03.安息
紗雪は皿とコップを机に並べた。揚げ物の匂いに食欲をそそられる。桃色のお茶碗と赤い箸の反対側に、青いお茶碗と黒い箸が置かれているのが、なんだか夫婦みたいだと彼女は思った。
「何が夫婦みたいだって?」
「うわあっ!い、いたの……お風呂早いね……」
アカギは寝間着姿にタオルを羽織っており、暑いのか胸元を大きく開けている。髪はまだ濡れていた。胡座をかいて再びラジオの電源をいれたアカギの後ろに座って、紗雪は彼の白い頭に手を伸ばした。
「風邪ひいちゃうよ。ゆっくりするのはちゃんと髪を乾かしてからにしなさい」
「短いからすぐに乾くよ。それより、飯は?」
「もう、飯は?じゃないわよ。ほら、私が拭いてあげるからちゃんと座って」
なんとかアカギを化粧台の前に連れていき、髪を梳かしながらタオルで髪を拭く。こうして大人しくしていれば普通の十三歳に見える。
「きれいな髪ね」
「そう?」
「ええ。雪みたいで素敵よ」
その白髪の由来について、紗雪は未だ聞き出せずにいた。アカギはきっとずっと自分の家に帰っていない。いや、家なんてそもそも無いのかもしれなかった。紗雪の様々な憶測が、アカギに踏み込みすぎてはいけないと警鐘を鳴らしている。両親のことだって何も分からない。それがもし辛い過去によるものなら、聞いてはいけないタブーになりうる。
「アカギくん……」
紗雪は後ろからアカギを優しく抱きしめた。驚いて彼が体をびくっと震わせたのに紗雪は気付かないふりをする。
「なに、どうしたの」
「なんでもないの。ただ、その、なんというか……」
上手く言葉にできない。元々死への恐怖が薄いアカギであったが、この間のチキンランでそれが顕著に現れた。
「……ううん、大丈夫。アカギくんが負けるわけないもの」
「よく分かってるじゃない。俺がこの程度の博奕で死ぬとでも思う?」
「いいえ」
自信満々なアカギの様子に紗雪の不安も少しは消えたようだった。しばらく抱きしめたままでいたが、豚汁の吹きこぼれる音で慌てて台所に走っていった。
「さあっ、沢山食べてね!」
鯖の竜田揚げにほうれん草の胡麻和え、鶏肉の甘酢炒め、それに具たくさんの豚汁。冷蔵庫にはデザートもあるらしい。やけに豪勢な献立にアカギは不思議そうに紗雪を見つめる。
「勝利祝い兼激励会よ。あとアカギくんの麻雀の才能の開花を祝うパーティー」
「……なんだそれ。紗雪さんが食べたかっただけじゃないの?」
「ち、違うわよ!人をそんな食いしん坊みたいに言って……!」
アカギはククッと笑いながら紗雪をからかった。実際彼女の茶碗にはアカギのものよりも多く白米が盛られているし、豚汁の具だって多い。
手を合わせようとしたところで、紗雪は何か思い出したかのように立ち上がった。小さな仏壇の前に座り込み、よそった白米を供える。傍に置かれた写真には、二人の男女が写っていた。
「母さん、父さん。今日はご馳走ですよー」
蝋燭の炎を手で仰いで消した。
戦争で死んだ両親のことを、紗雪はもうほとんど覚えていない。だが、空襲で燃え盛り真っ赤になった街、あの肉の焼けるグロテスクな臭い、死にゆく人々の阿鼻叫喚。それだけは心に染み付いて今も離れない。この写真一枚を必死に握りしめて必死に走って生き延びたのだった。紗雪が五歳の時の話である。
「……?」
「たまには俺もするかな」
紗雪が立ち上がると、今度はアカギが仏壇前の座布団に座って先行を手に取った。面倒だったのか蝋燭に火は付けずにマッチを直接線香にかざす。
「ありがと。優しいのね」
「知らねえガキに線香焚かれて困ってないといいけど」
「二人とも子供が大好きだったっておばあ様が言ってらしたから、きっと喜んでるわよ」
アカギの気まぐれには理由があった。
自分の両親への興味はとっくのとうに薄れてしまっている。天涯孤独となってしまった理由は悲惨なもので、初めのうちは両親を恨んでいたアカギだったが、時が経つにつれそれは無関心へと変わっていった。初めは理解できなかったのだ。自分を置いて死んだ両親を、紗雪は何故愛せるのかを。
紗雪があまりにも真面目に仏壇の手入れをするので、何となく興味が湧いてしまったのだった。
「じゃあ気を取り直して……いただきます」
冷めないうちにと紗雪は箸を取る。アカギはあまり話すタイプではなかったが、やはり誰かと食べる夕食というのは楽しいものだ。
「勝負の日はいつなの?」
「さあね。明後日か三日後か、その辺だと思うけど」
「ふぅん」
あの夜から二日が経ち、そろそろ日にちの知らせが来てもおかしくない頃だった。アカギはあまり紗雪をヤクザが絡んでいるこの件に関わらせたくなかった。だが携帯電話など存在しないこの時代、向こうからの連絡を待つには紗雪の家の電話を借りるしかなかったのだ。足早にあの場を去らずにもっと安岡と話をしておけばよかったと後悔した。
「デザートはメロンよ。親戚からいただいたの!」
「メロンか……食べたことないな」
「しかも日本じゃまだ商品として出回ってない外国の品種だそうよ。すっごく甘くて美味しいんですって!」
貿易業を営んでいる紗雪の親戚が試食として特別に二玉贈っていたのだ。今でもメロンは高級品だが、昭和のメロンの値段は現在より遥かに高く、ドロップスのメロン味しか食べたことがないという人も多かった。
「……うま」
エメラルドのような果肉を掬ってひとくち食べてみると、舌に触れた瞬間に甘い蜜が口いっぱいに広がって、アカギも思わず口角を上げずにはいられない。
(アカギくんのこんな緩んだ表情、初めて見た)
それでも周りの子供と比べたらまだまだ落ち着いている方だ。
「……何でニヤニヤしてんの?」
「美味しそうに食べるなあと思って」
些細なやり取りがまるで母と子のようで、ああ、彼はまだ中学一年生なのだ、とあまりにも現実離れしている現実に紗雪はため息をついた。そう、これは現実。たった十三歳の彼に身寄りがないことですらそうだ。すべて残酷な現実だった。
「あなたなら絶対勝てるって信じてるからね」
「なら、勝利祝いのご馳走の準備でもして待ってなよ」
「もちろん!何でも作ってあげるわ!」
自分に言い聞かせるような紗雪の言葉にアカギはそう返した。紗雪はそれに優しく微笑み返す。
裏社会に染まっていく一人の少年と、光のもとで生きる少女の日常の話である。