16

 足を踏み入れた細長い造りの室内には、ホールと同じくあちこちに五大ギルドのマークが見られ、正面の飾り窓を覆い隠すようにユニオンの大きな印の入った赤い垂れ幕が掲げられていた。
「首領の部屋」というからにはなんとなく円卓のある会議室のようなものを瑞季は想像していたが、実際に招かれた部屋は天井がそれほど高くなく、大きな長椅子が一脚あるきりで中は思ったよりもがらんとしている。足元に腰を下ろすための敷物がいくつか並べられてはいるが老人以外に人の気配はなく、まるで玉座を前にしているかのような粛然とした空気だけがそこにはあった。

 ドンは大きな巨体をきびきびと動かしながら瑞季を部屋へ招きいれると、くるりと振り返って当然のようについて来ようとしていた少年を見すがめた。

「おめえはだめだ」
「は!? な、なんで!」

 ハリーが素っ頓狂な声をあげた。
 すると、瑞季は目を丸くした。なんと老人は、少年がなにかを言う前にまるで子猫の首を銜える親猫のように彼の首根っこを引っ掴み、有無を言わせず部屋の外へ「ぽいっ」とつまみ出してしまったのである。

「ちょっ、じいちゃん!」

 しなやかに身体を捻り、ハリーはまるで本物の猫みたいに四本の手足で着地をした。けれど、少年は自分の身に起きたことよりも、ドンが自分を追いだそうとしたことに対して開いた口が塞がらない様子だった。
 老人がたしなめるように言った。

「まずはてめぇのことをやってからだ。そういう約束≠セったろう? 午後の訪問客分の書簡を探し出して持ってこい。来たやつ全部だ。いいな?」
「あのなか≠ゥら全部!? どれだけあると思って——」

 慌てる少年の反論も空しく、ばたんと扉の閉まる大きな音が鳴り響いた。

「…………」

 扉の向こうで、少年がどんな顔をしているかなんとなく想像がつく。そしておそらく、自分もまた同じように鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているのだろう。
 ——瑞季は、ドンとあっという間に二人きりになってしまった。
 唐突に訪れた沈黙に気まずさを感じながら、瑞季がなにか気の利いた言葉を探していると、彼女が口を開くよりも前にしわがれた低音が耳に届いた。

「悪く思わんでやってくれ。あんななりをしてるわりに心配性でな。ここ最近、このあたりにネズミが潜り込んだせいもあってか、ちょっとばかり気が立ってやがる」

 瑞季はきょとんとして、すぐにドンがあの見張りの男のことを言っているのだと気がついた。

「ネズミ、ですか」

『もし誰かが急に暴れだしても、じいさんがあっと言う間にすり潰しちまうんだよ……』

 その口ぶりからしてただのネズミではなさそうだったが、瑞季はあまり深く考えないようにした。これだけ大きな組織の頭領ともなれば、平和ボケした一般人には想像もできないほどの気苦労があるはずだ。そして少年のあの発言から察するに、相手がドンともなれば、それらをすべて力業で解決してしまったとしてもなんら不思議ではないような気もした。
 本当に大きなひとだ。彼女は老人を見上げながらそう思った。背の高さはそこまでではないが、なんというか分厚い。古木のように太く、それでいて若木さながらの生命力をも感じさせる老人の身体は、拳ひとつとっても家庭用のフライパンほどはあるように見え、あれで殴られればひとたまりもないだろうなと瑞季は頭の隅でのん気に思った。

「孫が世話になってるらしいな」

 瑞季は気まずげに頬を掻いた。

「あー……いえ。世話になっているというか、世話をしてもらっているといいますか」

 彼は鼻で笑った。

「そうかい」

 さいわい老人自身が招き入れてくれたことによって、マルコが予想していたように自分が決して見限られたわけではないことはわかる。けれど、その迫力のある相貌は感情が読みとりにくく、機嫌が良いのか悪いのかまったくわからないせいもあって、彼女の心臓は相変わらず早鐘を打っていた。瑞季は落ち着かない指先をきゅっと握ると、縮こまった背筋を伸ばす。

「本日はお忙しいなか、お時間をいただきありがとうございます。また、本来であればすぐにおうかがいすべきところを、私事で再三お待たせしてしまい大変申し訳なく——」
「あのな」

 老人が正面の長椅子——その巨躯が乗ると、カウチほどの大きな長椅子もすっかり華奢に見える——に腰かけたのを見計らって瑞季がそう切り出すと、ドンは面白くもなさそうに鼻を鳴らし、片膝に頬杖をついて彼女の話しを遮った。

「おめえさんどこぞの令嬢か騎士サマじゃあるめえに、いつまでそのかたっくるしいのを続ける気だ? ここには俺とおめえさんしかいねえんだ。御託はいいからさっさと要件を言いな。悪いがあとがつかえてるんでな」
「あ……はい。すみません」

 にべもない。気に食わなさそうにぴしゃりと𠮟りつけられ、すぐさま謝罪の言葉が、圧をかけられた音の鳴るボールみたいに瑞季の口から飛び出していった。
 相手が相手なだけに、できるだけ丁寧に謝罪をすべきだろうと彼女は考えていたが、反対にドンはそれを回りくどいと感じたようだ。たしかに大首領を相手にしているわりにみな老人に対して荒っぽい——いや、実直だなと感じてはいたが、彼は本当にそのあたりの建前や礼節にまったく頓着をしていないらしい。
 簡潔に。瑞季は気を取り直すと、少しだけ肩の力を抜き、身の丈に合わないぶかぶかなワンピースのポケットの中からずっしりとした革袋を取り出した。老人は片眉を上げた。

「金か」
「はい。こちらはマルコ先生からお預かりした治療費の残りです。いっせ……ああ、いえ。一ガルド≠燻gっていません。先生には残った分は任せる、と言付けを預かってきています」

 ドンは呆れたように呟いた。

「……マルコの野郎。釣りはいらねえって言ったんだがな。それで?」

 瑞季は俯きがちになると、思いきってひと息に言った。

「その……正直な話、あの森で目を覚ましたときにはすでに無一文で、私にはこれまでの治療費をすぐに返せる持ち合わせがありません。それで——単刀直入に申し上げますが、残ったこちらのお金も含めて、返済を今しばらく待っていただけないかと今日はお願いをしにまいりました」
「なるほどな」

 ドンは、彼女の言葉に得心がいったように白い顎髭を撫でた。

「おめえさん、たしか森より前の記憶がないんだったな」

 疑うでもなく、責めるでもない。まるで外の天気は何だったか問うような軽い調子だった。
 にもかかわらず、瑞季は咄嗟に「はい」とも「いいえ」とも答えることができなかった。一言でも口を開けば、すべてを洗いざらい白状してしまいそうだったからだ。
 ドンの目は少年のそれとは違い、酸いも甘いも噛み分けてきた老年のものだと彼女は感じていた。そしてその視線には、外のギルド員たちが話していたように嘘を嘘と見抜く力がある。彼らの言い分はおそらく事実だろうと思った。ドンを目の前にしているとくだらない誤魔化しや言い訳の類を用いることはまったくの無駄であるような、そんな心持ちにさせられる。

「……すみません」

 分厚く垂れ下がった瞼がわずかに細められる。

「それは何に対しての謝罪だ?」
「それは……」

 答えに窮し沈黙を選んだ瑞季を見て、さして気にした様子もなく老人が鼻を鳴らした。

「ふん。答えられねえんならはじめっからそう言いな。それより、わざわざ挨拶に来るなんざ殊勝なこった。図々しいやつなんか、返しに来ねえと思って問い詰めたら、もうねえとか抜かしやがったりするからな。いつ退院したって?」

 どうやら見逃してもらえたようだ。内心でほっとしながらドンの問いに「今日」だと瑞季が返せば、彼は意外そうな顔をした。

「なんだ。出てきたばっかりじゃねえか」

 彼女は脳裏に浮かんだハリーの呆れ顔を思い出して少しだけ表情を緩め、苦く笑った。

「お孫さんにも言われました。そんなに急いで挨拶に行かなくてもいいのに、と。正直に言えば、今おっしゃった方と同じように黙って借りたままでいる選択肢がまったくなかったとは言えません」

 たしかにまとまった額が手に入ったときに返しにくるほうが、ドンに対して口だけではないと証明できたかもしれない。瑞季は考えを整理しながら、彼の機嫌を損ねてしまわぬよう慎重に言葉を選んだ。

「ただ最終的には、このお金も元を辿ればドンにお借りしたお金ですし、私が勝手に手をつけるわけにはいかないという考えに至りました。すでに不義理を働いた身でこんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、物事には順序というものがある。あなたに借りたお金をどうにかしたいなら、まずあなたにおうかがいを立てなければならない。そう思ったので」

 すると、老人が初めて感心したように眉を上げた。

「話しはわかった。ひとつだけ確かめておきてえことがある」
「なんでしょうか」
「さっきも言ったが、返ってこねえとわかっている金を貸すほど、俺ぁお人よしじゃねえからな。おめえさんにその金を返す心づもりがちゃんとあるのか、っていう話だ。ほかの連中はどうか知らねえが、少なくとも俺は甘くねえぜ。もし、万が一でもおめえさんが途中で投げ出すようなことがあれば——俺は、これまでの連中みてえに相応の対処≠しなくちゃならねえ」

 子どもに言い含めるような声色だった。仰ぎ見ればドンの感情の読めない目が瑞季を見下ろしている。

「おめえさんにその覚悟はあるのかって聞いてんだ」

 ——静謐とした瞳のその奥に、剣呑な光の片鱗を垣間見る。その鋭さに彼女は思わずごくりとつばを飲み込んだ。
 彼は測っているような気がした。自分がどう出るのかを。ピリピリとした緊張感に肌が粟立つ。まるで蛇に睨まれた蛙のようだと思った。
 彼女はかたい表情でゆっくりと頷いた。

「たしかに私は一度、目の前のことから逃げました。簡単に信用していただけるとは思ってはいません。ですが、これ以上マルコ先生たちに迷惑をかけたくないというのも本心です。少しずつになってしまうかもしれませんが、必ずお返しするとお約束します。どうか、ご一考いただけないでしょうか」

 口の端がわななく。浅くなった呼吸を整えるために肺を膨らませると、背筋が小刻みに揺れた。それでも、瑞季はここへ来たことを後悔していなかった。あれだけ世話をかけたのだ。もうこれ以上、マルコたちを頼るようなことだけはしたくなかった。自分の力でどうにかするべきだと思った。

「もし私がもう一度逃げ出したそのときは、煮るなり焼くなりお好きにどうぞ。ただそんな日はおそらくこないと思います。この街で生きると決めた以上、私にとってあなたを敵に回すことほど恐ろしいことはありませんから」

 しばらく二人は見つめ合っていた。いや、睨みあっていたという方が正しいかもしれない。革袋を持つ瑞季の手はぶるぶると震えている。けれど、彼女はそれでも老人から視線を外すことはしなかった。ここで目をそらせば彼に信用してもらうことは二度とできないような気がしたのだ。

 すると、ふいに空気が和らいだ。ドンはふっとため息を吐き、すっくと立ち上がってその大きな椅子の裏をごそごそと漁ると、彼女に向けてぽーんとなにかを投げてよこした。

「一応、返しておいたほうがいいだろうからな」

 なにかがどさりと音をたてて足元に転がってきた。瑞季の目にはそれが麻かなにかでできた布袋のように見えた。戻ってきた老人に促され手にとり、口紐を緩めてそのざらりと粗い手触りをした袋の口を開けると、つんと嗅ぎなれない匂いが鼻を刺した。

 ——きゅっと喉の奥が鳴る。

 中には見覚えのあるコートといくつかの布切れが収まっていた。血と泥で塗りたくられた紺地のコート。捨てられていたとばかり思っていたのに。
 その表面は、意識が曖昧な状態で見たときよりもずっとぼろぼろで、自分があの森の中でどんな目に遭ったかを彼女に思い出させた。——そして「その前」に、なにが起きたのかも。瑞季はせり上がってきたなにかに思わず口元を押さえた。
 ドンは見たのだろうか。この世界に存在するはずのない文字が書かれた小さなタグを。自身がこの街の人々の装いを見慣れないと思ったように、彼もまた奇妙だと思ったりしたのだろうか。

 しかし、老人は「なにも」聞かなかった。

「ミズキっていったか」

 震える声で返事をする。

「……はい」

 瑞季はコートだったものを袋の中へ戻し、気まずげに老人のほうを見た。

「ビビるんじゃねえよ。女をいたぶる趣味はねえんだ」

 ドンは少し困ったように表情を和らげ、青ざめた顔をする瑞季を見下ろしていた。彼はその大きな肩を竦める。

「孫の手前ああは言ったがな、俺ぁはじめっからべつに怒っちゃいねえんだ。まあ、さすがにいつまでもあのままなめた真似をしてるようなら、娘っこだろうがかまわずはっ倒してこの街から丸めて追い出してたけどよ」

 瑞季は思わずひくり、と頬を痙攣させる。
 それを見てドンはにやりと口角を歪めた。ぎらついた視線と合う。

「まだまだ半ちくだが、ちったぁマシになったみてえだからな。いいぜ、その覚悟は買ってやる。金は好きに使いな。あとから耳を揃えて返してもらえりゃあ、俺ぁ使い道にどうこう文句をつけるつもりはねえよ。なにかと女は入用だろう?」

 その言葉に瑞季は眉根をわずかに上げた。問いただされると思って構えていただけに、彼女は拍子抜けだった。

「……聞かないんですか?」

 ドンは訝しげに、まるで変なものを見たような目で彼女を目に収める。

「聞いて欲しいのか? ええ?」
「そういうわけでは、ないですけど……」

 彼は戸惑ったように麻袋を掻き抱く瑞季に目を細めると、彼女の言葉に機嫌を損ねたように眉尻を吊り上げた。

「だったら聞くんじゃねえよ。ばか野郎」
「す、すみません」
「それ≠熏。すぐにやめな。本気で悪いと思ってもいねえのに簡単に謝りやがって。俺はおべっかとクソみてえな建前が大嫌いなんだ。この俺がいいって言ってんだ。ごちゃごちゃ言うんじゃねえ!」
「……ハイ」
「ったく、どいつもこいつもこの世の終わりみてえな顔をしやがって……」

 ドンはぷりぷりと怒りながら、みるみる小さくなっていく彼女の背に手を伸ばした。「ぶんっ」と周囲の空気が揺れ、並の成人男性よりもずっと大きな手のひらで彼女の薄い背中を張った。

「いっ——!」

(女をいたぶる趣味はないんじゃなかったのか!)

 勢いよく前へつんのめりながら、彼女は小さく振り返った。

「——いいか。俺はおめえさんがどこから来たかなんて知らねえし、なにが起きたかについても無理に聞き出すつもりはねえ。てめぇの人生だ、好きにしやがれ。ただな、この街にいる以上はこの街の流儀に従ってもらう。くどくどと余計なことを考える前に手と足を動かせ。顔を上げろ。そうすりゃあ、少しはマシなもんが見えてくるはずだ」

 ジンジンとする背中に熱が伝わってくる。

「下を向いてる暇なんかねえぜ。なんたって、これから覚えることが山ほどあるんだからな。——仕事が見つからなかったらそんときはまた俺のところに来い。孫の手も借りなきゃならねえほど、こっちは忙しいんだ」

 ドンが元気づけようとしてそうしたのだと気づいたのは、彼が瑞季の顔を覗き込んだからだ。彼女は瞼を大きく開く。歯をわずかに見せて力強く笑う老人に——なぜだか少年の面影が重なって見えたような気がした。

「ちゃんと地に足つけて、しゃんと生きろ。わかったな!」

 そうして、ぼんやりとした暗闇の先へ煌々とした灯りを照らすように、老人は彼女を赦してしまったのだった。

(2025.06.12)

[♥拍手]

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