真夏の邂逅
「すみませーん!」
静かだった店内にその声は響いた。親父は何かを飲もうとちょうど階段を降りてきた俺に目配せをした。……俺が出ろということだろう。野球中継に夢中な親父はすぐに目線をそちらに戻してしまった。
「はい、いらっしゃいませ」
「あの、ここら辺に笠城モーターズってお店あるの知りませんか?初めて来たので道に迷っちゃって……」
「ああ、それなら知ってますよ」
女の人は地図を俺に見せてきた。笠城モーターズはこの近くにある車やバイクの修理屋だった。彼女から地図を受け取って、許可を貰ってそこに印をつける。
「初めて、って……そのためにわざわざ?」
「ええ。神奈川からね」
「か……」
よっぽどいい腕の整備士がいるのか、彼女が笠城さんの家族や親戚なのか。そんなことは知ったこっちゃない。
「そうね。せっかくだから豆腐買っていこうかしら。おすすめはありますか?」
「……え、あ、油揚げです」
「じゃあ、それでお願いします」
俺よりも少し年上に見える。大学生くらいだろうか。少しつり目で、雰囲気も大人っぽくて綺麗な人だ。
豆腐の入った袋を持って店を出ていったのをなんとなく追いかける。店の前に止まっていたのは白いスポーツカーだった。
「ねぇ君、いくつ?」
「十七です。高三で……」
「ふーん。あれ、君のクルマ?」
砕けた口調に不思議な感覚を覚えた。なんだか少し恥ずかしい。彼女が指を刺したのは親父の車だった。俺がいつも配達で使っているやつだ。
「いや、仕事のです」
「いいハチロクだね。乗ってみたいなあ」
(ただのオンボロのクルマなのに……?)
「まあいいや。道教えてくれてありがとね」
そう言って車に乗り込んだ。手をひらひらと振った後、エンジンをかけて彼女はそのまま走り去っていった。白い車が陽炎の中へと消えていくのを、俺は夏の焦がすような日差しに照らされながらぼうっと見つめていた。
「わざわざ外まで出てくなんて、何かあったのか?」
「いや、別に」
しばらくして部屋に戻った俺を見て親父はそう言った。冷蔵庫から缶コーラを出してフタを開ける。冷えた炭酸が口の中で弾けて心地よい。
「……さっき来た人が、親父の車を見て『いいクルマだね』って」
「へぇ」
「乗ってみたいとも言ってた。そんな凄いやつなのか?あれ」
「さあな」
きっとあれは彼女の勘違いだったのだろう。そもそもあれは『ハチロク』じゃない。車には『トレノ』って書いてあったんだ。……そういえば、樹が騒いでいた車もそんな名前だったっけ。
今日は学校が午前中までだった。バイトまで少し時間があるから、家で少し休めるな。そんなことを考えながら歩いていると、既視感のある後ろ姿の女性が商店から出ていくのを見かけた。
「あっ」
ふと後ろを振り返った彼女に気づかてしまった。後を付けていたみたいに思われてたらどうしよう。
「あ……!あんた、文太さんとこの!文太さんにはお世話になってるからなあ」
隣を歩いていた帽子を被っていたおじさんが、俺の顔を覗き込んでそう言った。誰だ、この人。親父の知り合いであることは確かだけれど、まったく見覚えがない。
「俺、笠城英士。笠城モーターズの店主。いやあ、拓海くんも大きくなったなあ!」
「ちょっと、彼困ってるじゃない」
がしがし頭を撫でられた。それを彼女が止める。
「この間はありがとう。私は鷹嶺凪紗よ。よろしくね」
「藤原拓海です。その、笠城さんは親父とどういう関係なんですか?」
笠城さんは缶ビールの入ったダンボールを抱えながら話してくれた。途中、立ち話をするには外が暑すぎたので彼のお店に寄ることになった。
「お前ん家のハチロク、あの整備を手伝ってるって訳だ」
「はあ……」
隣の倉庫にはよく分からない機械や工具が沢山並んでいた。ボンネットが空いていたりタイヤの取り外された車もある。きっと修理中なんだろう。
「ねぇ、あんたホントに何も知らないの?」
「何もって、そもそもあれはただの仕事のクルマで……」
二人は目を見開いたままお互いの顔を見合せた。そんなことされても、知らないものは知らないんだから仕方ないだろう。
「ああ、まあ、あの人なりに考えがあるんだろうな」
「さあ拓海くん、遅くなっちゃうからそろそろ帰りましょう?お姉さんのクルマで送ってってあげるから!」
笠城さんがため息をついた。二人に急かされて店を出る。ガレージに止まっていた例のスポーツカーに乗り込んだ。ルームミラーのところに小さなお守りがぶら下がっている。『交通安全』とか、『開運除災』とかならまだ分かるが、そこに書かれていたのは『良縁成就』だった。
「あれっ、このお守り……」
「いい縁って大事でしょ?いいコース、いいクルマ、いいチーム、いいドライバー。一つでも欠けてたら走ってても楽しくないもの」
(てことは、鷹嶺さんも秋名山を走りに来たのかな)
池谷先輩率いる秋名スピードスターズと、赤城レッドサンズの交流戦のことを思い出した。確か次の土曜日だったか。
「ここら辺じゃ秋名山は有名だし、もちろん興味はあるんだけど……今回ここに来たのは親戚の英ちゃんの手伝いのためだからね」
この車は左ハンドルだから、外車だろう。この間の走り屋たちの中にはあまりいなかったような気がする。
「拓海くんも運転するの?」
「あぁ、まあ、豆腐の配達とかしてます」
俺にとって運転は仕事の範囲内だった。走り屋みたいに、楽しんでやるものじゃない。
「ふーん、じゃあ、きっといいドライバーね」
「……?なんでそう思うんですか?」
「なんとなく。勘よ、勘」
信号待ちで、鷹嶺さんはウィンクしながらそう言った。なんだか少しドキッ、と……したような気がした。
「はい。とーちゃくー」
「ありがとうございます」
車を降りた。夕暮れの涼しい風と、ひぐらしの合唱。いかにも夏って感じだ。じゃあね、と言って車を発信させた鷹嶺さんを慌てて止めた。
「鷹嶺さん!」
「……なあに?どうしたの?」
静寂を壊すような蝉の大合唱が煩かった。
「また、豆腐買いに来てくださいね」
「ふふふ、商売上手ね。拓海くんも、ハチロクに何かあったらウチに電話するのよ」
もちろん豆腐のためにそんなことを言った訳じゃなかった。また鷹嶺さんに会いたかったからだ。……けれど、そんなことをそのまま伝える勇気なんて、なかった。