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食事が終わると大広間からハッフルパフ寮へと監督生が案内してくれる。やはり、その寮の特質からか他より人数が幾分か多いようで監督生は一年生を引き連れるだけでも苦労しているみたいだ。厨房に近い廊下右手の陰になっている樽の一つをリズミカルに叩くと寮への扉が開けた。他寮のように合言葉や問題はなく、このように「ハッフルパフ・リズム」を刻むらしい。少し可愛らしくて私はなかなか好きだ。
 寮へ入ると談話室には眼もくれず私は女子寮へと樽底のような戸から入室した。いちいちメルヘンチックなのはヘルガ・ハッフルパフの趣味なのだろうか。トランクの底から青い大学ノートを取り出しベッドに飛び込んで周りをカーテンで囲う。プライベートをこうやって確保できるのは何より有り難かった。特に、私のような秘密の多い人間には。
「ええと、今年一年は……」
 ノートを捲る音が空気に溶ける。このノートはある意味私の命綱のようなものだった。この世界の知識、特に未来に関してのものを日本語で書き綴っているのだ。これから七年この学校で過ごさねばならないのだから、うっかり忘れて途中でゲームオーバーなどにはならないようにするための対策だ。
「まあ、一ヶ月くらいはのんびり様子見と行きますか」
 私はトランクの底にこのノートを隠すようにしまうと、トランクごとベッド下に滑り込ませた。やはり、エロ本みたいに誰にも見られたくないものはベッド下に隠してしまうのは人間の本能なのだろうか。
 扉が開いてがやがやと数人の女の子たちが入ってくる声がする。そういや自己紹介もまだだったっけ。ああ、もういいや。とても眠い。明日改めて挨拶するから今日だけはこの無礼を許してほしい。頬を撫でるように柔らかな素材の枕に顔を埋めて私は静かに瞳を閉じた。



 朝、誰に起こされるでもなく自然と眼が覚めた。ベッドサイドの時計を確認すると時刻はまだ六時前。ルームメイトはもちろん、教授だってまだ眠っているだろう。ベッドから這い上がるとその足で洗面台へと向かう。鏡には寝ぼけ眼を擦る幼げな西洋人の少女がいた。慣れた顔だ。この十一年で十分見慣れた癖のない、いっそ燃えるように赤く豊かな髪を櫛で梳くと一つにまとめる。ルームメイトを起こさぬように静かに水道の蛇口をひねると肌を叩くように顔を洗った。柔らかなタオルで雫を拭い、完璧に覚醒した眼でもう一度鏡を見る。そこにはやはり、何処からどう見ても西洋人の少女がいた。――その、瞳以外は。私の両親は、私の記憶や写真によるとグリーンアイだったはずだ。けれども私 の瞳は黒曜石のようだった。眼の形は違えどもその瞳はまるで昔の「私」のようで、肌の白さと、それに対応するような赤毛の中で、その瞳は何処までもちぐはぐで無理やり嵌め込んだような違和感はいっそ歪ですらあった。
薄手のタンクトップとランニングタイツを履いて、寮の外へ忍ぶように出た。早朝トレーニングは私の日課だ。それを魔法界に来たからといってやめようとは思わなかった。杖腕さえ無事なら無敵だと思えるほど慢心はできなかったからだ。
朝の空気を感じながら未だ眠っているホグワーツの周りを一周走ると禁じられた森の入り口近くで足を止めた。ここなら生徒や教授が起きだす時間になっても滅多に近寄られはしないだろうと思ってのことだった。朝露に濡れた地面に手をついて腹筋や腕立てなどのルーティンをこなしていく。走り終わってから三十分程経った頃だろうか、不意に頭上に影が差した。
「ここで何をしているのかね」
低く艶のあるベルベットボイスが降ってくる。ゆっくりと体勢を整えながら掌の土を落とし、薄くにじんだ額の汗を拭く。前世の社会人生活で培ってきた分厚い営業スマイルを張り付けて声がした方へ顔を上げてみせた。
「おはようございます、スネイプ教授。ただの筋トレですよ」
「ここは禁じられた森だ」
「入り口付近≠ナしょう? 入ってはいませんよ」
 反抗的な態度はとらず、聞かれたことだけを答える。あくまで殊勝な態度で過不足なく答えを導く。
「……ハッフルパフ寮の生徒か」
 その言葉に私は小さく瞠目した。
「ご存じだったのですね」
「あんなに騒がしく組み分けをしておいて何を言う」
「だって、教授、貴方は――」
 ――ずっとハリーを見ていたじゃない。
 私は言葉の続きを誤魔化すように肩を竦めてみせた。危ない危ない、声に出していれば二重の意味で睨まれることになっていただろう。
「初日で覚えていただけるなんて光栄ですね」
 生徒として模範的な返答をしたであろう私に興味を失くしたようにスネイプはその闇のような瞳を反らし、私に寮へ帰るよう促した。大方森に薬草の採取にでも来ていたのだろう。朝早くからご苦労なことだ。彼に逆らってまで留まる理由のない私は有り難くその言葉に従い踵を返した。できるだけ彼と同じ場所には、それも二人きりで居たくなかった。せめて強固な閉心術を会得できるまでは。教師であるスネイプが滅多なことで一生徒の心を覗いたりなどすることはないとは思うが、それでも用心に越したことはない。如何せん私には秘密が多すぎるのだ。



 その後、女子寮へと戻った私は昨日の非礼を詫びて改めて自己紹介をすると、朝食のため大広間に同室のハンナ――ハンナ・アボットと連れ立って行った。未だ眠たげな様子の生徒を尻目に目ぼしい朝食を咀嚼する。いつか、イギリスの料理はあまり美味しくないと聞いたことがあるがホグワーツのご飯はなかなかに美味しい。豪華だが何処か家庭的でほっとする味をしている。ちなみに私の育ての親である叔母は料理上手なので生まれてこの方食事で苦労はしていない。ただ、時々和食が恋しくなるが。
「お米食べたい……」
隣のハンナの聞き返す言葉に曖昧に微笑みながら私はフォークを置いた。