湿気のある空気が、走り回って汗ばんだ肌に張りついている。
 視界の端ではハリーが急にあたりをうろうろとしだしてなにかを探しているようだった。ここへ来る前に彼は声がどうのと言いかけていたが、今やその目には確信めいたものが映っており、つられてレイヴンも周囲を見回した。
 広い森をあらかた探したが魔物が暴れていたのはここだけだ。もしかすると他になにかいるのかもしれない。彼は警戒の糸を切らさぬように周囲に気を配った。
 鬱蒼とした草木が視界を塞ぎ、木の根が子を抱くように外周を囲んでいる。茂みの奥のほうからは、鳥類の鳴く太い声。おそらく下等の魔物だろう。魔物よけの香があれば寄ってはこないはずだ。
 苔に覆われた地面はぬかるんでおり、踏みしめるとぬるりと滑って雨をたっぷり含んだ濃い色の泥が露出する。
 ——レイヴンは地面を注視した。よく見ると自分たちのものとは違う足跡があるではないか。まだ新しく、少年のものとそう大きく変わらない。

(子ども、いや女か——)

「おい! 大丈夫か!?」

 弾かれたようにハリーの声がした方向に視線を向けると、生い茂る草の陰になるように何者かが倒れているのが見えた。背中が小刻みに動いている。どうやらまだ生きてはいるらしい。投げ出された細い腕、髪の長さや体格からみてやはり女のようだ。
 意識はないようで少年の呼びかけにも答えない。レイヴンは、女の背後に大樹の根が壁のごとくそびえたっていることに気づいた。彼は、女が先ほどの魔物に襲われ、その際にもしかすると頭を強く打ちつけた可能性がある、と瞬時に状況を判断した。

「ハリー! 頭は動かすなよ」

 レイヴンは駆け寄ろうとした少年に釘を刺した。

「わ、わかった」

 男の言葉に少年ははっとして向き直ると、まだ発達途上の細腕でこわごわと女の背に腕を回し、頭を支えながら楽な体制にしてやっていた。細く白い首が剥き出しになり玉のような汗が伝っている。少年は縋るような目でレイヴンを振り返った。

「すごく熱い。なあ、どうしたらいい?」

 よほど心細いのか、最近ではめっきり減った以前のような幼さを垣間見せている。彼は眉尻を下げると少年に対してわずかに態度を和らげた。

「おまえ、何か持ってる? 回復薬とか」
「っ! ライフボトルなら!」

 男は膝を折ると、松明を持たないほうの腕で少年のかわりに彼女の背を支えた。
 触れた場所が布越しにもかかわらず熱をもっているのがわかる。ゆるい癖のある髪の隙間からは真っ赤な頬が覗いていた。

(呼吸が荒いな)

 レイヴンは女を見やりながら目を細めた。
 ハリーは腰に括りつけられていた革製のポーチから震える手でもたもたと液体の入った瓶を取り出すと、女の口元にそっとあてがった。薄く開いた口内に水色の薬液が伝い、飲み込みやすいように鼻を押さえる。やがて、ごくりと女の喉元が動くのが見えた。

「飲んだ!」
「これで、とりあえずは大丈夫でしょ」

 レイヴンがそう言うと、少年が安堵に肩を撫で下ろした。
 彼も息を吐くと、横目で女を頭からつま先まで見やった。そも、どうしてこんなところにいたのか。つまるところ疑問はそれに尽きた。
 〈魔狩りの剣〉じゃああるまいし、魔物がいるこの森に身ひとつで乗り込む人間はそもそもいないだろう。まして今は騒ぎの真っただ中だ。見たところ女はそんな物好きにはとても見えなかった。武器や防具を装備している様子もないし、周囲を見渡すが、どこかに落ちているわけでもなかったのだ。
 彼は女の熱を孕んだ頬に指を滑らせる。付着したものを確かめるために指先を合わせるとぬるりと滑る。鼻に近づけるとわずかに鉄臭かった。水分を含んだ泥と血液のようなものが混ざりあっているようだ。
 上腕や頬など肌が露出している部分には擦過傷があり、こちらはまだ新しい。泥のついた紺地の薄手の上着はここらでは見ない型の装いのように思えた。

(どこかから逃げてきた?)

 では、どこから? ふとわいた疑問に、なにか情報はないかとつい癖が出る。
 なあ、とそんななか少年が男の肩を揺すった。ハリーはひどく青ざめた顔をして女を凝視している。

「なんか、様子がおかしくないか?」
「は?」
「おい。大丈夫かよ、おい!」

 レイヴンはぽかんと口を開けた。少年の言ったとおりだった。抱き上げた身体はいつまでたってもずしりと重たいままで、ピクリとも動いていなかった
 ハリーは女の身体を揺すりたいのをこらえるようにぐっと拳を握ると、泥の地面に手をつき身を乗り出して徐々に声を大きくしていく。だが、女に反応はなかった。それどころかレイヴンの目には事態が急激に悪化したようにも見えた。
 ただでさえ荒かった呼吸がさらに荒くなったような気がした。下顎を喘ぐようにパクパクと動かし、赤みの差した頬はみるみるうちに土気色へと変化していく。
 おかしい。先ほど飲ませた薬は、たしかに見慣れた水色だったはず。衰弱にでもなっているのだろうか? 少年の顔は引き攣るというよりは、すっかり凍りついてしまっていた。

(何が起きている?)

 背筋にぞっと何かが走った。



 ——そのとき、がさりと草むらをかき分ける音がして二人は勢いよく振り向いた。少年を庇うように腕を広げ、女の身体を胸に引き寄せる。
 こんなときにまた魔物が出てくるのは勘弁してくれよ、とレイヴンは頭を抱えかけたが、続いて聞こえてくる足音に聞きなれた金属音を感じとると彼は少しだけ警戒を緩めた。

「なんだ。どうした?」

 奥から聞こえてきたしゃがれ声。大きな影がのそりと姿を現した。
 少年の顔色が少し良くなる。レイヴンが背伸びをしても届かないほどの巨体を揺らし、肩で風を切って歩く様はさながら大型の魔物のようだ。——そこらの魔物よりもよっぽど狂暴であることを知っているわけだが——奥には武装する見慣れた屈強な男たちの姿も見える。
 思わぬ助っ人の登場にハリーが反射的に立ち上がった。

「じいちゃん! みんな!」
「こら。仕事の間はじいちゃんって呼ぶなっていつも言ってるだろう」
「ご、ごめん! って、違う。今はそんなこと言ってる場合じゃないんだった! じいちゃん、こいつなんだか様子がおかしいんだ。どうしたらいい!?」
「あんだぁ?」

 赤い入れ墨が刻まれた、山のように逞しい体躯をした白髪の老人。大首領(ドン)ホワイトホースは、女の尋常でない様子を一瞥すると脇で小さくなっている少年とレイヴンに向かって片眉を吊り上げて見せた。

「なにがあった」

 その声は地を這うように低い。飛んできた鋭い視線に二人は亀の頭のように首を竦める。本人は怒っているつもりは毛頭ないのだろうが、魔物との戦闘で気が立っているのか、ふいに発されたその圧し潰されてしまいそうな威圧感にレイヴンは額にうっすらと汗をにじませた。

「お、オレはな、なんにもしてない! ただ、薬を飲ませただけで……っ!」
「薬を飲ませただけじゃあこんなことにはならんだろうよ。きちんと順序だてて話してみろ」

 隣のくすんだ金髪がうっと言葉を詰まらせた。ドンは少年のおろおろとする様子にため息を吐くと、困ったように眉を下げた。

「こ、声がしたと思って行ったら、魔物がいて。そ、それはちゃんと倒したんだけど! 薬を飲ませてこれで一安心って思ってたら今度はこいつがなんか変な感じになっちまったんだ。こいつ、怪我してるし、熱もあって! で、でもオレはちゃんと——」
「あのねえ、じいさん。気が立ってるのはけっこうなことだけど、そうどやしつけたらガキんちょが縮み上がっちまうでしょうが。……まあ、つまるところこういうことでさ——」

 涙目になりしどろもどろで脈絡のない話をはじめたハリーを諫めて、これでは話が進まないとレイヴンはため息を吐くと、山のような男に手短にことの次第を伝えることにした。
 彼女が魔物に襲われていたこと。状況的に頭を打っている可能性があること。少年の潔白のため、飲ませたのはたしかにライフボトルだったということもつけ足しておく。
 ドンはレイヴンの話をひとしきり黙って聞き彼の目の前まで来ると、しゃがみこんで女をじっと睨んだ。
 その頭の中になんの考えがあるかはさっぱり見当もつかなかったが、その奇妙なものを見る目に一瞬なにか別のものが浮かんだのを下から彼を注視していたレイヴンは見逃さなかった。

「仕方ねえな。おめえら、こいつも連れてさっさと帰るぞ」

 ドンは立ち上がって早急に街へ戻るようみなに指示を出した。屈強な男たちの腕が女の身体を軽々と抱き上げるのを見やりながら、レイヴンは髭のまばらに生えた顎をざらりと撫でた。あの目——。

「やっぱり頭を打っていたんだろうな。ひどい熱だ。こりゃあ一雨降る前に早いところ帰ったほうがいい」
「そうしよう。……おおい、ハリー! なにしてんだ! やっこさんは魔物に襲われていたんだろう? ちゃんと医者に診せりゃあきっと大丈夫だって」
「で、でも……」
「そうだよなあ。ガキの頃にこんなの見せられたらびびっちまうよな」
「ち、ちが! びびってなんか……!」
「またぴーぴー泣くんじゃねえぞ?」
「泣かねえよっ!」

 ハリーはそう言いながらも、側近の一人の言葉でこらえきれなくなったのかうっすらとべそをかいている。まあ、無理もない。少年にしてはよくやったほうだと彼は思った。

「頭動かすなよ! そうっとだ、そうっと!」
「わかってらぁ!」

 レイヴンはさりげなく彼らの背後につき、奥はどうなっていたのかを問うた。背の高い年若の男が「それがなぁ、なーんにもなかったんだよ」、「とんだ無駄足だったな」と煮え切らない顔で隣の男に同意を求めていた。
 男たちの最後尾を歩くレイヴンの碧い目が、ドンと担ぎ上げられた虫の息の女を交互に映した。彼は、何かを知っているのかもしれない。レイヴンの目がわずかに細められる。確信はなかったが、そんな気がした。



 長い街道を美しい男が歩いていた。黒衣を纏い、奇妙な形をした剣を携えた白銀の髪をたなびかせた男——デュークはふと立ち止まり、意識をはるか後ろにある深い霧に覆われた森の奥へやった。
 彼は数刻前に訪れた、大樹の内からわずかばかり漏れ出る黄昏色の光の心象を思い浮かべる。

 今や、「光」は世界を揺るがすほどのものではない。

 この地を訪れ、ついぞ抜くことのなかった「剣」。腑に落ちぬことであった。見たところ付近に「彼ら」の姿もない。両者の存在なしに、〈エアルクレーネ〉がひとりでに鎮まったとでもいうのだろうか。——そこまで考えたところで、なにやらひっかかりを覚える。
「ひとりでに」? 曖昧な形をしたそのひっかかり。ふと、行きがかりに現れた一人の「人間」の存在を思い出した。魔物の巣喰う森の最奥で武器も持たず、身ひとつで意識を失う女のようなもの。気まぐれに森の手前まで連れだしてみたものの、身に纏うもの以上にそのありかたそのものが異質に思えて、彼は不思議に思っていた。
 とある古ぼけた記憶とをつなぎ合わせてみる。
 なるほど。であるならば「あれ」は——。

「〈迷い子〉か」

 男は得心がいったようにそう口にすると、踵を返して街道の向こうに消えた。



 がたん、と軋んだ音をたてながら開いた扉の奥から、暗い茶色の髪を垂らした男が姿を現した。日の暮れた屋内は暗く、机の上に置かれた魔導器(ブラスティア)の光も心もとない。男の髪からはぽたりと水滴が零れ落ち、薄いシャツに染みを作っている。

(まさか洗ってもとれんとはな)

 袖に鼻を近づけ、未だ鼻をさす異臭にため息を吐いた。
 男は机の引き出しから白紙の紙とペン、奥のほうに隠していたインク瓶を引き寄せ、小さな木製の丸椅子に腰をかけると、その背をなだらかに丸めながらなにやら物を書きはじめた。その頭の中にあるのは、昼間の出来事である。

 ——魔物たちの暴走。そして沈静化。突如現れた死にかけの不気味な女。

 男の目にもあの様子は異常に映った。が、正直なところなんとも言えなかった。あの植物型の魔物は人間を衰弱状態に陥らせる特性があったと記憶している。一時的にはやり病にかかったような状態になりこちらの体力を奪うのだ。だからもしかするともともと弱っていて、ただ最悪なタイミングで悪化の一途を辿っただけかもしれない。
 けれど男はそれについてこれ以上頭の中でどうこうと議論を繰り広げる気はなかった。なんにしても、それを判断するのは自分ではない。一部の人間にしかわからない暗号でことの次第が他人事のようにつらつらと並べたてられていく。これを目に入れた主人の反応によっては「戻った」ばかりだというのに、とんぼ返りをしなければならなかったが、どちらに転ぶかはとくに興味がなかった。
 ふと、男の「デューク」と書きかけた手が止まった。

『おまえは……たしか騎士だったはず』

 あの男の呟きが怯える少年に届いたのではないかと、一瞬ひやりとしたものだ。
 もちろん少年のあの様子では本当に聞こえていなかったのだろうが、万が一聞こえていたときのための言い訳を考えるのに無駄に頭を働かせねばならなかった。

 ああ。もしあのとき、少年の耳に一声でも入っていれば——。今頃自分は半殺しにされ「彼ら」と同じようにあの「三羽の鶏」の下に飾り立てられていただろうか。あるいは、「騎士」としてあの男ごと少年を切り殺し、その口もろともに塞いでしまうこともできたかもしれない。 
 彼は鼻で軽く笑い飛ばした。

『死人が今度は道化にでもなったつもりか』

『貴様はなぜ生きている?』

『……人との関わりを断った身だ。干渉はすまい。だが意志なき者を私は軽蔑する』


 デュークのあの嫌悪に満ちた目。男はわずかに口角を歪ませる。

 ——道化、ねえ。

 小さな窓から、結界魔導器(シルトブラスティア)の規則的な光が差し込んでいる。物の少ない無機質な室内には、がりがりというペンの音だけが響いていた。

(2023.01.27)
最終加筆修正(2025.05.29)

[♥拍手]

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