エドモン・ダンテス

塗装が剥がれ落ちた木馬に嵌め込まれている黒い硝子の目は、白く濁ってどこか悲しげに見えた。
かつての煌びやかだった面影だけを残して、メリーゴーランドの走者達は皆ホコリだけを乗せ駆け回ることも無くその場に佇んでいる。
「たんたたたんたん♪たんたたたたたた♪」
多分案内が道にも描かれていたんだろう。足元に微かに見える文字の残骸を蹴り飛ばしながら、昔小学生の頃掃除の時間に流れていた陽気なメロディーの曲を口ずさむ。一蹴りする度に砂埃が舞って、風向きのせいで口に入って盛大にむせた。しゃがみこんでゲーゲー呻いていたら、向こうの建物を探索しに行っていたエドモンが帰って来たのか、「何をしてるんだお前は…」と呆れた声で蹲る私の隣で立ち止まる。
「なんかあっだぁ?ゲホォ!」
「いいから水を飲め」
手渡されたペットボトルは、こんな寂れた廃都市に似つかわしくない新品同様のラベルが貼られている。『♡BBちゃんのもしもの時のためのブタさん用非常用家畜水♡』と英角ポップ体で書かれたそれはダサいと言うにはありがたすぎる中身だった。端にはデフォルメされたスカートのやたら短い女の子がウィンクをしているイラストがついている。また見つかったのかこれ、と思いながらありがたく蓋をあけて水を飲む。ざらついた埃混じりの砂がやっと喉からいなくなってくれた。
「ぷへぁ」
「回転木馬か」
エドモンが目を細めてボロボロのメリーゴーランドの方を見ていた。意外に思って凝視したら、視線がうるさいと怒られた。
「エドモン、遊園地ではメリーゴーランドとか乗るタイプ?私は絶叫系しか乗らないよ」
「馬鹿そうだな」
「スリルを求めてるのよ」
「なら、今はこれ以上なくいい状況というわけか」
皮肉っぽくエドモンが僅かに口角を上げたのを見て、このやろう…と思いながらペットボトルの蓋を閉めた。
「今日はここまでにするぞ。明日には、月海に辿り着くだろう」
私の体力を私よりも正確に判断できるこのサーヴァントの言うことは聞いておいた方がいいだろう。前面の壁と天井が無くなって吹きさらしになっている建物の隅に移動して、簡易的なテントを張る。これも途中で見つけた例の"BBちゃん"製らしく、タブにBBとロゴがついていた。誰だか知らないが、転々と非常食や非常用品を配備してくれているらしい。もし会うことができたなら、私はアリのように這いつくばって感謝の言葉を連ねるだろう。
空気を入れて弾力を出すタイプの携帯マクラを膨らませ頭を乗せる。小さくて痛いが、野ざらしの床で寝て起きたら額にたんこぶを作っているより大分マシなのだ。ひとことふたことエドモンと寝る前の挨拶を交わし、私は眠りについた。



暗く、途方もないほど暗い部屋の中、男が蹲り何かを唱えていた。それはドス黒い呪詛のような何かで、聞き取ることは可能だが耳を塞ぎたくなるほどの怨念の数々だった。男の体の周りには、渦のように禍々しく波打つドロのような瘴気を幻視するほど、その男の怨嗟の声が部屋に響いていた。
それを後ろで見ていた私は、その男が直感的にエドモンなんだと分かった。そしてこれが夢であり、たとえ今男の肩に手をかけようとした所で、するりとすり抜け幽霊のように触れられないのだろうということも分かった。しかしこの場合、彼と私、どちらが幽霊なのだろうか。
男の声は鳴り止まない。もはや神に縋ることは無意味だと思っているらしく、彼の口から零れる言葉はとめどない恨みだけだ。
一歩足を踏み出したところで、途端に場面は変わる。彼は、エドモンは誰かと話をしているようだった。2人の顔はよく見えない。だけど、先程よりもエドモンは穏やかに見える。もう1人は男性のようで、エドモンは彼の言葉によく耳を傾けている。また場面は変わる。
エドモンはまた1人だ。先程から後ろ姿ばかりを目で追っている気がする。前の場面とは一転して、開放的な夜の外の景色だった。木々に囲まれた都市の見えない見晴らしのいい場所で、丸い満月を見上げてエドモンは佇んでいる。前より、随分と身なりが良く見える。
風が吹いて、私は乱れた髪を咄嗟に抑えた。その時、不意にエドモンがこちらを振り返る。その口が動き、小さな声だったにもかかわらず、私の耳にはまるですぐ側で語りかけられたかのように明瞭に、そして真っ直ぐこちらに向けられた言葉のように鮮明に聞き取ることができた。

「――待て、しかして希望せよ」





起床と共に硬い床で寝たせいでバキバキになった体をストレッチでほぐしてテントを畳んだ。水を飲んで、非常食のクッキー型栄養剤を急いで食べて荷物をまとめる。建物と言うには雨も風も凌げないもはや塀だった仮屋に一応敬礼して、既に少し先の方でスタンバイしているエドモンの方へ小走りに向かった。
「エドモンの夢見た!」
途端にエドモンは苦虫を噛み潰したような表情で押し黙る。まぁエドモンはいつも黙ってるが。
「あのね、私そういう映画とか小説とか詳しくないから、実は全然エドモンのこと知らなかったんだけど…」
喋っている最中なのに、エドモンは勝手に歩き出してしまう。その背中を急ぎ足で追いかけながら、私はなおもしゃべり続ける。
「だから、すごい今更っていうか…今まで気づけてなくて、すごく申し訳なかったんだけど…」
「…なんだ」
そこまで言って、ようやくエドモンが振り返る。言葉の続きを促すようにこっちをじっと見てくる顔から目を背けてしまった。
「その………………」
「…………」
「…エドモンって、めちゃくちゃ顔が綺麗だね!?」
「…………は」
まさに豆鉄砲をくらった鳩、という表情でエドモンが固まった。私は早口で続ける。
「状況が状況だから全然気づいてなかった……いやなんとなく整ってるな〜くらいには思ってたんだけど、それ以上なんか考える余裕がなかったから、昨日あらためて正面から髪よけた状態で見たらもうとんでもない美形で思わずその場で手を合わせちゃったんだけど、え、ちょっと待ってエドモン速い、その速度は絶対追いつけない速度なんだけどちょ、え、嘘でしょ待って待って待ってごめんなさいすいませんでしたお願い待って!」
猛スピードで視界から消えたエドモンを追って、朝から私は全速力でダッシュする羽目になってしまった。ひどい。

「着いたな」
「ひゅーっ、ぜひゅーっ、はぁ、ひぃ、鬼…」
途中からは速度を緩めはしてくれたが、絶妙に追いつけないくらいの速度でつかず離れず私を虐め抜いたこの男は飄々と汗ひとつかかずにやっとピタリと足を止めた。対する私はへろへろの脚をもつれさせ、その場にドスンと座り込む。ペットボトルのキャップを乱暴にあけ、残りのBB水をあおった。
「もう動けませーん、名前ちゃん、完!」
「むしろ、ここからのように見えるがな」
見ろ、と仰向けに横たわった体を襟を摘まれて無理やり起こされる。ぐぇ、と嗚咽が漏れたが、それよりも眼前の光景にすぐに目を奪われた。
「…街、がみえる」
「そうだな、それも、人が活動しているように見える」
生きている街だ。この崖を越えた対岸の向こう側に、一線を引いたように色の付いた街がある。
どこか人工的な淡いオレンジの夕焼けが差して、対岸の街を燃える焚き火の色に染め上げていた。隣のエドモンも、色調の少ない体を朱色に染められている。
「まずは危険性がないかだ。敵対行為が見られればすぐには安全を確保出来ないだろうが、これで食糧的な面での……おい、どうした」
「え?」
言葉の途中で、エドモンがこっちを見て固まった。理由がわからず首を傾げる。
「…泣くほど嬉しいか」
「…うわっ」
そう言われて目元を拭うと、確かに私は泣いていた。それも号泣といえる量かもしれない。拭っても拭っても、止まる気配がなかった。
「わ、わぁ、どうしよう、どうしようエドモン、あ、わぁ、うわぁぁぁん」
「おい、……」
諦めたような溜息をつくと、エドモンは私の隣にゆっくりと腰を下ろした。膝を立てて、頬杖をつき、太陽に見える光の塊が海に沈むのを眺めだす。
「安心するのはまだ早い、が、そうだな」
泣き声が嗚咽に変わって、しゃっくりが止まらなくなった頃、ようやくエドモンは口を開いた。宝石みたいに透き通った瞳が、横目に涙でぐちゃぐちゃの私を捉えている。

「――待て、しかして希望せよ、だ」

返事は返せなかったが、こくりと頷いてその言葉に応えた。満足したように再び視線を海に向けたその横顔を眺めながら、私は、やっぱり綺麗だな、と心の中で呟いた。