太陽が姿を消した、少し肌寒い日だった。
 今にも雨が降り出しそうな低く厚ぼったい雲に、鉛を張ったような鈍色の空。
 時折どこからか雷鳴が轟き、訳もなく陰鬱とした気分になる、精神的にも肉体的にも不調を来すような、やけに仄暗い日。

 爽やかさなんて欠片も存在しない、そんな暗晦とした日に、ロクでもないこと(・・・・・・・・)は起こった。


「言わないで」


 陽が当たらない薄暗い廊下。
 生き物(ひと)の気配を感じさせない、不自然なほどに静まり返った空間。
 いつになく青白い肌は身体から完全に血の気が失われている証拠(あかし)でもあり、小刻みに震えている手はずっと胸元を握り締めていた。
 まるで「何か」から己の身を守ろうとしているかのようだ、と思った瞬間、ガツン、と、鈍器で頭を殴られたかのような衝撃に襲われた。

 何故なら、不意に目に留まった「それ(・・)」が意図せず答え合わせとなってしまったからだ。


「──────真希には絶対、言わないで」


 僅かに乱れた道着から覗く細い首。
 そこに、見慣れぬ鬱血痕があった。
 鬱血痕と、噛み付かれたような歯形(あと)
 第三者が目にすればその身に何があったのか、何をされた(・・・・・)のかが容易に想像が出来てしまう、消そうにも消せない証。
 まだまだ未発達且つ成長過程にある少女の身には余りにも不釣り合いな「それ」は────────やっとスタートラインに立つことが許された人物の自尊心を傷付ける、実に悍ましい代物だった。


「────、」


 掛ける言葉が見つからない、とは、正に今みたいな状況のことを言うのだろう。
 俯き、しきりに歯を食い縛っている彼女は必死に漏れ出そうになる嗚咽を飲み込んでいた。
 自分自身の「弱さ」が招いた出来事に憤りと悔しさを滲ませていた。
 強者に立ち向かえない、どこまで行っても「弱者」と言う括りに纏められてしまう己を心底呪っていた。

 本当に呪われるべき存在は他に居ると言うのに(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)





「ほんの少し揶揄こうただけやのに、真依ちゃんも大概大袈裟やね」





 何食わぬ顔で、何の悪びれもなくそんなことを宣う奴こそ、“呪われるに相応しい存在”なのに。











『小翳ちゃんと真希さんって……本当に良いところのお嬢様だったんだなぁ……』

 血統と術式を重んじる御三家が一角、禪院家。
 呪術全盛の平安時代から強力な術式を持つ呪術師達を取り込み、その力を昂然と纏め上げて来たことで揺るぎない地位を会得したこの一族は“複数の術式を相伝している”ことを何よりの「強み」としていた。
 但し、相伝の術式を継いで生まれてこなかったものは例え血族であろうと落伍者として人生を始める事となり、以降は「個」ではなく「群」の一部として生きていくことを義務付けられていた。
 特にその中でも「女」として性を受けた者は下女さながらの扱いを当然のものとして享受しなければならず、そこに術式の有無は関係ないものとされていた。
 「男」を立てられない「女」に価値はない。
 そんな男尊女卑の思想が当たり前に罷り通っている、旧態依然な世界。
 長く続くがゆえの古き因習に囚われている時代錯誤も甚だしい過酷な環境下で生まれ育った禪院家出身の女達────────つまりは禪院小翳と禪院真希の生家に訪れた客人、乙骨憂太は、事前に詰め込まれた情報を改めて脳裏に呼び起こしつつ居住まいを正した。

「──────で、なに君やったっけ?」

 案内されたのは世間一般で言う応接間、と呼ばれる空間だった。
 過度な装飾品などは一切見当たらない、来客の対応をするだけ(・・)の部屋。
 腰を下ろした革張りのソファーは二人掛け用で、センターテーブルを挟んだ向かい側では見慣れぬ人物が長い足を組んだ姿で座している。
 派手な金髪とピアスが印象的な、二十代半ば程と思しき男性だった。
 一見すると書生に見えなくもない出で立ちをしているその人物は、使用人らしき女性に案内されて応接間を訪れるなり、数秒ほどジッと乙骨を観察してきた。
 そして不可思議そうに小首を傾げると軽い挨拶と共に自分は禪院直哉だと名乗り、それに応対する形で乙骨もすかさず自身の名を告げたのだが──────……。

「えっと、乙骨憂太、です」
「ああ、そうやったね。堪忍堪忍、うっかりしてもうた」

 心にもない謝罪であったことは言うまでもないだろう。
 うっかり、ではなく、端から覚える気がなかったのだ。
 それに初対面の乙骨に対してこうも軽口であるのも、“相手が学生だから”、だなんて理由からではない。単に敬意を払う必要のない人間だと判断したのだ。

 ──────やっぱ目ン玉おかしなったんやろ。

 吹けば簡単に飛んでいきそうな、地味で冴えない子供。
 似ているところなんてどこにも無い、底辺も底辺な存在。
 呪術師としてもからっきし、未熟にも程がある雑魚中の雑魚。
 それが乙骨憂太に対して抱いた禪院直哉の忌憚なき所見であり、どうしたって納得の行かない部分(てん)でもあった。 

 ──────甚爾くんとは似ても似つかへん(・・・・・・・・)。何だって小翳ちゃんはこんなんを、

「……ところで、」
「!あ、はい」

「乙骨くんは小翳ちゃんと付き合うとるん?」

 人の良さそうな笑顔と共に発せられた疑問に乙骨の体が僅かに強張る。
 個人的には即座に「はい」と答えたかったのだが、如何せん本当にそう答えていいものか無意識の内に逡巡してしまったのだ。
 何故なら件の恋人、禪院小翳が、乙骨憂太(じぶんじしん)のことを身内にどう伝えているか解らなかったから。
 もしかしたら伝えていない、以前に、この関係が露見すること自体を危惧している可能性もあった。真希共々、親戚筋と仲が良くないことは常々知らされていたので。
 だからこの問い掛けにどう答えるべきか。
 嘘は吐きたくないが正直に話すのも憚れる。ので、どうにか上手いこと誤魔化せないかと乙骨が頭をフル回転させていたら。

「なーんて、わざわざ聞かんでも、小翳ちゃんからもう知らされとるんやけどな」
「えっ、あ、そうだったんですね……」

 相手が返答に窮していることを察してか、笑顔のままの直哉がしれっと一言。
 どうやら禪院小翳にとって乙骨憂太との交際は隠すほどの事柄ではなかったらしい。
 どのような流れからの申告だったのかは流石に解らないものの、何はともあれ“彼女との仲を隠さなくてもいい”、と言う事実を知った乙骨はホッと胸を撫で下ろす。
 当人の口から知らされていたのは恋人の有無だけで、相手が乙骨憂太だとは一言も言及されていなかった(・・・・・・・・・・・・・)とも知らずに。

「小翳ちゃんはあれで潔癖なところがあんねんけど、流石にチューくらいは済ませとんのやろ?」
「へッ?!え、いや、あのっ、」
「なんや、まだキスもしとらんの?ならセックスなんて夢のまた夢やろね」
「セッ?!!」

「にしても、小翳ちゃんも小翳ちゃんやな。俺とは簡単にシたんやから今更勿体ぶることなんてあらへんのに」

 ハッキリ。そしてにっこりと。
 悪びれもなければ恥ずかしげもなくそのようなことを述べた直哉を前に、思わず言葉を失う乙骨。
 それがただの軽口、ただの冗談であることは明白であったものの、どうにも口を開くことが憚られた。内容が余りにも生々しかったからかもしれない。
 或いは此方に注がれている相手の眼差しに知らず知らずの内に気圧されてしまっていたのだろうか。

「なんや、付き合うとる言うても、乙骨くん、小翳ちゃんのことよう知らんのやね」
「……っ!」

「────君、小翳ちゃんに騙されとるんやない?」

 “騙されている”、と。
 そこで、ようやく。
 ようやく乙骨は、『あ』、と受け入れざるを得なくなった(・・・・・・・・・・・・・)
 恋人の身内だからと端から見ないふりを、気づかない振りをしていた部分を。
 少しでも良いように思われたいと言う欲から知らんぷりしようとしていた感情を。


「小翳ちゃんが本当の意味で君を好きになることなんて絶対にあらへんのに」


 悪意。
 それは明確な「悪意(・・)」、だった。
 乙骨憂太が呪術高専に来るまでの数年と数ヶ月、幾度となくその身に浴びせ掛けられ続けてきた害ある意志。黒い感情。
 それが今、よりにもよって恋人の身内から向けられていた。
 恐らくは顔を合わせた瞬間からずっと、笑顔の下に隠された状態で。

「小翳ちゃんの心は、ずぅっと死んだ人間に囚われたままやねん。せやから君と付き合い始めたんもただの気まぐれ、もしくは何かしらの目的があってやろうね」
「……」
「えげつない女やろ、小翳ちゃんは。今は優しゅう見えても、うっかりあの子の地雷を踏み抜こうもんなら──────例えそれが肉親であろうとあっさり切り捨ててくる。簡単に見捨てんねんで、親も友達も」
「……」
「君かて小翳ちゃんの傍に居続ければ、いずれ嫌でも突き付けられんで。自分もあっさり切り捨てられる側の人間やって」
「……」

「君の為にもハッキリ言うたろか?“小翳ちゃんは止めとき”。君に死んだ人間の代わりは務まらへん。[[rb: あの人> ・・・]]を知らん人間に小翳ちゃんを理解することも出来ひん。それが出来るんは、」

 禪院甚爾と言う存在を知り、その強さを認める事が出来たもの。
 つまりは禪院直哉(じぶん)くらいのものだろうと直哉は告げたかったのだが、まあここまで示せば後は勝手に推測するだろうと踏んで今は敢えて口を閉ざす。
 現に目の前の乙骨は膝の上に乗せていた手を握り締めるだけ握り締めて、何の反論もなく、ただ俯いてしまっていたのだから。

『……なんや、拍子抜けするほどアッサリ別れさせられそうやな。場合によっては消そう思うとったんやけど、』

 この分なら自分が直接手を下すまでもなく終わりそうだと、そう直哉がソファーの背もたれに背中を預けたところで────────“それ”は耳に届いた。



「大切な人を喪った、と言う点では、僕と小翳ちゃんは一緒なんだと思います」



 先程までとは打って変わり、翳りのない、明朗な声。
 見ると、今の今まで黙って俯いていた筈の乙骨が顔を上げて直哉を見据えていた。
 ただただ真っ直ぐ、ただただひたむきに。
 自分自身に浴びせ掛けられていた悪意に怯む事なく、禪院直哉と向き直っていた。
 そこに、これまでにあった不安や緊張の色は、一欠片とて残されてはいなかった。

「僕にも大切な存在(ひと)が居ます。忘れることなんて絶対に出来ない、大切で、大好きだった人が」

 祈本里香。
 死してなお乙骨憂太を愛し、乙骨憂太の傍に在り続けるもの。
 そして乙骨憂太が命を賭して自由にしてあげなければならない「愛」の化身。 

「でも僕は小翳ちゃんをその人の代わりにしようだなんて思ってないし、僕も小翳ちゃんの大切な人の代わりになろうだなんて思ってません」

 否。
 代わりになんてなれるはずがない。
 禪院小翳がどれだけ“その人”を想い、“その人”に全てを捧げてきたかは、彼女の側で彼女だけをずっと見続けていれば自ずと理解し(わかっ)てしまうのだから。

 自分は彼女にあんな風には想ってもらえない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 例えこの先天地がひっくり返ろうとも、それだけは決して揺らぐことのない事実となろう。
 それほどまでに彼女は今は亡き故人を愛していて──────────“愛されていた”のだ。
 
 だから、

「気まぐれでも、何かしらの意図があっての好意でも良いんです。僕はただ小翳ちゃんの傍に居られるチャンスを、小翳ちゃんの隣に立ってもいい権利を誰にも譲りたくなかっただけだから」

 禪院小翳の傍に居られるのなら、あの日の「約束」を思い出して貰えなくたって構わなかった。
 幼少期の、しかも数時間にも満たない邂逅だったから、忘れ去られてしまっていたとしても仕方がないと。
 勿論、「初めまして」、と差し出された手に一抹の寂しさを覚えたのも確かな事実ではあるのだけれど────────それ以上に“嬉しかった”から。



【えー……と、乙骨くん、でいいよね?】
【私は禪院小翳って名前で、そこに居る真希ちゃんとは従兄妹同士だよ】
【なんか呪われてるみたいだけど、こっちじゃそう言うの別段珍しくもないし、何はともあれこれからよろしくね】



 悲惨な現状から目を背け、ただ膝を抱えて泣く事しか出来なかった「あの日」。
 名前も聞けず、住んでいるところも聞けず、名乗ることさえも出来なかったのに。
 なのに、また会えた(・・・・・)
 また、彼女と出逢えた。
 夢でも幻でもなく、現実に、こうして手の届く距離にあの日の“あの子”が居る。
 それが自分にとってどれほど得難く、どれだけ奇跡的な出来事であったか────────なんて、あの時の彼女はきっと知る由もないのだろう。

「えっと、だからその、要するに何が言いたいかと言うと、」
「────……ええよ。君の言いたいことはよう分かったから」

 自分が彼女に相応しくない人間であることは重々承知している。
 だからこそ、彼女に相応しい人間になれるまで猶予が欲しい。
 そのようなことを続けて述べようとしたところで直哉が乙骨に静止を掛けた。
 次いで頬杖を突くなり改めて乙骨憂太と言う存在を上から下まで眺めると、にっこり(・・・・)嘲笑(わら)って見せる。

「ほんま、なんなんやろね、自分のその“僕は善人です”言うセルフプロデュース」
「え、」

最後まで気色悪ぅて仕方無かったわ(・・・・・・・・・・・・・・・・)

 そう言い終える頃にはもう、直哉の手が乙骨の顔に差し迫っていた。
 いつソファーから腰をあげ、いつ身を乗り出し此方にまで手を伸ばしていたのか。
 初動動作なんてものは無かった。無かった、ように思う。
 もし仮に動き出す確かな所作が目の前で起きていたのだとしたら、それは“目で捉えきれないほど直哉の動きが速かった”と言うことで。
 特別一級呪術師の肩書に相応しい能力を以て相対されたら、呪術師になってまだ日の浅い乙骨では成す術がない。故にせめてもの足掻きで顔面を防御(ガード)しようとしたら、

「────あ、」

 お互いを僅かに隔てているセンターテーブルの上に落とされた「影」。
 此方に伸ばされた相手の腕から生じたその影が意思を持って(・・・・・・)揺らいだのを、乙骨は決して見逃さなかった。





「……ッ?!!!」





 熱を感じたのは一瞬だった。
 後は突如として己の身を襲った得体の知れないナニカへの驚きと、確かな痛み。

「は、」

 いや、違う(・・)
 得体の知れないナニカ、ではない。
 これは「影」だ。
 直哉から生じた影が(・・・・・・・・・)直哉の手の平を穿っていた(・・・・・・・・・・・・)
 まるで乙骨に伸ばされたその手を排除するかのような鋭利さで、彼の右手を貫いていた。
 そして直哉が行動するよりも早く彼の腕に纏わり付き、絡み付いたその「影」は、先程よりも更に強い衝撃を伴って相手の身体をセンターテーブルへと縫い(叩き)付けた。

「ッ゛!!!」

 テーブルに亀裂が入ったのと同時に穴の開いた手の平から血液が飛び散る。
 受身も取れず強打した右肩はズキズキと痛みだし、穴の開いた右手からはじわじわと血が広がっていった。
 果たして自分の体から流れ出る血液を見たのはいつぶりだろうか。
 思い返すだけでもここ数年は見ていない気がする。
 つまり、それだけ禪院直哉は呪術師として完璧な日々を送っていたのだ。

 まさに今、この瞬間までは。


「脳みそが空っぽだから、その都度教えないと理解しないんですかね」


 淡々と。
 感情をどこかに置き忘れてきたかのような口ぶりで彼女(・・)は言う。
 不自然に人払いが成されていた応接間に足を踏み入れるなり、性懲りも無く他者を傷付けようとしていた人物を侮蔑の篭った目で見下ろしながら。
 
「忠告したはずですよ」
「っの、クソ(アマ)……ッ」

「“次、人様が後生大事にしてるものに気安く触れようもんなら──────今以上に痛い目に遭わす”、って」

 禪院小翳。
 影を使い、影を操り、影を変化させる禪院家相伝の術式を継ぐ禪院家の中の逸れ者。意図した万年四級呪術師。
 そんな彼女がこれまで散々自身に課してきた「禪院家に居る間は自分の影しか操らない」、と言うルールを捻じ曲げてまで禪院直哉に傷を負わせてきた。偏に乙骨憂太の身を案じて。
 自分と乙骨との間には誓約(制約)があるから、だとか。
 直哉にこれ以上好き勝手に振る舞われるのは癪に触る、だとか、そのような打算的な気持ちから突き動かされた訳ではなく。

 それは──────ただただ純粋に、真誠に、「乙骨憂太」と言う存在を想った上での行動だった。

『……乙骨くんに手を出そうとした時点で学習もしてなければ懲りてもいなかった、ってのがよく解ったけど』

 何にせよ、これはチャンスだ。
 人知れず禪院直哉を消す、またとない好機。
 幸い件の直哉によって人払いが済まされているので暫くの間は誰も此処を訪れたりはしないだろうし、事に移った際の騒音なんてのも自身の術式によってどうとでも出来る。
 仮に殺害が表沙汰になったとしても、此方に都合の良い“それらしい理由”をでっち上げれば余裕で情状酌量も見込める筈だ。何せ普段の直哉の態度(おこない)態度(おこない)なのだから。
 第一、「禪院家」が次期当主ともて囃されている直哉を殺せるだけの術式持ちをそう簡単に処分するとは思えない。
 だから今はこの場に居るべきではない人物を早く此処から遠ざけ──────……………、……………??

 ……………………うん???

「……………………つかぬことをお聞きしますが、乙骨くん」
「へっ!?」

「この流れのどこで、そんな照れる要素があった??」

 ふと視線を投げ掛けた先で、何故か。
 本当に何故だか、乙骨が頬を染め上げていた(・・・・・・・・・・・・)
 それはそれは真っ赤に。全身の血液が顔に集中しているのでは?と思うほどに。
 一瞬なにかの病気なのではないか、とも疑ったが、どうやら真相は違うらしい。

「あっ、違っ、こ、これは──────ッ嬉しさで!」
「???」

「小翳ちゃんが「大事」だと思うものの中に「僕」も含まれてるんだ、って思ったら……凄く嬉しくて、それで、」

 喜びが隠しきれなくなったのだと、そう乙骨は気恥ずかしそうに答える。
 そんな風に想ってもらえているとは露ほどにも思っていなかったから、だから状況が状況でも嬉しさが勝ってしまったのだと。

「………………………………、」
「小翳ちゃん?」
「………………君の、」
「……?」
「君の将来がとても心配だな、と思いました」
「えええ??」

 毒気を抜かれる、とは、正にこのような状態のことを言うのだろう。
 今の今まで己の中にあった直哉への明確な殺意が見る見る内に萎んでいくのが分かった。何なら面倒臭さの方が勝ってきている程だ。
 禪院家当主、禪院直毘人と同じ「投射呪法」の使い手である禪院直哉を拘束し、始末する恰好の機会なんて今後そうそう訪れやしないだろうに。
 それなのに眼下の直哉より乙骨を優先したいと思ってしまうのは────────わざわざ京都にまで迎えに来てくれた彼に、少しでも誠意を返したいと思ってしまったからなのか。

「……よし、帰ろう、乙骨くん」
「えっ、でも」
「ついでに清水寺からダイブして現代の生存率も上げて行ってあげよう」
「普通に駄目だよ?!」
「じゃあ清水寺の近くにある甘味処に寄ったあと棘たちに京都土産でも買ってってあげようか」
「あっ、うん、それなら別に……」

 じゃあ行こう、今すぐ行こう。
 そんな言葉と共に禪院小翳は歩き出す。
 「ッちょぉ待てこのクソ(アマ)!」、だなんて安直な罵声には耳も傾けずに。
 “踠けば踠くほど、振り解こうとすればするほど「影」は相手の身体(にくたい)を締め付けていく”。
 術者である彼女はそのことをよく知っていたからこそ、今はただ直哉を放置することに決めたのだ。
 どうせプライドの高いこの人は地べたに這いつくばったままの自分自身を赦せない筈だから、と。



「──────それじゃ私はもう帰りますんで、直哉さんもそこから抜け出せるよう精々頑張って下さい」



 プライドを守る為なら腕の一本くらい、犠牲に出来る(やすいもの)でしょう?









「小翳」

 門扉を潜る直前。
 やっとこさ東京に帰れる、と浮き足立ったところでお約束とばかりに呼び止められる禪院小翳だった。
 果たして今度は一体「誰」が空気も読まずに自身を呼び止めてきたのか。
 場合によっては一発食らわせてやんぞ、と意気込みつつ、仕方なしに声のした方向へと振り返ったら────────突如として眼前にまで迫った謎の物体。
 咄嗟に、と言うよりかは、ほぼ反射的に眼前にまで迫った“それ”を片手で受け止めると、やけにしっくりと来たその感触に思わず『んん?』と首を傾げる。

「忘れ物だ」

 忘れ物。
 そう言葉少なげに告げるなり、此方に背中を向けて歩き出したのは禪院家の中でも特に屈強な肉体を持つ男性で。

「…………あ、りがとう、ございます??」

 名を禪院甚壱、と言うその男は、従兄妹に当たる少女にスマートフォンを投げ渡すだけ投げ渡すと早々に室内へと姿を消していった。どうやらこの為だけに外にまで出てきたようだ。

「……今の人も親戚?」
「私のお母さんの兄に当たる人の子供、だから、あの人も従兄妹だね。まあ一回りも二回りも歳が離れてるから親子に見られても不思議ではないんだけど」
「そうなんだ。スマホ、忘れてたのに気付いてわざわざ届けに来てくれたんだね」
「良い人、とも言い難いけど、悪い人、とも一概には言えないような人なんだよね。特別親しくもないから、どう判断すれば良いのか未だによく分かんないんだけど。あと「忘れてた」んじゃなくて「取り上げられてた」の間違いね」
「えっ?!じゃあ連絡がつかなかったのって……」
「ご覧の通りです」

 何だかんだで此方も三日ぶりとなる少女のそのスマートフォンは、気持ち、くたびれているようにも見えた。
 もしかしたら雑に扱われていたのかもしれない。取り上げた人物が人物だったし。
 ただ、こうして無事に手元に戻ってきたと言うことは、直前のパスワードの変更が功を奏したのだろう。でなければ二度と戻っては来なかったはずだ。
 やはり何事にも予め予防策は立てておくべきなのだろう、今回の件が(決して良くはないが)良い教訓となった。

「スマホを取り上げるくらい厳しいお家だったんだね……」
「や、普通に頭の可笑しい輩が居るだけだよ。禪院直哉って名前の、頭が空っぽな割に人様への嫌がらせに余念がないクズ野郎が」
「──…………」
「どうかした?」
「……その、ちゃんとした挨拶も出来なかったし、良い印象も与えられなかったなぁって」
「あの人に良く思われたところで碌なことにはならないから、気にしなくて全然OK。むしろ、あんな俗物と関わっちゃったせいで今後乙骨くんに悪影響が出ないかどうかが心配だよ」
「そ、そんなに……」
「許可もなく人様のスマホを奪った挙句、勝手に中身を見るような輩だよ。ギルティにも程があるっしょ」
「それは、うん、流石にどうかなとは思うけど…………見られちゃったの?」
「こんなこともあろうかと事前にパスワードを変えておいたんだよね。普段使ってるのは直哉さんでも簡単に思い付くような数字だから、念には念を、ってな感じで」

 何せ禪院小翳が普段使用しているパスワード四桁はお察しの通り禪院甚爾の誕生日なので。
 しかも禪院甚爾の誕生日じゃない時は禪院姉妹や同級生の誕生日と言った自分自身と関連のある相手、つまりは“自身が好感を抱いている人間”に関連したパスワード構成と来ているので、下手をすれば簡単にロックが解除されてしまうのだ。なので今回ばかりは思考を凝らして別の人物の誕生日にしたのだと言う。
 何を隠そう、恋人である乙骨憂太の───────────────婚約者であった祈本里香の誕生日に。

「おわっ、着信履歴がとんでもないことになってる。しかもコレ、ほぼほぼ乙骨くんって言う」
「急に連絡が取れなくなったから、心配で、つい……」
「それに関しては申し訳ない気持ちもあるんだけど限度ってもんが…………あ、真希ちゃんからもメッセージが来て、……ん?えっ、ちょ、待って真希ちゃん、早まらないで!」
「!!?」
「……よし、多分これで大丈夫、な筈。ついでにタクシーでも呼ぼうか。色々お土産も見て回るんだったら車移動の方が都合が良いだろうし」
「タクシー……そっか、タクシーがあったっけ。僕、ここまで歩いてきたから、帰りもてっきり歩きかと」
「なんて???」

 歩いてきた?
 京都駅から禪院家のあるこの場所にまで?
 しかもあの大量の東京土産を手に、一人、歩いてきただと??

「前々からMっ子気質が見え隠れしてたけど、遂に苦行に目覚めちゃったか……」
「そ、そう言う意図があった訳じゃないんだけど」
「他に理由が?」
「………………こ、どもの頃の、」
「?」
「子供の頃の小翳ちゃんもこの道を通ったことがあるのかな?、ここで遊んだことがあったのかな?────って考えながら歩いてたら、いつの間にか結構進んじゃってて、」

 此処までそこそこ距離があったかもしれないけど全然苦には感じなかった、と乙骨は語る。
 その傍らでは禪院小翳が顔を覆い、心中に渦巻く何とも言えないこの感情をどう処理したものかと心底頭を悩ませていることにも気付かずに。

「……………………ふっ、さては乙骨くん、私のことが大好きだな?」
「!!うっ、うん、ようやく分かって貰えた?」
「そこは即答せんでもろて……居たたまれなくなる……」

 私から君に返せるものなんてたかが知れてるんだから、これ以上はもう止めてくれ。
 そのような思いと共に、はぁ……、と溜め息にも似た息を吐き出す少女は、あれこれ悩んだ末に握り締めていたスマートフォンを上着のポケットの中へと仕舞い込む。予定していたタクシーは呼ばず、その代わりとばかりに自身の手を乙骨に差し出しながら。

「……道中、特に物珍しいものなんて何もないけど、それでも良いってんなら」
「?」

「仲良く手でも繋いで、一緒に見て廻りましょうか」

 一緒に、と差し出された手。
 けれどそこに強制力なんてものはなく、禪院小翳の口調もまた相手にしっかりと選択肢を与えていた。皆まで言わずとも「嫌なら断ってくれて良いんだよ」と。
 だが乙骨は迷わず彼女の手を取った。
 手に手を重ねて握り締め、何の躊躇いもなく「うん」と応えた。
 例え行き先が地獄だったとしても、自分が禪院小翳からの誘いを断るはずがないだろうと言わんばかりに。

「ところで乙骨くん、本当に此処まで一人で来たの?」
「?うん、小翳ちゃん家までは一人で来たけど」
「そうでなくて。ほら君、単独行動NGでしょ」
「あっ、そう言う意味でなら一人じゃ無かったよ。途中までは狗巻くんも一緒だったから」
「あー……なるほどね。いざとなったら“途中までは確かに二人一組で行動してたんだから条件を破ったことにはならない”、って言い張るつもりなのか」
「狗巻くん、丁度遠方の任務が入ったみたいで、ならそれに同行する形で付いて行けば良いじゃんって五条先生が」
「一旦は離れたけど後でちゃんと合流する予定だった、ってな感じに言いくるめる訳ね。相変わらず巫山戯散らかした人間だわ」

「…………もしかして迎えに来ない方が良かった?」

 少女のその口調から余り良い感情を読み取ることが出来なかったのだろう。
 肩を並べて歩く乙骨が眉を下げるなりそのような事を問いかけてくる。彼女が「誰」に対して呆れているのかは明白だと言うのに。
 なのに明らかに元気を無くしてショボンと落ち込み始める乙骨であったから、禪院小翳は「そうだなー……」と呟き、考える。
 そしてただ繋いでいるだけだった乙骨の手に自身の指を絡ませると、より深く繋ぎ合わさったその手をゆらゆらと揺らして──────────どこか面映ゆそうに口許を緩めた。




「あのさ、乙骨くん。君も知ってると思うけど、」




 “誰かが迎えに来てくれる”、って、存外嬉しいものなんだよ。




















【恋する乙骨憂太と同級生の話6】

23.10.15