17

 信じるものは救われる。
 そんな言葉を初めて聞いたとき、私はなにかの間違いだと思った。

 子どもながらに、ずっと不思議だった。
「人を信じる心を育てましょう」
 童謡でも物語でも、似たような言葉が出てくる。そのたびに、私はどこか冷めた目で見ていた。
 人は簡単に他人を裏切ることができる生き物だって、すでに知っていたから。

 信頼なんて薄氷のようなもの。約束は理由があれば反故にできる。
 誰かに期待をしても、結局は惨めな気持ちになるだけ。
 私だけじゃない。大人だって同じように傷ついてきているはずだ。
 それなのに「信じることは大事だ」って、さも素晴らしいことのように繰り返してる。
 あの頃の私は、彼らの言葉がすべて薄っぺらに聞こえた。

 そもそも誰かと深く関わらなければいいのに、と本気で思ってもいた。
 私の心は、私だけのもの。ずけずけと土足で踏み荒らされるくらいなら、丸ごと隠してしまえばいい。
 まして誰かと真に心を通わせるだなんて、淡い幻想——
 夢のない子どもだったと思う。今も、その根っこはそう変わっていないけどね。

 だから私は、不用意に信頼を向けてくるドンやハリーのような存在が、きっと少しだけ恐ろしいのだと思う。
 彼らを見ていると、ひどく胸がざわついた。
 どうしてそんなに簡単に、他人を信じられるのだろう。
 彼らのあたたかな信頼に触れるたび、心の奥底が騒ぎ出すのがわかった。
 信じるなんて不毛だ。今のこの状況だって、ただのパフォーマンスかもしれない。
「痛い目にあうぞ」って、心の中の私が焦ったように言う。

 それでも私は、差し伸べられた手を振り払うことができなかった。
 彼らは光そのものだ。
 そばで居心地が悪そうに小さくなっている影は、きっと私。
 どうして彼らをこんなにも恐ろしく感じるのか、心のどこかではわかっている。
 多分、私は怖いのだ。その手が、いつか失望で離れていってしまうことが。
 私では、彼らの期待に応えられないことを、誰より私が知っているから。

 もし、そんなことを考えていると知ってしまったら、ハリーはどう思うだろう。
 あのときみたいに、目元を歪めて悲しむのかな。
 相手がドンみたいな人だったら、大声で叱り飛ばすかもしれない。
 それとも——彼なら、「それでもいい」と笑うんだろうか。

 人を信じることは、やっぱり難しい。
 いつか負うかもしれない傷に怯えて、生きていかなきゃならないから。
 私は信じてもらえるような人間じゃないって、逃げ出してしまいたくなるから。

 けれどもし、痛みも傷も丸ごと受け入れて、「信じる」と声高に言えたなら——
 そのときは、私も彼らのように、誰かを愛することができるのだろうか。




「じいさん——おっと。邪魔したかい」

 穏やかな空気で話を終えた二人の背後で、扉の開く音とともに聞き慣れないテノールが響いた。瑞季は割り込むような人の気配に振り返る。
 わずかに開かれた扉の隙間から、知らない顔がこちらを覗き込んでいた。

「かまわねえよ。なんだ」

 傍らで老人が促すと、その人物は私室の中まで入ってきた。
 現れたのは見目の派手な男だった。鮮やかな菫色の羽織を纏い、ショッキングピンクのインナーを着ていて、黒に近い焦げ茶色の蓬髪を頭上でひとまとめにしている。

「〈魔狩りの剣〉の連中がじいさんに話があるって言ってるんだけど、先客とどっちを先に通したらいいかね?」

 丘陵をなぞったかのような声だった。

「先のいざこざの件だろう。どうせたいしたことじゃねえ。先方から先に入ってもらえ。そう時間もかからねえだろうからな」
「はいよ」

 ドンは男の問いに慣れた調子で返していた。瑞季はその反応を見て、彼もまたギルドの構成員なのだろうかと予想する。
 ほどなく、ドンがタイミングを見計らったように、瑞季へ目を向けた。

(どうやら、時間切れみたい)

 瑞季はその視線の意味をすぐに理解した。
 老人へ向き直ってもう一度深々と頭を下げると、

「ありがとうございました。近いうちにまた伺います」

と手短にお礼を言って踵を返した。

 ハリーは間に合わなかったようだ。
 ただ、もし少年がこの場にいたとしたら、一連のドンとの会話を耳にして黙っているはずないだろうな、とも瑞季は思った。きっと多くの詮索を受けていたはずである。それを考えると、瑞季は少しだけほっとしていた。

 まだドキドキしている。麻袋を抱いて出口に向かって歩く。視界に菫色がちらついた気がして、瑞季はふと顔を上げた。
 部屋の中央に差し掛かったあたりで、羽織の男とすれ違おうとしていた。

 男のゆったりとした歩調に合わせて、高い位置で結い上げた髪がゆさゆさと揺れている。それを見て、「夕闇にススキが揺れているみたいだ」と、瑞季は思った。
 浅黒い肌に、不揃いな無精ひげ。背丈は瑞季の頭半分くらい上——いや、もしかするとその背筋を伸ばせば、もう少し高いかもしれない——ひどい猫背で、身体のラインがわかりにくい服装をしていることもあって、全体的にだらっとした印象を受ける。

 男の用事は、ドンに来客を知らせるだけではなかったらしい。羽織の内側に片腕を突っ込んだまま、彼は先客である瑞季を気だるげに見やった。どこか、場違いなものを見たような視線だ。

 小さくコツ、とお互いの足音がわずかにずれて重なった。
 ふっと男と目が合った。長く伸びた前髪の隙間から覗く瞳が、まるで初めて瑞季の存在に気づいたかのように、小さく見開かれる。

 ——そのとき、時間の流れがひどく曖昧になる感覚を覚えた。

 正面の飾り窓から漏れる日差しが男の双眸を照らしていた。
 凪いだ目だ。青でも緑でもない。磨く前の鉱石にライトを当てたら、きっとそんな光を放つと思わせる、静かな青碧色——背を、冷たいものがなぞっていった。視線をそらそうとしたのに瞬きひとつ分、反応が遅れる。

 そう。その瞳には、たしかに光が当たっていた。
 ——けれど、まるで「ぬくもり」と呼べるものだけが、ごっそり抜け落ちてしまっているようで。

 気づけば彼女は足を止めていた。
 男の重たげな瞼がぱちくりと瞬いた。瞳孔が迷うように揺れ、その上にある整った眉がわずかに下がる。
 しばらくして、気まずそうな声がした。

「——あのー。もしかして、俺の顔になにかついてたりする?」
「……っ」

 瑞季はその一声でようやく、男が顔に当惑の色を浮かべていることに気がついた。
 焦点がぶれる。さっと頬から熱が引くのを感じて、あとからじわじわと羞恥心が押し寄せてくるのがわかった。
 いくらなんでも人の顔をまじまじと見るなんて、失礼にもほどがある! まして相手は初対面なのだ。瑞季は、自分がまともに返事ができたのかどうかもわからなかった。ただ皮膚の上を、熱いものと冷たいものが交互に走るような、妙な感覚ばかり残っていて。

「っ、失礼します」

 それらを振り切るように、彼女はさっと頭を下げた。そして男や老人に背を向けると、逃げるようにドンの私室を後にしたのだった。



 ホールに出た途端、心臓の音がどっと耳元で聞こえた。
 ずるずると扉に背を預けながら、彼女は大きく息をする。

 ——言えるはずがなかった。
 寂しげな、ほの暗い水底を思わせる青碧に、つい見とれてしまったからなんて。




 ひい、ふう、みい——。
 手の中でコインの山を数え終え、瑞季はため息をついた。

 生まれつき目や髪の色が異なる人に出会ったことは、これまでに何度もある。日本にいた頃でさえ、おしゃれで瞳の色を変えるなんて、珍しくもなんともないことだったはずだ。

 なのに、あのときは胸を掴まれたみたいだった。
 瑞季は、どうしてあんな風に足を止めてしまったのか、自分でもよくわからなかった。硬質な碧い瞳を目に入れたその瞬間、身体がピンで打ち止められたように動けなくなってしまって。

(あのひと、驚いてたな……)

 ——収まったはずの羞恥心がぶり返してきそうになって、瑞季は革袋の口をきゅっと縛った。さいわい、それで心はだいぶ落ち着いた。
 いや、きっと少しびっくりしただけだ。あんな色を見たのは、生まれて初めてだったから。


「おい。さっきから赤くなったり青くなったり。熱でもあるんじゃないだろうな」

 考えに耽っていた瑞季は、その声でぱっと周囲に音が戻ってくるのを感じた。
 ざわざわとした人の声。続いてやってきたのは、食欲がそそられる美味しそうな香り——
 ハリーの馴染みの酒場は、昼間にもかかわらず多くの人で賑わっていた。
 瑞季が顔を上げると、木目が目立つマホガニーのテーブルの向かいで、少年が心配そうにこちらを見ていた。
 さすがに様子がおかしいと思ったらしい。ハリーが身を乗りだして、子どもながらの肉づきのいい手の甲を瑞季の額に伸ばそうとするので、慌てた瑞季は、平静を装いながら「なんでもないよ」と笑って誤魔化した。

「だったらいいけど……」

 少年は頬杖をつくと、じとっとした目で瑞季を見た。

「——で? オレがいない間、じいさんと何話してたんだよ」
「たいしたことは言ってないよ。せっかく助けてくれたのに挨拶が遅くなったことを謝って、ついでに申し訳ないんだけど今お金がまったくないので貸してくださいお願いします! って言って、ペコペコ頭下げただけ」
「そんなんで本当に貸してくれたのか?」

 彼女は肩を竦めた。

「まあ、実際はもう少し真面目な感じだったかもね」

 ハリーは椅子の下にある見慣れぬ麻袋を指した。

「さっきから気になってたんだけど、それは? 朝はなかったよな」

 瑞季は少し考えてから悪戯っぽく笑うと、口紐を掴みテーブル脇から少年に向かって、それを放り投げた。

「ああ、これね。見る? ——着替えとか入ってるけど」

 珍しげに紐に手をかけようとしていた少年は、その一言でバスケットボールのパス回しをするみたいに、慌てて瑞季に麻袋を突き返した。

「おまえ、なんてものを寄こすんだよ!」
「ははっ。まさか本当に見るとは思ってないよ」

 ハリーなら、きっといいプレイヤーになるだろう。その俊敏さに、瑞季は思わずくつくつと笑った。少年の反応がいいので、ついからかいたくなってしまう。足元に麻袋を戻しながら、彼女は「ごめんごめん」と軽く謝った。
 すると、ハリーのまん丸な目が、まるで月が半分に欠けたみたいに細められた。

「つーかおまえもよ、オレも行くって言ったんだから、もう少し話を伸ばすとかできなかったのかよ」

 少年が、まるで恨み言を漏らすかのように言った。
 早々と面会の場を飛び出し、ユニオンの外で待っていた瑞季に、どうして自分が行くまで待っていてくれなかったのか、とハリーは不満げだった。

「無理言わないでよ。こっちはただでさえまどろっこしいことはやめろって睨まれてるんだから。それに、ハリーはハリーでやることがあったんでしょう?」
「そうだけど。急いで片付けてから行ったのに、じいさんのとこにおまえはいねえし。一人で何とかしちまうなら、オレがいる意味がねえだろ」

 少年の反応は怒っているというよりも、まるで拗ねているかのようだった。瑞季は穏やかに言った。

「意味ないなんてことはないよ。きみがいなかったらあそこに入ることもできなかった。違う?」
「それは、そうかもしれねえけどさ。……あーもうっ。だいたい、じいさんはなんなんだよ! 肝心なときにかぎって子ども扱いしやがって。振り回されるこっちの身にもなれってんだ!」
「そういうのは、私じゃなくて直接本人に言ったほうが」
「言ってもちっとも直らねぇからこうして文句言ってんの!」
「はーい。お待たせしました——」

 ちょうどそのとき、テーブルに一人分の料理が運ばれてきた。
 尖った耳と、耳の裏に羽毛のような飾りをつけたウェイトレスの女性——あの耳は本物なのだろうか——にお礼を言って、瑞季は小さく少年に尋ねる。

「ねえ、本当に今日は奢りでいいの?」
「まあ、退院祝いみたいなもんだからな」

 すっかり不貞腐れた様子のハリーだったが、そう言う間はほんの少しだけ得意げだった。
 瑞季は迷うように視線をずらした。ギルドで給金はきちんと出ているのだろうが、小さな子どもにお金を出してもらうというのは、大人として若干の抵抗が——いや、本人がそう言うのだ。ここはハリーの意思を汲んであげるべきか。

「すぐにオレの分もくるから、熱いうちに食っちまえって」
「じゃあ……お言葉に甘えて」

 瑞季は、そのうちなにかご馳走しようと考えながら、湯気の立つボウルを前にそっと両手を合わせて「いただきます」と呟いた。少年が不思議そうな目で瑞季の仕草を眺めていることに、彼女は気づかなかった。

「おいしい……」

 ハリーが、ここはなにを食べても美味いと言っていたが、それは本当かもしれない。スプーンを止め、瑞季は小さく目を見開いた。

 正直、味に期待はしていなかった。初めてメニュー表を開いたとき、そこには戸惑いしかなかったからだ。「ひやピリ中華」、「オタオタ団子」、「ブウサギステーキ」——知っている料理名がひとつもなかったのである。
 ハリーに読み方を聞き、その中でもある程度イメージできそうなものを選んだわけだが——とはいえ、ここは異世界だ。この際、多少口に合わなくても仕方ないことだと考えていた。

 熱々に煮込まれた豆腐はスプーンをいれるとほろりと崩れ、一口食べると痺れる旨みが舌を刺激する。また、トロトロのルウにもたくさんのスパイスが使われているが、不思議とそれぞれの個性が喧嘩していない。——瑞季は思わず驚いた。「麻婆豆腐」と「カレー」。まさか相反するこの二つを一緒にしようとは——。

「蹄パスタセットと、うまうまティーでよかったかしら。ごゆっくりどうぞ」
「このとおり席がいっぱいなの。相席でもいい?」

 聞いたこともない料理の名に顔を上げた。視線の先では、女性たちが忙しそうに注文をとったり、両手いっぱいに見知らぬ料理を運んでいるのが見える。
 そして向かいでは、ハリーがなんだか面白くなさそうに自分の皿をつついていた。その箸がたいして進んでいないことから、「昼食にはまだ少し早かったかな」と彼女は心の中で苦笑を浮かべる。

 朝、心配であまり食が進まなかった瑞季は、ドンとの面会を終えた頃になってすっかりお腹が鳴ってしまい、見かねた少年が作戦会議と称して、この酒場へ案内してくれたのだ。本人は文句を言ってはいたけれど——

(ちゃんと付き合ってはくれるんだよね)

 少年のその様子が無性にいじらしく思えて、彼女は思わず口角を上げた。

「でもよかったじゃん。認めてもらえたんでしょう?」
「それは……うん」

『しっかり案内してやれって、じいさんに言われた』。ユニオンから出てきた少年が、耳を赤くしながら、ぼそっとそう言ったことを、瑞季はよく覚えている。
 ごにょごにょと、まんざらでもなさそうに口ごもる少年の頬は、意思とは反対に勝手に緩もうとするらしく、彼は誤魔化すように咳ばらいをした。

「それで? 結局、金はいくら入ってたんだ?」

 思い出したようにハリーが尋ねた。瑞季は少年に、革袋の中に入っていた金貨の枚数をざっくりと伝えた。注文を待つ間、彼に金勘定の方法を教わっていたのだ。
 ハリーは手のひらを広げて指を折り、しばらく視線を泳がせてから口を開いた。

「ちょうど二週間分の宿代ってところか。食いものとか考えるともうちょっと少ないだろうけど。結構余っててよかったな。日が暮れねぇうちに安いところを探して、服とか荷物とか必要なもんも揃えちまおうぜ。これ食ったらまずは宿から——」

 ハリーはそこまで言って、ふと考え込むように黙り——それから小さく笑った。

「いや。その前に靴探しだな」




 街の地理に明るいハリーの助けもあって、買い物も宿探しも思いのほか早く終わってしまった。
 というのも、ここでは日本のように煩雑な手続きや審査は必要なかった。街は人の出入りが激しく、素性や出身などはあってないようなものだという。
 また、大通りなどの利便性のいい場所は総じて相場が高く、そういった場所を除いて探せば、比較的安価な宿はすぐに見つかった。ユニオンを外れ、一段上の区画——住宅街の一角に、瑞季の宿が決まった。

「こっちよ。綺麗にしてはいるけど、気になったら掃除は自分でしてちょうだいね」
「はい」
「部屋にあるものは適当に使ってもらっていいから」

 宿屋の店主は三十代くらいの女性だった。燃えるような赤毛で、顔にそばかすがある。部屋までの案内の途中、彼女は振り返ると、気遣うように瑞季を見た。

「重そうね。持とうか?」
「大丈夫です。いっぱい入れすぎちゃって、バランスを崩したら破れてしまいそうなので」

 瑞季はそう言って紙袋を抱え直した。必要なものをまとめて買い込んでしまったので、両手で抱えてもなおずっしりと重い。ハリーが途中まで手伝ってくれていたが、彼は瑞季の宿が決まると、明朝また迎えに来ると約束して別れていた。
 店主は瑞季の返事にからからと笑った。さっぱりした印象のひとだ。彼女は、先代から受け継いだ宿屋を、女手一人で切り盛りしているらしい。世間話をしながら建物の案内をしてもらっていると、ふいに上階の窓が開いた。

「かあさん! そのひと誰―?」

 活発そうな声が聞こえて見上げると、小さな頭が二つ見えた。店主とそっくりな、燃えるような赤毛と、もうひとつは色素の薄い栗毛。ハリーよりもずっと小さい子どもが二人、窓枠から身を乗りだしてこちらを見ていた。

「新しいお客さんよ。ミズキっていうのー」

 店主が口に手を添えてそう言うので、瑞季は彼らに愛想良く微笑んだ。
 すると、子どもたちは顔を見合わせた。瑞季の耳に、二人分の声が聞こえてくる。

「なあ、あれはどう思う?」
「うーん。見た感じ武器は持ってないし。ちがうんじゃない?」
「なーんだ。ちぇっ、つまんねえの」

 内緒話にしてはずいぶん大きな声だ。見かねて店主の雷が落ちた。

「こら二人とも! ちゃんと挨拶しなさい!」

 なんとも微笑ましい光景で、瑞季は小さく笑った。

「お子さんですか?」
「そうよ。二人とも男の子。うるさくてごめんなさいね」

 店主は肩を竦めて苦笑を浮かべると、瑞季に「こっちよ」と言って先導を続けた。
 視線を感じた気がして、瑞季はちらと窓の方を見る。栗毛の子どもが、まだじっとこちらを見下ろしていた。少年に向かって小さく手を振ると、彼女は「よいしょ」と言って紙袋を抱え直し、店主を追いかけるのだった。

 宿屋の建物は周囲の家々と隣接しており、日の届かない地上部はどこか薄暗かった。
 なんだか、うまい具合に積み上がっているという感じだ。
 木と石、漆喰が組み合わさった建物には統一感がなく、何度も増改築を繰り返したような跡がある。デコボコとした建物に外階段がにょきっと生えているのが、下からも見えた。

「先代がね、昔っから大工仕事が好きで。気がついたらこんなになってたのよ」

 後ろ手に振り返りながら、店主は笑った。

「珍しいことじゃないよ。ここは狭いから」

 結界の中に街を作った関係で、どこも似たような光景なのだと彼女は言う。
 場所が変われば違法建築だな、と内心で思いながら、瑞季はおそるおそる階段をのぼり、いくつも並んだ扉のうちの一室へと案内された。


 ぎいと音を立てながら扉を開けると、はじめに飴色の床が目に入った。
 年季の入った一人分の簡素なベッド。読書にちょうどよさそうな高さの机と、空っぽの戸棚。簡単な流しのそばに、一口コンロのようなものがあって、その上に小さなフライパンが乗っている。

「うん。十分そう」

 瑞季は満足げに頷いた。
 彼女は肘にかけていた麻袋を玄関のそばに放って、机の上に紙袋をどさりと降ろした。
 西日が差し込む小さな窓からは、見渡すかぎりの住宅街と、ユニオン本部の建物の一部が小さく見える。
 机の引き出しの一段目に鍵がついていたので、瑞季はそこに財布代わりの革袋をしまった。
 宿といっても、実態はウィークリーマンションのようなものだ。前金としてまとめて数日分の宿代を先払いしなければならなかった。
 革袋の中身はごっそりと減ってしまったが、家具は備え付けが一般的で、買い物といっても、ほとんどが消耗品と服飾品を買い集めるだけでよかった。

 借宿の壁に、皺にならないよう買ったばかりの中古のワンピースをかける。
 ハリーは成長期のために、服を買い替えることが多いらしく、よく世話になっているという古着店で、瑞季も適当な服を買った。
 靴底が厚く、長く歩いても疲れを感じさせない編み上げブーツ。少年が着ているものとそっくりな形をした、袖口にゆとりのある生成りのインナーシャツ。
 そのなかでも、栗皮色のコルセットワンピースは、つい気になって手にとったものだ。
 着物によく似た衿と、ドイツの民族衣装を掛け合わせたような、和風とも洋風ともとれない雰囲気の服だった。胸元に鮮やかなクチナシ色の刺繍が入っていて、同じ色の生地が衿やAラインのスカートの内側にも使われている。
 シンプルながらも工夫を凝らしたデザインが、瑞季の好みによく合っていた。

 日が徐々に傾きはじめ、窓の外が夕闇色に変化していく様子が見える。
 明日から忙しくなる。ひどく靄のかかりはじめた頭で、瑞季はぼんやりと考えた。
 お風呂を軽く洗って、せっかくだからゆっくり浸かりたかった。灯りのつけ方も聞かなければ——色々とやらなければならないことが頭には浮かんだが、身体の表面に重たい膜でも張っているかのようで、どれも実行には移せそうになかった。

 静かな場所だった。上階からかすかな物音はすれど、隣室に人の気配はない。
 少しだけ休もう——。ベッドに背中を預けると、わずかにスプリングの軋む音がした。
 そこからは、もうほとんど記憶がない。

(2025.12.23)

[♥拍手]

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