百色万華鏡
古びたロッキングチェア、ペンで文字が書き込まれた地図、地球儀や色鮮やかな見慣れない羽やぐるりと円を描くように曲がった何かの動物の角。全てが過去の鮮やかな思い出を語っている。
かつて、そこでは三人の男女が暮らしていた。女は草原で暖かな陽の光の加護を受けながら咲いている小さい花ような、美しく可愛らしい女性であった。人間の欲にまみれた街で悪に染まることなく力強く生きた母である。
男は陽気で人当たりが良く、人望も厚かった。人々を惹き付ける輝きを放っているような男であった。世界の未知を追い続け、夢と幸福のために生きる父である。
少女鴇子は二人の間に生まれた子だ。幼い頃は内気で臆病であったが、母の優しさと愛らしさ、父の陽気さと賢さを受け継いですくすくと育った。世界の全てに恋をしているような、好奇心に従って素直に生きる娘である。
イギリス、ロンドンの下町の一角にその家はあった。泥やカビ、工場の排水の匂いが漂い、犯罪で溢れ、路地では朝から夜まで薄い酒に溺れる浮浪者が彷徨っているような場所。そんなごみ溜めから細い道を数本抜けたところにある二階建ての家。扉を開けてリビングルームに入ると、街で汚れた心を浄化してくれるような宝箱が目に入る。先述したような羽や角のほかに、安いが美しい宝石、ガラスの破片、留守にしていたせいで枯れてしまったがかつては美しく咲いていた花、貝殻、絵画など……鴇子の両親はここに書ききれないほどの宝物を集め飾ったのだった。
三人はある日家を出た。父と鴇子が戻ってくる頃には、家で留守番をしていた服たちは腕を通すのも難しいほどに縮んでしまっていた。子供の成長は凄まじい。たったの数年で靴や帽子も使い物にならなくなっていた。それを活用してしまうのが父の凄いところである。妻から教わった裁縫で着れなくなった服を縫い合わせ、鴇子をすっぽりと包み込めるほど大きいブランケットを作ってみせた。幸いなにも盗まれておらず、宝箱はホコリを被ってはいるがかつてのように鴇子の心を踊らせた。世界中を旅していた二人がイギリスに戻ってきたのには理由があった。元々はイギリスでのルールに縛られた不自由な生活に飽き飽きした二人がのびのびと過ごせるような土地を求めたのが始まりだった。スコットランドやアイルランド、フランス、オランダ、ドイツなどどんどん場所は離れて行き、鴇子が六歳の頃には西アジアの砂漠にまで来ていた。結局十二歳になった今まで定住することなく飛行船や船で各地を巡っていたのだが、母が病で倒れ、葬儀と荷物と心の整理の為に故郷のロンドンに戻っていたのだった。
「鴇子・萩宮です。えっと、お父さんの仕事の都合で半年だけここにいることになりました。よろしくお願いします」
学校に通い始めた鴇子は友達を作るのに苦労していた。なにせ価値観が合わないのだ。そこらじゅうを駆けずり回って木によじ登ったりしていた彼女にとって『女性らしく』お淑やかに生きるというのは非常に難しかった。周りに女性が少なかったのでどうあることが女性らしいのか分からない。パンツスタイルが禁止されているのも理解できなかった。木登りしてもスカートがめくれて下着が見えないように、両親が動きやすいパンツを作ってくれた。だがロンドンでそれを着ることは出来なかった。みんなと同じようにしなければ、直ぐに端に追いやられて、そのまま落ちてしまうから。鴇子は仕方なくワンピースを着ていた。
鴇子が学校を終えて家に帰ると、同い年くらいの少年が家の中を覗いていた。中のものが気になるのだろう。鴇子は家族のコレクションに興味を持ってくれている人がいるのに心が躍るような気持ちになって、その少年に駆け寄った。
「それ、気になるんですか?よかったら、中で一緒に見ませんか?」
「……!」
そう声をかけた瞬間、少年は走って逃げていってしまった。あの道の先は、この世の悪をかき集めて煮詰めたような暗い場所。食屍鬼街だ。あの街は見えない壁で囲まれている。犯罪だけでなく、差別の温床でもあるそこに、彼は住んでいるのだろうか。初対面であるにも関わらず、鴇子の心は不安でいっぱいになる。走り去る少年のブロンドが上下に揺れているのをただ見つめていた。いつか中東の砂紋があしらわれた大地や、ロンドンの時計塔よりもずっとずっと高い山の上で見た日の出や、インドや東の国に伝わる神話に登場する金翅鳥のような金色は思わず宝箱に閉じ込めてしまいたいと思うほどの美しさだった。
次の日鴇子が学校から帰れば、また同じ少年が部屋の中を覗き込んでいた。その次の日も、その次も、その次の次も同じ少年は家の前にいた。だが毎回同じように走って逃げられてしまう。そこで鴇子は、宝箱の中でもっとも美しいであろう、形が歪で商品にならなかった小さな宝石を集めた瓶を持ち出した。これくらいなら少年にも譲ることができると思ったからだった。
「ねぇ!待って!」
鴇子は走り去ろうとする少年の腕を掴んだ。同い年くらいの少年のはずだったが、腕の肉は薄く骨の硬さを怖いほどに感じられた。思わず少年の腕を離してしまった。
「……なんだよ」
「あの、家の中、興味あるなら紹介しようと思って……で、でも!嫌だったらこれ、持って行って!」
少年の手に瓶を押し付けた。カラフルな砂のようなそれを不思議そうに見つめて、ロンドンを覆い隠すような分厚い雲の隙間から漏れた光に当てる。あちこちに光を飛ばす砂が面白いのか、傾けたり降ったりして遊んでいる少年に鴇子は思はず笑ってしまった。我に返った少年が鴇子を睨み付けた。
「それは宝石を綺麗な形に加工する時に出た欠片なんだって。パパが色んな国の石工のお手伝いをして集めたのよ」
「ガラスかと思ったぜ。高く売れるのか?」
少年の口から飛び出た言葉に鴇子は衝撃を受けた。人からもらったものであろうがなんだろうが、貧民街の人々は食にありつけない日もあるほど生活に困窮しているのだから売るのは仕方の無いことだ。だがあまりにも悪気なくストレートに鴇子の耳に届いたその言葉は思考を奪うのには十分だった。訳が分からないとでも言うようにぽかんとしている鴇子の表情に、少年は愉快そうに笑った。
「ふん、金持ちには理解できない感覚だろうな」
「……いいえ、私だって旅費が足りない時は狡いこともしたわ。たくさんの偽物の真珠の中に本物を混ぜて高く売りつけたことだってある」
次の街に行くための燃料を買う無かった時、軽い石の玉を絵の具で白く塗って、コレクションとして集めていた数十粒の本物の真珠を混ぜて素人の商人に高く売りつけた。割合としては偽物の方が遥かに大きいのに、本物を数粒混ぜるだけで信憑性が上がるのだから不思議だと二人は感じた。少し心は痛いけれど、真面目にそこで働いてお金を集めていたら、人里離れた場所にある季節の絶景を見逃してしまう。冒険家の鴇子と父にとってそんなことは許されなかった。
その話がきっかけになったのか、少年と鴇子はよく話すようになった。少年が恥ずかしがって家の中に入ろうとしないので、鴇子はいつもお気に入りの宝物の数々を持ち出して少年に紹介した。口から吐く言葉は下品だけれど、興味津々に鴇子の宝物を見つめるその姿は純粋で濁りのない宝石のようだった。鴇子はその下品さや素直さも、人目を気にして話す学校の友人とは違う、少年の堅苦しくない性格が反映されているようでとても気に入っていた。
「ぼくはアイツらみたいな腑抜けた甘ちゃんには絶対ならないぞ。社会のことなんて何も知らないあいつらが、親のスネをかじって威張り散らかしているなんて、話を聞くだけで吐き気がするね」
少年はディオと言うらしい。堅苦しくない性格ではあるが自由人な訳ではなかった。人と同じであろうとする、同調圧力に屈するようなタイプではなかったが、いつも自分よりも上の立場にいる人間の精神を見下して愚痴を吐くような人間だった。まるで宣戦布告のようなそのセリフに、鴇子は幼いながらにカリスマ性を感じていた。
演劇団とかにいる女優が性格悪い、人に優しくないとよく言われるのと同じだと思った。成り上がるのが大事な世界で自我を晒して他人を蹴落とすのが重要な事であるのと同じように、イカサマでも使わないとまともに稼げない貧民街で品行方正に生きることなど到底不可能だ。
「お前がディオか。よく来たな」
鴇子の父はそう言ってディオの頭をがしがしと撫でた。寒い冬の凩が窓を揺らす。二人は外から逃げるように暖炉のそばに寄った。石炭特有の臭いが鼻を突く。ディオは何があっても冷静なイメージがあったため、こんな風に必死に手に息を吹きかけながら火の前で手を擦るディオの姿は鴇子にとって新鮮だった。
今日は冷えたから、と言ってホットミルクを机に置いた父に誘われて、二人は暖炉から離れた。手作りの椅子は、まだ軽い子供が座っただけでギシギシと音を立てる。
「これ全部、世界中から集めたものなのか」
「ああ。ま、そんなに金がある訳じゃねーから、オークションに出るような歴史あるものはねえけどな。ほとんどはその余りもんよ」
首が一回転してしまうのではないかと言うほど部屋の端から端まで眺めるディオは父にそう聞いた。違法に取引されているものを独自ルートで入手していると鴇子に聞かせたこともあった。父親特有の誇張した嘘の話なのかどうかは不明である。鴇子とジャングルを探検して見つけた珍しい植物やクルーズ船で事故があった後で海岸に流れ着いた漂流物など、ほとんどがガラクタの中から見つけた宝。その中の要らないものを売って旅行費にしていたのだ。
「まぁ、確かにその顔をみれば真っ当に働いて金稼ぎしてるような人間には見えないな」
「ちょ、ちょっと……」
「ハハハ!言うねぇこのガキ!気に入ったぜ」
ディオと父は楽しそうに笑いあっている。何故この会話で友情が生まれるのか理解できなかった鴇子だが、男の友情というものだろうと割り切った。
それからディオは週に数日鴇子の家を訪れて、博物館のような内装を見ながらホットミルクと安い小麦粉で作った小さなパンケーキを食べて帰るようになった。父がいる時は王様ごっこや海賊ごっこをして遊んだ。もうすぐ十二歳になる二人はそろそろごっこ遊びから卒業してもおかしくない年だったが、ディオは呆れたような顔をしながらもノリノリでキャラクターを演じた。鴇子はいつも姫や妖精の役だった。それは単にかわいいからではなく、恋心を抱いていたディオに攫われたり守られたりするのが好きだったからだった。
だがそんな日々は続かなかった。恋心を諦めざるを得なくなるデッドラインの日が、このロンドンを離れ再び旅に出る日が近づいていた。雪は溶け花は散り、ロンドンは夏を迎えようとしている。そんな頃にディオは鴇子家を訪れなくなった。
「ディオ、私のこと嫌いになっちゃったのかなあ」
「そんなことはないと思うぜ。あいつにも家があるはずだからな。きっとそっちが忙しいんだろう」
また会えるようにと願いながら眠る日々が続いた。旅に出る前日、マグカップ二つ分のミルクと蜂蜜、二枚のパンケーキを焼くための少量の小麦粉とバターを荷物から抜いて玄関の前に座り込んだ。鴇子とディオの分だ。一晩中待ち続けたがドアが叩かれることは無かった。父が作ってくれたブランケットに顔を埋めたまま鴇子は静かに泣いた。夏の暑さで食べ物は腐ってしまう。次の朝にパンケーキを作って父と鴇子の二人で食べた。旅立ちの朝は酷く曇っている。会話の少ないまま家を後にした。
鴇子 へ
ずっと連絡できなくて悪かったな。父が死んで色々と忙しかった。訳あって今は別の場所で暮らしているから、今までみたいにしょっちゅうは遊びに行けなくなる。買う小麦粉の量を間違えるなよ。今はお金があるから、お前にも何かしてやれるぜ。楽しみにしていろよ。
P.S. 六月に咲く花は落ち着いた花が多いな。時間があったから一本押し花にしてみたが、いい出来だ。
ディオより
鴇子へ
最近ラグビーを始めた。昔ボクシングの技をお前の父さんに見せたのが懐かしいな。あの人は元気か?羽目を外して飛行船から落ちないるような馬鹿をしないように気をつけろと言っておけ。ラグビーはボクシングより筋肉が必要だが、慣れれば誰にも負けない屈強な体を手に入れることが出来るだろうな。お前が話していたジャングルの獰猛な虎だって一撃だ。
P.S. バカンスで行った海岸に綺麗な貝殻が落ちていた。青い綺麗な糸が売ってたからブレスレットにしたぞ。
ディオより
鴇子へ
孔雀はオスが番になりたいメスに羽を見せてアピールするらしいな。人間も同じだ。少し話し方に気をつけて高いものを身につけるだけで馬鹿みたいに擦り寄ってくる。俺が貧民街育ちの成り上がりなんて少しも知らないんだろうな。ぎゃあぎゃあ自慢しないだけ孔雀の方がマシだ。
P.S. 東洋の桜という花の香水を手に入れた。香りが好きか分からないから紙に香水を振りかけてあるぞ。気に入ったら瓶を送ろう。住所を教えてくれ。
ディオより
父の死で暴力から開放されたディオは、貴族らしい作法の練習で忙しく鴇子の元を尋ねる暇がなかった。気づいた時にはもう誰もおらず、またカーテンの隙間から宝石箱を覗き込む生活が始まった。貧民街の端にあり、細い道を何本も曲がったところにあるここを訪れる時、ディオは毎度まるで宝探しをしているかのような気分に陥る。人気のないこの一角は自分を押しつぶす全てから逃れられるシェルターのようだった。
手紙に高いブランド品などを入れることはなかった。鴇子は金では買えない価値を求める冒険者だということを知っているからだ。手紙で貴族らしい言葉使いをすることはなかった。鴇子の前なら真の姿でいられるからだ。鴇子を忘れて手紙を送らなかった月はなかった。あの頃はディオの人生の数少ない輝いた宝だったからだ。
飛行船に繋がると信じてドアの郵便ポストに手紙を投げ込み続けて七年が経った。未だに返事はない。やがて手紙の文章はどんどん長くなり、自分に起きた出来事や悩みを綴る日記帳のようになっていた。
二人の記憶は、一生上書きされることの無い宝石のように純粋な子供時代の思い出として脳みそに保管されることになった。ディオは降り注ぐ月光に、かつて鴇子から貰った小瓶をかざした。相変わらず眩しい光が部屋中に散らばった。この計画が成功して遺産を手に入れたら、飛行船を買って鴇子を探す旅に出たい。この広い世界のどこにいるのかは全く検討がつかないが、手紙を無視して返事を出さない彼女を怒らなければならないから、なんとしてでも探し出さなければならない。ディオはその懐かしい虹色の光の中で微笑んだ。