疲れたな、と誰にも気付かれないように小さくため息をついた。大学を卒業するまではそれなりに順調な人生を歩んでいたのに、肝心の就職先を間違えてしまった。どれほど頑張ろうともその全ては上司の手柄となり、自分の評価や給料は上がらない。なんのために生きているのか完全に見失っているのに、易々と辞めるわけにもいかず途方にくれていた。
最近は何かにつけて辞めろと言ってくる社長にストレスを感じている。今日も機嫌が良くなかったらしく、床に落ちていた紙屑を私に投げつけてきてこう言った。
「おい!ゴミ落ちてるだろ!汚すな!落としたらすぐに拾って捨てろ!」
「あ、はい……でもそれ私じゃ、」
「口答えするな女のくせに!嫌なら今すぐ辞めろ!」
なんで私だったかと言うと、たまたま近くを通りかかった女という理由なだけ。
大体汚すなって言うけど建物古いし土足だし掃除のプロが来たこともないのに、どうしたら綺麗になると思うのか。掃除は女性社員の仕事になってるけど、しない人もいるし適当な人もいるからそりゃ汚くて当たり前。
共有のタオルで化粧を拭う人もいれば食べ物を落としても掃除しない人もいるし……潔癖症の私はこの会社に入ってから手を洗う回数が増えてしまい、見るからにもカッサカサになってしまった。どんなに良いハンドクリームをこまめに塗っても、またすぐに手を洗うので保湿が追い付かない。
「おいみょうじ、入力しろって言っただろ!」
「しましたよ」
「嘘つけ、データないじゃねーか!」
「えー……?」
「やる気ないなら辞めろ!」
そりゃ不特定多数の人がさわってたら消えちゃうこともあるでしょ!そんなの私のせいじゃないしやる気ないのはお局のあいつだよねー!?一日に何回もさぼってるけどそもそも自分の仕事ないじゃん!持ち場にいても寝てるだけだし!なんで一番仕事量が多くて真面目に働いてる私ばっかりそんなこと言われるんだ!
毎日毎日なにかしら言われる。ご機嫌斜めの時は理不尽に辞めろ攻撃。あれ、なんでご機嫌って斜めになるんだ?機嫌良い時はまっすぐになるのか?
帰宅するためにエレベーターへ乗り込む。そこで現実逃避のように違うことへ意識を集中させていると声をかけられた。
「なまえ、今帰り?」
その優しい声の持ち主を確認するために顔を上げると、別部署に努めている彼氏のサエがいた。
「あ、うん」
「そっか、俺もなんだ」
「お疲れ〜」
「なんか考え事?」
「いや、くだらないんだけどね」
「聞いても良いかな」
「えっと、機嫌が悪いことをなんでご機嫌ななめって言うのかなと思って」
「なるほど……わかんないや」
「だよね」
本当にくだらなさすぎて恥ずかしくなってしまう。あははと笑って返すので精一杯だ。こんな時間から一緒に帰れることなんて滅多にないのに、もっと楽しい話題をふれば良かった。
一緒にスーパーで買い物をしてから帰宅し簡単に晩御飯を作り、冷えたビールも食卓へ運んで乾杯をする。
「おつかれー!」
「なまえもお疲れさま」
「っはー、ビールおいしい」
「ねえ、誰のご機嫌がななめだったの?」
「へ?」
誰か機嫌が悪くて、それが自分にもふりかかってきたからあんなこと考えてたんでしょ?と続けた。私の思考は駄々洩れなのか、そう思いながらも簡単に返した。
「社長がね、機嫌悪くて、そうなるといつも辞めろってうるさいんだ」
それだけ!と強引に終わらせてご飯を食べるように促すがサエはお箸を持つこともしない。せっかく二人で食事を楽しみたかったのにこうなってしまうなんて、私にとってあの会社は呪いである。いや、でもあの会社でサエと出会ったし……憎みきれないのが憎い。
「食べないの?私が全部食べちゃうよ」
サエが喜んでくれると思っておからの煮物を作ったのに。しょうがないから自分で食べてしまえとお箸を伸ばしたら止められた。
「なまえ、ちょっとご飯あとにしよう」
「え、でもビールぬるくなるしご飯冷めちゃうよ」
「すぐに終わるから、こっちに来て」
こっち、というのはベランダだった。少し肌寒いものの出るとサエが上を指さした。その先には満月があったので、俯いてばかりいたから教えてくれたのかなキレイだな、なんて呑気に見ているとサエが「見てて」と言った。
何もない手のひらを見せると、そのままゆっくり月を覆うようにかざした。そして素早く月を掴むような動きをする。一体なにがしたいのかと黙っていると私の方を振り返った。
手はこぶしを作ったまま、私をまっすぐ見て口を開く。
「本当に辞めたら良いよ」
「え……?」
「男尊女卑がひどいよね。俺は男だから不便を感じたことないけど、女性には辛い場所だ」
「うん、でも」
「なまえは真面目だから、言おうとしてることはわかるよ」
「じゃあ簡単に言わないでほしい」
「簡単じゃない、俺は真剣に話してるんだ」
私のことわかってるようでわかってないじゃん。仕事辞めたら収入がなくなる。じゃあ生活ができない。実家に帰ってニートでもしてろということなのか。
疲れている今は頭の中でネガティヴコース一直線の被害妄想がはじまってしまう。それが顔にでていたのかサエは苦笑した。
「そうじゃないよ。ねえ、聞いて」
「……うん」
疲れとイライラと様々な感情で涙が出そうになるのを堪えながら次の言葉を待つ。
サエは私の左手をそっととり、優しく唇に触れた。ただそれだけで胸いっぱいに温かい気持ちが広がる。今までだって何度もキスをしてきたのに、付き合いたてのような少し気恥しい気持ちが込み上げ思わずうつむいた。
「え、なんで?サエ?」
その時視界に入ったのは、薬指にはめられた可愛らしい指輪だった。
「なまえ、俺と結婚してください」
なんで、いつから用意してくれていたの、さっきまで普通にごはんを食べようとしていたのに、いつの間に指輪がここに。
疑問が次から次へと湧き上がって返事もろくにできないでいるとそれもお見通しだったようだ。
「指輪はお月様に譲ってもらった」
「あ、」
だから手をかざしていたのかとようやくわかって笑いがこぼれる。
「俺が一生なまえを笑顔にするね」
そう言ってくれたサエの笑顔がとても愛おしくて、私も負けないくらいサエを笑顔にしていきたいと思った。
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