疲れたな、と誰にも気付かれないように小さくため息をついた。大学を卒業するまではそれなりに順調な人生を歩んでいたのに、肝心の就職先を間違えてしまった。どれほど頑張ろうともその全ては上司の手柄となり、自分の評価や給料は上がらない。なんのために生きているのか完全に見失っているのに、易々と辞めるわけにもいかず途方にくれていた。それになにより許せないことがあった。はじめはまあそういうこともあると自分に言い聞かせていたが溜まりに溜まってイライラが爆発しそうになっていた。
なぜこのタイミングで爆発しそうになったかというと、女子ロッカーの奥に小さめのソファがあるのだが、一人横になるにはもってこいのサイズ。つまり、そこでサボっている同期を見かけたってことだ。まあ、毎日数回はここで寝ていることを知っているので今更といえば今更なのだが……。
「ハンカチ取りにきましたよっと」
どうせ聞こえてないけど、私はあなたと違ってサボリじゃありませんと小さくアピールしながら目的の物を取る。
彼女達は仕事が少なくよくサボるが上司が甘いのもあって、なーんのお咎めもない。それどころかできなくても、居眠りしてても可愛いと言われるだけ。そのくせ私にはなんで間違えたとかさっさとやれとか、まるで奴隷になった気分だ。
いろんなモヤモヤを流すように手を強めにゴシゴシと洗った。キィ、と音を立てて廊下へ出るとみんなそれぞれの持ち部屋にいるのかシンとしていた。
「もう、辞めようかな……」
自分の意志とは関係なく漏れ出た言葉はずっと考えないようにしていたものだった。あまりに自然と口にしてしまったので、私の本音はずっとそこにあったんだなと苦笑してしまう。
入社して半年。たった半年、それでもすごく長く感じる。転職するならはやいうちが良いよね、ストレスで身体壊したら元も子もないもん。だから辞めても大丈夫だよ、自分で自分を慰めていると後ろから声をかけられた。
「おい」
「ひいっ!!!」
「なんや人をオバケみたいに」
「ざ、財前先輩……どないしたんですか?」
入ってすぐにお世話になった財前先輩。三ヵ月間はみっちりお世話になったけど、一人立ちと称して関わることが極端になくなった。今は朝だけ書類のやりとりや納期の件で話をするだけだ。言い方も目つきもキツイので正直こわい。けど仕事を覚えると都度褒めてくれたので良い先輩だと思っている。
「みょうじこそどないしてん、でっかい溜息つきよって」
「え、えへへへへ」
「俺、お前の為に三ヵ月使ったんやけど」
「……はい」
「辞めるん?」
「辞め……」
辞めたい、そう言いたいけど言ってしまえば愛想つかされるかもしれない。そう思うと言えず変わりにでたのは涙だった。
「なんで泣くねん」
「ず、ずびばぜん」
「あと一時間で終わりやろ、飲みに行くで」
「うぇっ」
「裏にある本屋で待っとき」
本屋で待機すること数分、何も言わず連れてこられたのは五分くらい歩いたところにある居酒屋だった。好きなものを頼むように言われハイボールと生ハムをチョイスした。運ばれてきたジョッキを持ち上げお疲れ様と合わせる。
「で、なんで辞めたいん?いじめられとるんか」
「いじめられてないです!ただ、なんというか、疲れたというか」
「仕事量が多すぎるんか?」
「それは、まあ、多いけど、とりあえずこなせているつもりではいます」
「今ここには俺とみょうじしかおらん。個室やから声も漏れへん。ここでの会話は誰にも話さへん。やから、思ってること全部言うてみ」
「くだらないですよ?」
「ええから」
前置きとかそういうのは無駄だ、さっさと本題にいけ。そう言われているようで、まとまりもないままポツポツと話はじめると、自分で思っていた以上に出てくる出てくる。小さいものからどうしても許せない不満までたくさん出た。
上司のミスは私になすりつけられ、頑張っても上司の手柄になり自分の評価や給料は上がらない。自分に与えられている仕事が多くて毎日必死にこなしているのに、同僚の女性社員達は、例え暇でも電話が鳴ってもとらない、コピー用紙は補充しない、トイレットペーパーも使い切ったらそのまま芯だけ残す。他の備品も使い切ったらそのま、使ったらそのまま置きっぱなし。誰かがしてくれる精神がすごい。幼稚園児だってできるだろうことができないのだ。
「まあ、最近トイレ流すようになっただけマシなんです」
ハンカチを片手にお手洗いに行けば便器にベットリくっついたUNKOとこんにちは!プカプカ浮いていた時にくらべればこのくらい……介護ってこんな感じなのかしらと想像しながらゴシゴシと掃除をする。みんなが『っぱなし精神』を改めてくれたらこの無駄な労力がなくなるのに。
「仕事だって私の半分もないくせにそれすら満足にできないし、何回もサボりに抜けてるくせに持ち場でも寝てるし、私から見たら給料泥棒だし、何しに来てるのって感じなのに!」
ドンとジョッキを置いてそれに、と続ける。
「なにもしてないくせに、おっさんらにはやたら気に入られて、そのわりにおっさんらは私にはあれやれこれやれさっさとやれって煩いし!それこそ意味合いちゃうけど、うちこそ何しに来てるんや、いつ保育園の先生になったんやろ……いやヘルパーさんかもしれんって気持ちになって全部馬鹿らしくて、頑張りたいって気持ちがなくなって」
財前先輩が相槌を打つ暇すら与えることなくマシンガンのように愚痴った。もう明日から彼女たちが彼にどんな目で見られるか、私もどんな印象をもたれるか、そんなことを考えもせずにしゃべった。この間に飲んだハイボールは三杯になる。
「うちはな、もうな、嫌やねん!こんな、こんなくだらんことでイライラする自分が嫌やねん!でもイライラしてまうねん!まともな人と働きたいんや〜このままやと自分まであかん人間になってまうううええええええええんんん」
思い切り泣いてその勢いで四杯目のハイボールを空にし、ゆっくり机に置いた。通りかかった店員さんにおかわりを頼みお通しの枝豆をプチプチと小皿に出した。
「正直、常に姿見えんなと思ってたけどあっこの部署の上司はなんも言うてへんしサボってるん知らんかった」
その言葉に「みんなそうでしょうね」と小さな声で返す。
「でもみょうじがいつも気を配って整理整頓してくれたり補充してくれてるのは知ってた。他の子がやってるとこ見たことない。なあ、今度から誰かやるまでみょうじもやらんでおいたらどないや?」
「それ、友達にも言われてやったことあるけど結局誰もなんもせんから意味ないねん!ないねんで!だって!だあああああれもせーへんもん!」
残っている生ハムを意味もなく小さくちぎりながら答える。財前先輩はそれに対しては何も言わずに話を続けた。
「今度の会議で使ったら小まめに補充、使い切ったら報告するの徹底するように言うてみるわ。トイレは汚れが目立つって掃除の業者に言われたって伝える」
「そんなの、わざわざ言わんでも、できるんや……幼稚園児でもできるんやで」
「サボりは部署ちゃうから強く言えんけど、実態をちゃんと報告する。その為に日時をメモしたりしたいから、一週間待って」
「そんなんわざわざ財前先輩がするようなことちゃうもん部署も仕事もちゃうもん」
せっかく改善するために動こうと提案してくれているのに、でもでもだってが止まらない。私なんかの為に先輩が立場悪くなる必要なんてない。そう思う半分、辞めるから良いという思いが半分だ。
「あと、俺らの上司は今はどうしようもないから、せやな……二年、待たれへん?」
「二年……長い、もう半年で心折れた私には長いれす」
しかもなんでそんな待たなきゃいけないんだ、と遠い目をしていたら未だに生ハムをいじっている私の手を握った。
「それまではこうやって愚痴聞いたるから、俺があいつより偉くなるから、そしたらみょうじにそんな辛い思いさせへん」
「財前先輩ならほんまになりそうでこわい」
「せやから、みょうじ」
「ふぁい」
「俺についてこい」
なんで新人の私に、同じ部署というだけでそんなに優しいのか。私にはもったいなさすぎて情けなくなって、またとめどなくボロボロと涙がでた。同僚と上司には恵まれなかったけど、こんなに頼りになる先輩が側にいたなんて気が付かなかった。思えば入社したての頃も、覚えが悪い私を怒らずに次の日には違う教え方をしてくれた。ずっと支えてくれていた。私も、財前先輩が昇格したら、彼の下で彼のことサポートしていきたいって思った。だから、返事は一つしかない。
もくじ next