もう1人の幼馴染み、爆豪勝己とはもう何年も口を聞いていなかった。何か明確な理由がある訳ではない。彼と名前の間にはいつの間にか境界線ができていたのだ。よくある話だと思う。中学生頃になると人はそれぞれのカテゴリーにおさまりそれぞれの範囲内で友好を深め始める。
彼は所謂「不良」になり、ガラの悪そうな人たちといることが多くなった。そして名前のカテゴリーは学校の「はぐれ者」だった。簡単に言えば学校という集団に馴染めず浮いている存在なのだ。
友人と呼べるかどうかはさて置き小学校低学年くらいまでは名前の周りにはむしろ多くの人がいた。それが何故だろう。歳を重ねるにつれその人たちは離れていった。中学に上がると完全に孤立し最後に残ったのは緑谷出久だけだった。
『名前ちゃんは感情がほとんど表情に出ないから冷たい印象持たれるっていうか……勘違いされやすいもんね。君の些細な表情の変化に気づけるのは僕とかっちゃんくらいだろうし……皆君のことが気になるのに、君と深く関わることが怖いんだよ』
いつか緑谷が苦い笑みを浮かべそんなことを言っていた。名前は自分の容姿が他人に強烈な印象与えることを知っている。それは「カリスマ」という「人を強く惹き付ける」個性を持った母の影響であってどうしようもないものだった。その個性を受け継いだ訳ではなく他の個性が名前には発現したのだが、容姿は当然のごとく母に似てしまったのだ。
『お前、与えられた感情を持て余してる人形みたいでなんかキモチワリーんだよ』
これは爆豪と最後に話したときに言われたことだ。粗暴だが頭の良い彼の言うことはあの時の幼い自分にはよく理解出来なかった。
「(今ならなんとなく分かる)」
個性が発現してからというもの、名前は自ら人に関わることをしなくなった。そうして徐々に、自分と世界の間に壁を作っていった。自分を、相手を守るための壁。人と関わることがなくなると当然人と関わるための人間性は成長を止めた。故に、名前の中には確かに感情があるのに、彼女はそれを表現する術を知らない。幼少期の自分は子供らしさの欠片もない冷めた子供だったことだろう。賢い彼はきっとそれを指摘していた。
「はあ」
溜息を一つこぼした後重い気分を振り切るように大きく伸びをした。手に持っていた筆を筆洗に突っ込んで雑にかき混ぜる。透明だった水が緑に色づいた。美術部である名前はこうして放課後は毎日美術室で絵を描いている。もう二年以上植物や花のみを描き続けているが幽霊部員ばかりのこの部活で毎日絵を描いているのは自分だけなので怪訝な目で見られることはなかった。
「(あ、今日花瓶の水取り替え忘れてる)」
絵を中断しごめんね、と花に謝りながら花瓶ごと花を持って廊下に出た。手洗場に向けて歩を進めていたが近くの教室から聞き覚えのある悲鳴が上がり振り返る。何故か胸の奥に小さな不安が生まれた。まるで濡れた画用紙にポタッと黒い絵の具を垂らしたような。
恐る恐る教室に近づいた。画用紙に落とされた黒い水滴はじわりじわりとその範囲を広げていく。
教室の出入り口に立つと中にいたのは緑谷、他に男子生徒が3人。緑谷の向かい側、こちらに背を向け立っている男子生徒の後ろ姿を名前はよく知っていた。手には焦げた緑谷のノートを持っており、それを窓の外へ投げ捨てる。緑谷が悲鳴を上げた。男子生徒は緑谷に罵声を投げかけ、取り巻きと共にケラケラ笑う。そして彼らは帰ろうと踵を返した。するとようやく教室の出入り口に名前が立っていることに気づく。名前と目が合った男子生徒は一瞬驚いた表情を見せたがすぐに切れ長のつり目を更に吊り上げた。
「何見てんだテメェ、死にたくなかったらさっさと失せろ」
彼、爆豪はヴィランのような台詞を名前に投げかけるが名前は彼の赤い目をじっと見つめたまま口を開く素振りを見せない。
「んだよ、その目は。随分とご無沙汰だがテメェのそーいうムカつくとこは全然変わってねえんだなァ!?」
「かっちゃん」
「、気安く呼ぶんじゃねえ!」
いきなり口を開いたと思えば彼女の口から聞くのは懐かしいあだ名を吐いた名前に爆豪は一瞬たじろいだ。そしてそれを誤魔化すようにダンッと近くの机を蹴り威嚇する。名前はビクッと肩を跳ね上げはしたものの表情を崩すことはなかった。心配そうな顔をして今にもこちらに飛び出してきそうな緑谷を視界の隅で捉えた名前はなんとも彼らしいと思いながら「大丈夫」と小さく彼に伝える。
「オイ俺を無視してデクと喋ってんじゃねえ」
呼ぶなと言ったり無視するなと言ったり矛盾してはいないだろうか。眉間に深い皺を刻んだ目の前の少年をじっと見つめ名前はまた口を開いた。
「さっき出久に言ってたこと、聞いてしまったんだけど」
「立ち聞きかよ、いいシュミしてんじゃねーか」
「……出久に雄英を受けるなと言っていたけれど、雄英ならわたしも受けるから、」
「ハァ?笑わせんな、生まれてこの方テメェが個性無効化グローブを外してるとこ見た事ねえぞ。この歳にもなって自分の個性もコントロールできずそれを外せねえテメェなんざ無個性といっしょだろうがよォ」
名前を馬鹿にした調子でそう言った爆豪は数歩名前へ近付くと彼女のすぐ横の扉に勢いよく蹴りを入れた。爆音が響く。見ると彼女の体すれすれのところに彼の蹴りは決まっていた。爆豪は足をそのままに上体を少し前に倒して名前と目線の高さを合わせると「モブはモブらしく出来損ないのデクと友達ゴッコでもしてろ」と低い声で呟いた。そして名前が何か言うよりも早く爆豪は教室を出ていってしまった。取り巻き二人も彼を追って出て行く。彼らの「おい勝己、苗字さん相手にやりすぎじゃねえ?」「幼馴染みなんだろ?」と言う声が遠ざかって行く。緑谷と名前だけが取り残された教室がやけに静かだった。
「大丈夫名前ちゃん!?ごめん僕のせいだ……!怪我はない?」
すぐに顔を青くした緑谷が名前に駆け寄り声をかける。名前はふるふると首を横に振った。
「平気。それより出久、ノート取りに行かなくていいの?」
「うん。後で取りに行くよ……」
名前は無言で緑谷を見つめる。先程の爆豪たちの緑谷に対する暴言を立ち聞きしてしまったがどれも耳を当てられないようなひどく残酷なものだった。
「出久、さっきの気にしてる」
「さっきのって、かっちゃんたちに言われたこと?確かに全く気にしてないって言ったら嘘になるけど……」
段々小さな声になっていき口の中でモゴモゴ言う緑谷に名前は少し眉根を寄せる。
「ねえ出久。彼らは君に身の丈に合った将来を考えろと言っていたけど、その身の丈って誰が決めているんだろう」
「え……?」
彼らの言っていた「身の丈」とは彼らの価値観で勝手に測られたものに過ぎない。自分の価値観を人に押し付けそれが正しいと思わせようとするだけの、人に使うには暴力的な言葉だと名前は思った。彼女の諭し、導くような眼差しに緑谷は言葉を失う。名前はそれ以上を語ろうとはせず話題を切り替えた。
「かっちゃん、いつもあんな感じなの?」
「う、……うん。ずっとクラス離れてるから名前ちゃんは知らないよね。僕が名前ちゃんといるときは何故かかっちゃん、僕に絡んでこないし……」
「私相当嫌われているんだね」
爆豪が去っていった方向をぼんやり眺める名前に緑谷は「いや、かっちゃんのあの態度は多分逆で、本当は名前ちゃんのことが……」と言おうか迷い、結局それを飲み込んだ。今それを言ってしまうと今度こそ彼に殺される気がしたのだ。
「そ、それよりさ!名前ちゃんまだ部活中だよね」
緑谷は名前の手の中にある花瓶を指差す。
「うん」
「僕もう帰るけど名前ちゃんもあんまり遅くならないようにね」
「うん、じゃあまた明日」
名前が小さく笑うと緑谷も少し照れたように笑う。教室を出て階段の方へ歩いて行く緑谷の背中を見送って、名前は胸に小さな不安を抱えたまま手洗場へ踏み出した。