〜社会人編〜
疲れたな、と誰にも気付かれないように小さくため息をついた。大学を卒業するまではそれなりに順調な人生を歩んでいたのに、肝心の就職先を間違えてしまった。どれほど頑張ろうともその全ては上司の手柄となり、自分の評価や給料は上がらない。なんのために生きているのか完全に見失っているのに、易々と辞めるわけにもいかず途方にくれていた。
あまり人が来ない倉庫の扉を開き、電気をつけようとした手を下げた。前々からずっと気になっていたことがある。
「ここ、日本だよね……」
思わず口にしてしまった言葉に、後ろから「そうだよ」と返ってきた。驚いて振り返ると王子様みたいだと言われている先輩がいた。
「せ、千石先輩」
「え、俺の名前知ってたんだ!嬉しいな〜」
彼はフロアの違う部署にいる人だが、私のところまで噂がやってくるほどに人気者だ。むしろ知らない人なんていないんじゃないか、というくらいなのに、少し白々しいと感じてしまう。
「なにしてるんですか?」
「備品の在庫が合わないって管理してる人に言われたからチェックしに!」
「先輩って営業なんだと思ってました」
「そうだよ、でも綺麗なお姉さんに頼まれたら断れないからね〜」
『王子様みたいだ』とセットでくっついて言われているのが『でも無類の女好き』だということと、確か管理している人は母くらいの年齢だったはずだということを同時に思い出した。なるほど、と納得してしまう。
「で、なまえちゃんはなにしてるの?」
さらっと名前を呼ばれたことに驚いた。この会社は大きくないが小さくもない。それなりの人数が働いている。それなのにフロアも違う噂にもならないような地味な私の顔と名前を知っているとは、動揺を隠せずどもってしまった。
「え?あ、いや、あの、クリップがなくなったので取りに……」
「あークリップないかもね」
「ですよね、だと思います」
「ねえ、さっきのどういう意味だったの?」
「え?」
「ここ日本だよねって」
探っているわけではなくてただ単に疑問だ、という表情で聞かれ、どこまで話して良いものかと答えに詰まる。そんな私を見かねたのか、周りをキョロッと見回して中に入れと促すように手をプラプラさせた。今度こそ電気をつけ中へ入ると彼も続いてそっと扉を閉めた。
「今ここには二人きり。わざわざ言いふらしてお互いの評価下げるようなことはしないよ、話してみて?」
「でも……」
「部署が違うからこそ聞けることもあるし、なにより俺はどんな時も女の子の味方!だから安心してよ」
本当に安心させようとしてくれているのがわかるくらい、ゆっくり優しく言葉を選んでいるように感じた。まあ、もし私の話したことが流れたとして自分の立場が悪くなってしまっても、その程度の会社だったということだ。だって、私は悪くない。たぶん。
今までのモヤモヤを取り払いたくて、甘い言葉に流されることにしてみた。
「私のフロア、二つの部署があるんですけど、その、もう一つの部署の部長が私のこと影で話してるの聞いてしまって……」
「え〜なんて?」
「目の前通る時に頭を下げないとか、言われた仕事をやらないとか……また別の人とは会話がちょっとしんどかったり、そんな感じです」
「その状況ってどんな感じだったの?」
「え、っと」
全部説明しないといけないのか?ちょっとめんどくさいことになったな、なんて思いつつ思い出せる限りの説明をした。
頭を下げないは、たぶん廊下を通った時。部長と主任が左右の壁に立ちながら話をしていたから、通りますと言ってから軽くペコッとした。仕事に関しては別の担当者が連休をとっていたから代わりにやるように言われたものの、もちろん担当が違うのでやり方がわからず、どうすれば良いか聞き返した。そしてそのまま数ヵ月は私が受け持った。
「なるほど……たぶん、その人は何やってもケチつけたいだけだから気にしなくて良いよ。ちゃんとしてるなら絶対に見てる人がいるからさ」
「そんな風には思えなくて」
「会話がしんどいっていうのは?」
発注するのにあたって、『どこの店舗に・なにを・何個・いつまで』というのを主任に確認してからする。「納期いつですか?」に対して「六二個!」という返事。「個数は六二ですね、納期はどうしますか?」と聞き直しても「だから!六二個!」と返される。また「六二個はいつ入れにしますか?」と聞き方を変えても「だから六二って言ってんだろうが!」と怒られる。
今もクリップちょうだいと言われ、備品を置いている棚を見てもなく倉庫にもなかったのでそれを伝えた。なのに、会話が進まない。
「クリップは?」
「なかったです」
「え?クリップないの?」
「なかったです」
「本当に?クリップなかったの?」
「なかったです」
という感じでないことを受け入れてくれないというか、お互い日本語を話してるはずなのに通じないというか……。
そこまで話すと先輩は大きな声で笑った。
「ご、ごめん、でも、おもしろすぎる」
「そうですね聞いてる分にはおもしろいかも。でも毎日こんな感じだと仕事も進められなかったりするし本当にしんどいです。どういう心理だよって疑問だし、信じられないなら自分で確かめてくれって思うし、何よりも人の話聞く気がないなら声かけるな!ってストレスなんです」
話していたらモヤモヤの理由が明確になりムカムカへと変化した。そして勢いのままに話してしまった。
「うんうん、なるほど日本かって疑問にもなるわけだ」
「すみませんグチグチと、全部私の主観なので間違ってるところあるかもです」
「実はさ、その話を聞いてここまで来たんだ」
「え?」
「なまえちゃんの部署から内線で、ないって言ってるけど補充いつされるのかって」
「そうだったんですか」
そういえばクリップを取りに来たと言った時に、ないかもねと答えていたなと思い出した。
「それと挨拶の話ね、俺遠目からだけど見てたよ」
「ええ!?」
「なまえちゃんはちゃんとお辞儀してたの知ってるよ」
「そ、そうでしたか」
見られていたとは思ってもいなかった。お辞儀が甘かったのかな〜もっと九十度くらい頭下げないといけなかったのかな〜と鏡を見ながら練習をしていたけど、なんだ、あれで良かったのか。
「難癖つけたがる人と、会話のキャッチボールが苦手な人はどこにでもいるからな〜……話ならいつでも聞くからさ、辞めないでよ。ライムしてる?」
彼はそう言ってスマホをポケットから取り出した。愚痴を聞いてもらうために連絡先交換するのも申し訳ない。きっとIDもしくはコードを表示された画面を見せようとする彼を、両手でそっと押し返した。
「いえいえそんな悪いです。今すぐ辞めるつもりはないですし、こうやって聞いてもらえただけでもすごく嬉しかったです」
「ん〜」
「ありがとうございます」
ちゃんとお礼を言ったものの先輩は眉間に皺を寄せ何か言いづらそうにしている。もしかして私はなにかやらかしてしまったのだろうか。
「あの、なにかあるなら言ってくださいね!」
聞きたいような聞きたくないような。それでもきっと彼は厳しいことは言わないだろうし今後ここで働いていくためには指摘してもらった方が良いだろう。そう思って勇気を出したというのに。
「言っても良いの?」
「うぅ……はい!」
「じゃあ言うね。俺と連絡先交換してよ、もっとなまえちゃんと仲良くなりたいんだ」
笑顔でこんなことを言ってのけた。想像と違いすぎる返答で呆気にとられていると更に嬉しそうに話した。
「さっきの電話でなまえちゃんも倉庫に向かってるっていうからチャンスだと思って来たんだけどな」
「ま、またまた〜あまりそういうことばかり言ってると勘違いする人でてきますよ?」
「俺、確かに女の子好きだけど誰にでもこういうこと言わないよ」
真剣な顔をするから、真意を測りかねてどう答えるのが正解か頭をフル回転させた。けど、そもそも男の人にアピールされたことなんてないから対処法が一つも浮かばない。
「ちょっとずつで良いから、俺のこと知ってよ。俺にもなまえちゃんのこと教えて?」
だから、スマホを差し出されてしまえばもう「はい」としか言えないのだ。
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