現に虎杖は女性が微笑(わら)ってくれた事に胸を撫で下ろすと、ビシッ、と敬礼をするなり「んじゃ、ちゃちゃっと飛び降りてくんね!」と言って踵を返した。
 故に女性は元気よく駆けていく彼を微笑と共に見送り────────次の瞬間、なにかに耐えるかのようにしてゆっくりと蹲っていく。


(…………うん。平気。平気だ。どこも痛く(・・)なんてない)


 相手が「不完全」なままである限り、あの日の「痛み」がこの身に蘇ることはないのだから。










「そうだ伏黒君。あの時、津美紀さんも一緒にいたよ」









≪事情は分かりました、津美紀さんの護衛ですね。……ただ、≫

 今現在手が空いている術師は二級術師の方のみなんです、との報せを耳にしたことで応援を要請した伏黒がぐっと唇を噛み締める。
 また電話の相手こと伊地知が言うには「被呪者の数が此方の想定よりずっと多いとなると「呪い」の等級も見直さなければならない」そうだ。特に今回の「八十八橋」の任務は虎杖悠仁の成長を加味した上で割り振られたものである為、そこから更に危険度が上がるとなると二級術師でも手に余るだろうと。
 故に個人的には撤退をオススメする、それが補助監督である伊地知潔高の見解だった。

『どうする……俺だけでも今すぐ戻るか?』

 いや、駄目だ。
 三人でも危険だと判断した任務を虎杖と釘崎の二人だけに任せるわけには行かない。
 それに来週には五条が出張から帰ってくる、ならばその時に改めて「この件」を任せれば全ての問題は解決するのではないか。

『……っ違ぇだろ!問題は時間制限(タイムリミット)の方だ!!』

 伏黒恵の義姉(あね)、伏黒津美紀は“寝たきり”となっている。
 つまり「呪い」が現れても自己申告することが出来ないのだ。
 しかも呪霊が外から襲ってくるタイプではなくマーキングした人間の内側から術式が発動するタイプであったとしたら──────“側で守り続けていても意味がない”。

 要は今すぐ対象の「呪い」を祓わなければ、津美紀は、





≪でしたら私が津美紀の側に居りましょうか?≫





 「声」。
 今の今まで耳にしていた伊地知のものではない唐突な第三者の声、に、焦燥感に苛まれていた伏黒の心が物の見事に落ち着きを取り戻していく。
 だがその一方で相手の口から紡がれた“その台詞”にグッ、と拳を握り締めてしまった。

「巫蠱、さん」
≪津美紀は呪われています(・・・・・・・)。例え内側から発動する術式だったとしても、それが「呪い」である限りは──────「私」が何とか出来ます≫

 いざとなれば“この身体()に「呪い」を取り込んで(うつして)しまえばいい”、と彼女は語る。何の躊躇いもなく、それが一番良い方法だと言わんばかりに。

「でも、そんなことをしたら」
≪私の身は特に何も変わりませんよ。既に中身が“ぐちゃぐちゃ”なのですから、今さら「呪い」の一つや二つを取り込んだところで変化はありません。ただ悟にだけは内密にして頂ければ、と≫
「…………っ」
≪優先順位を間違えては行けませんよ、恵。貴方が今、何よりも優先すべきは津美紀の身です。家族、なのですから≫

 天秤にかけるまでもない。
 貴方もそれは既に理解しているはず、とまで言われてしまったら、伏黒はもう何も言えなかった。
 最悪の場合は“そう”してもらうしか他に術が無いからだ。
 現に術式が発動した瞬間、そこに女性が居て、義姉(あね)に触れてさえ居てくれれば──────────津美紀は先ず間違いなく助かる。助かる、けど(・・)

 どうしても「それ」を素直に受け入れる事が出来ない自分が居る。

「間に合いそうに無かった時は、お願いしても良いですか」
≪……恵≫
「祓って見せます。何としてでも、八十八橋の「呪い」を」
≪恵。「私」は元々そう言った用途で使われてきたので、この場合は至極正しい使用法なんですよ≫

 貴方は何も間違ってはいません、だなんて台詞に、伏黒恵は終ぞ返事を返さなかった。











「これが五条さんの耳に入らないことを祈るばかりです……」

 もし耳に入ろうものなら、絶対に「伊地知、何で止めなかったの?」と問い詰められる。これでもかと問い詰められる。
 以前は回避出来たが今回ばかりは確実にビンタを食らうかもしれない。彼女が関わると五条悟(あの人)はガチでそう言うことをしてくる、と至る方面から戦々恐々と聞かされてきたが故に。

 ……ああ駄目だ、想像するだけで胃がキリキリとしてきた。

「他に選択肢が無かったのだと言えば悟も納得して下さいますよ」
「それは巫蠱さんの前でだけだと思います……後で絶対に私に詰め寄ってきますよ、五条さん」
「では潔高を責めたら二度と口を聞きません、とでも言っておきましょうか」
「止めてください……後が怖すぎます……」

 未知の恐怖に晒されるくらいだったらビンタの方がまだマシ。
 そんな事を述べながら遠い目をする伊地知に端末を返しつつ、「何でもかんでも悟の許可が必要な訳ではないんですよ」などと苦笑いを浮かべる女性。
 まあ確かに五条以外と外出する際にはなるべく「誰」と「どこ」に行くのかを逐一報告するようにはしているのだが。何も言わないまま行動するとバレた時が面倒なので。
 実際、過去、何も言わずに彼の親友と「外」に出た際はそれはもう拗ねに拗ねられたのだ。ちゃんと彼にもお土産を買って帰ったと言うのに。

「何はともあれ、私が津美紀さんの居る病院まで巫蠱さんを送ります。あとは手が空き次第、一級術師の方にも応援を頼めないか連絡を……」
「────……恐らく、」
「?」
「恐らく津美紀の「呪い」は、今回の件ではまだ(・・)、発動しないはずです」

 明確な根拠がある訳ではない。
 どちらかと言えば漠然とした感覚からくる、ただの憶測、でしかないのだけれど。
 それでも不思議と“そんな気”がしてならないのだ。今はまだその時ではない、と。

「えっ。では津美紀さんの「呪い」は「八十八橋」とはまた別件の可能性があると……?」
「憶測でしかありませんので側に居るに越したことは無いのでしょうが…………前々から少し、思うところがありまして」

 伏黒津美紀が呪われた、と聞かされて、すぐに会いに行ったとき。
 どうしてなのかは解らないものの、何故か“思い出したくのない出来事を思い出してしまった”のだ。

 あの忌まわしき出来事を(・・・・・・・・・)

 年齢の割に実に大人びた思考と思いやりの心を持つ彼女のその寝顔を前に、何でか決して赦すことの出来なかった“あの行為”を思い出した。
 それ故か、一瞬とは言え、まさかと思ってしまったのである。あり得ないことだとは解ってはいても「まさか」、と。

(……いや、でも、)

 本当に“あり得ないこと”だと、そう断言してしまって良いものなのだろうか……?











あかんなぁ(・・・・・)。このままなぁんもせずに居ると、上手いこと事を運ばれてしまいそうな気ぃするわ」
「…………はい?」

 部屋の外から声を掛け、返事を耳にしてから戸を開け放ったら途端に“これ”である。
 故に一体なんの話だ、と訝しみを露にする使用人女性は廊下に座した状態のまま件の相手を盗み見る。
 こちらに振り返ることもせずに文机へと向き直っている、一人の年若い男性(おとこ)の背中を。

「ええよなぁ、悟君は。あれで「当主」やろ。そやから好き勝手出来て、欲しいもんも手当たり次第ぜぇ〜んぶ手に入れることが出来とるわけやし」
「…………」

「ならケチケチせんと一つくらい譲ってくれてもええのに……悟君、欲張りさんにも程があるんとちゃう?」

 ほんま羨ましいわ、だなんて述べては頬杖を突き始める男性ではあったものの──────その顔は一向に窺い知ることが出来なかった。
 ただ態度と口調からして普段通り、いつもと何ら変わらず軽薄そうな笑みを浮かべては居るのだろう。現に「当主が早よ“どうにかなってくれれば”俺にもまだチャンスはあるんやけど」だなんて不謹慎なことを口にしている位だ、確実に笑ってはいる。
 尤も軽口だから許される内容、と言う訳でもないのだが。

「甚爾君はええよ。甚爾君がおったから禪院家に留まる期間が予定よりも長うなったわけやし、むしろ感謝してるくらいやわ。死んでもうたけど」
「…………」
「なのに第三者が横から掻っ攫うてくってのはどうなん?甚爾君が死んで“やっと俺の番”やと思うとったのに、あの男、空気読まなさすぎやろ」
「…………あの御方の話でしたか」

 部屋の主である男性が「誰」の話をしていたのか、それを漸く察する事が出来た使用人女性は暫く目にしていない人物の姿を脳裏に思い起こす。相手が使用人だろうと何だろうと決して態度を変えず、いつだって平等に接してくれていた人物の姿を。
 しかし悲しきかな、五条家の預かりとなってからはとんと姿を見なくなってしまったのである。


 ────……いや、それだと少し語弊があるか。


 正確には姿を見る機会はそれなりにあった。
 あったけれど、声を掛けることが出来なかったのだ。
 己が一使用人に過ぎなかったから、とかではない。単純に躊躇われた(・・・・・)のだ。
 何せ「彼女」の側には常に“とある存在”が我が物顔で佇んでいたが故に。





「悟君と違うて、俺は「化け物」である部分も含めてちゃあんと愛しとるのに────……ほんま見る目ないなぁ、巫蠱ちゃん」





 五条悟。
 六眼を持って生まれた彼の人物が「彼女」を見初めてしまったが為に、禪院直哉は女性を手にする機会をまんまと失ってしまったのである。

















【呪いを内包している人の話7】

21.02.22
23.07.10:加筆修正