うべなうくちびる


企画サイト「退廃」様に参加、提出しました

(さらりと触れる程度の四肢欠損描写あり)

 じじじじじじ、と五月蠅いくらいに蝉が鳴いている。その大合唱は山間の村の中にわんわんと響き渡っていた。
 音の洪水を一番に感じ取ったが、その次に感じたのは暑さだった。クーラーの効いた車から降りたとたんに、まとわりつくような熱気がすぐさまぼくの体を這いあがった。すぐに汗が吹き出し、シャツがぺたりと肌に張り付く。呼吸をしても、空気中の暑さが喉を通して体の中へと容赦なく侵入し、ぼくの体温を上げていた。
 とにかく暑いし、蝉は五月蠅い。
 それが、初めて祖父母の家に訪れたぼくの、感想だった。
 小学三年生の夏休み。父の実家があるという、山間の村へと初めて訪れた。
 よく来たね、大きくなったね、西瓜が冷えているから、後で一緒に食べようか、等と祖母が声を掛けてきていたが、あまり関わりのない大人の言葉に委縮したぼくは、母の足に縋りつき離れなかった。
 母に促され、昔ながらの作りをした大きな家の中に入った。由緒正しき日本家屋、といった風情だろうか。
 よく冷えた麦茶を貰い、一杯飲むと、暑さが少し和らいだ。それでも、太陽の照る外へと飛び出す気はおきず、祖父母に一言、探検してくる、と断りを入れてから家の中を見て回ることにした。
 ぎ、ぎ、と廊下を歩くたびに軋んだ板が嫌な音を立てる。障子戸をいくつか開けても、似たような客間が続き、このどれか一部屋に泊まることになるのだろうと予測をしていた。きっと、虫がいっぱい入って来るのだと思うと、少し気分が沈んだ。
 障子に穴をあけてみたらどうなるのだろう、という悪戯心を抑えながら、キッチンやトイレ、風呂場など、あらかた見終えた頃、二階へと上がる階段を見つけた。
 家の片隅。あまり日の入らないようなところにひそりとある階段。急勾配で踏み板が小さく、また、手すりもついていなかった。その階段は壁に挟まれ、やけに圧迫感を感じる。
 ごくり、と唾を飲んだ。
 見上げてみても、日の入らないそこは暗く、先が見えない。ならば電気を、と思ってもスイッチの一つも見当たらない。
 好奇心と恐怖心、それらを天秤にかけ、ぐらぐらゆれる行く先を見守ろうと思ったその瞬間。
「少し早いけれど、晩御飯にしましょうよ!」
 遠くでぼくを呼ぶ母の声がする。
 はっ、と我に返り、今行く! と大声を上げてから階段の前を抜け出した。
 母の呼び声に誘われるまま、夕飯の席につく。太陽は未だ落ちきっておらず明るい。普段家で夕飯を食べる時間よりも大分早い時間だった。いつも通りでない状況に落ち着かず、何度も座布団の上に座りなおす。
 母と祖母が卓袱台に料理を並べ終わると、祖父がいただきますの音頭をとり夕飯が始まった。煮物やみそ汁、鶏のから揚げなどに手を伸ばす。祖母が作ったというそれは、当たり前だが母の味付けとは異なっていて、それがなんとなく気に入らない。
「おばあちゃんの料理、美味しいか?」
「え、う、うん……」
 ずず、とみそ汁を飲みながら、ぼくは父に小さな嘘を吐いた。薄い味付けも、煮物や山菜ばかりの料理も、あまり好きではなかった。
「……あの子もここに居たらねぇ」
「お前、その話はするなと何度も言ってるだろう!」
 だん! と祖父の拳が卓袱台に叩きつけられ、僅かに揺れる。祖母の言う、あの子、とは誰のことだろう。
 和やかだったはずの食卓が、何とも言えない空気に包まれる。
「兄さんのことはもう、終わったことだ」
 父がぼそりと呟き、茶碗を手に取った。それを皮切りに、未だぎこちなさの残るものの食事が再開される。
 重たい空気に耐え切れなかったぼくは、茶碗の残りをかきこみ、ごちそうさま、と言い残してその場を後にした。
 お風呂沸いてるから、入っちゃいなさい、という母に分かった、と返事をし、持って来ていた荷物からパジャマと下着を取り出す。
 風呂場にて、汗の染みた衣服をぱっと脱いで熱い湯に浸かる。風呂が熱いのは平気なのに、何故気温が暑いのは我慢ならないのだろうか、等ということをぼんやりと考えながら、先ほどのことを反芻する。
 あの子、とは、父の兄、つまりは、ぼくの伯父のことだろうか。ぼくは父に兄が居たなどということを一度も聞いたことがない。勿論、会ったこともないし、写真の一つも見たことがない。
 死んでしまったのだろうか。
 タオルでくらげを作りながら、そう思った。おしゃべりな父のことだから、もし生きていたのならぼくがその存在を知らないはずはないのだ。
 そろそろ上がろう。タオルくらげを両手で挟んで潰すと、ぷしっという音を立てて簡単に消えてしまった。

 次の日目を覚ますと、時計はすでに9時を超えていた。
 今日も暑く、外に出る気は起きなかったが、子供は外で元気に遊ぶもんだ、という祖父に麦わら帽子を被せられ、外へと出された。近所の子供が何人かいるから、一緒に遊んできなさい、とも言われた。
 母に強請って虫よけスプレーをかけてもらってから、村の中をぷらぷらと出歩いてみる。
 道沿いにずっと歩くと、田んぼや畑に挟まるようにして家屋が立ち並んでいる。何とはなしに外灯を見上げながら歩いていると、商店が見えた。看板の文字はかすれていて、どういった名前の店なのかは判別がつかなかったが、子供達がたくさん居るので、駄菓子屋か何かだろうと検討をつけた。
「こんにちは」
 と、ぼくが声をかけると、六人ほどいた子供達がいっせいにこちらを見た。じ、と値踏みするような視線に、思わず後ずさりをする。
「お前、誰だよ」
 ゼリーを食べていた、一番大柄な、おそらくはリーダー格であろう少年がぼくを見据えてそういった。
「突き当りのところにある家の……。里帰りしてきて、おじいちゃんが近所の子供たちと遊んできなさい、って」
「ああ、奥のじいさんちのか」
 どうする? と少年が子供達に問いかけた。子供達はお互いに顔を見合わせていたが、唯一の女の子がにやりと笑い、いいじゃない、山の方まで行きましょう、と提案すると皆同意した。
 ついてきな、と先導される。仲良さげに話をしている彼らの後ろに一人で歩くぼくは、なんだかとても寄る辺ない気持ちになった。
「それにしてもお前、なまっちろいな」
「え? そうかな」
 彼らと比べてぼくはあまり日に焼けていないから、そう見えるだけではないだろうか。時折色白だと言われることはあったが、世の中にはぼくよりも色の白いひとが存在するので、自分が特別そうだとは思わない。
 それでも、彼らにとってはそうではないらしい。ヒキコモリ、とか、メガネ野郎、とか、そういう言葉をかけられてしまった。どうせそれを言われるのなら、もっと親しいひとに言われたほうがよっぽどましだと思った。誰が良い、とかそういう具体的なことはまるで思いつかないのだけれど。少なくとも、ぼくにそういう言葉をかけて良いのは彼らではないと、そう感じた。
 彼らの遊び場である小高い山の入り口までたどり着く。草木が分けられ踏み均されたそこは丁度、獣道と遊歩道の境のような体を為していた。彼らは臆することなくそこに踏み入っていく。
 ぼくも後ろに続いたが、今日も五月蠅い蝉の声や、時折耳元をかすめる小さな虫の羽音が気にかかり僅かに顔を顰めた。柔らかな土はぼくの運動靴を包み込み、足を上げるたび、にちゃりと嫌な音が鼓膜を揺さぶった。
 あそこには樹液がある、あっちには大物のカブトムシが出る、と、情報を教えてくれる彼らの指先を忙しなく追いかけると、確かにカブトムシやらクワガタやら、街中ではあまりみかけない虫たちがたくさん生きていた。あれらを一匹でも捕まえられたら、祖父は満足するだろうか。
「虫網貸してやるから、行ってこいよ」
 ぼくの考えを見透かしたように、少年が虫取り網をぼくの手に握らせる。そして、俺らはもっと奥に行ってるからよ、と言い残しあっという間に去ってしまった。
 ぼくは虫取り網を握りしめたまま、しばし思案した。
 カブトムシの居る木はここから少し離れている。似たような景色ばかりが続く森の中で、果たしてきちんとこの道まで戻って来られるだろうか。いやしかし、彼らがここより奥まで遊びにいったというのなら、帰る時にまた、ここまで戻って来るだろう。その時に帰り道を案内してもらえば良いのではないだろうか。
 子供だけで遊びに来られるような山なのだ。危険なことなどありはしないだろうと、僕はカブトムシを採りに行くことにした。
 足元に十分注意しながら、目的の木に近づいていく。カブトムシの木は思っていたよりも大きく、太い幹を持っていた。一体ぼくが何人いたらこの木を取り囲めるだろうか。
 その大きさに、ぼくは体をのけ反らせて見上げた。ぐぅっと大きく体を反らすと、木の枝の間に入道雲が見えた。
「そういえば虫かご、ないや」
 うっかりしていた。ぼくは、虫かごを借りるのを忘れていたのだ。これでは、例えカブトムシを捕まえたとしても祖父母の家まで持って帰ることができない。手で捕まえたまま持って帰るというのも気が引けて、ぼくは捕まえるのを諦めた。そもそも、そこまで乗り気だったわけではないので、全く悔しくない。
「迎えに……来てくれるよね」
 心細さを感じ、ふとその場に蹲る。
 もしかして、彼らはぼくをこのまま放置してしまうのではないか。そんな不安が胸を過ぎる。今思えば、彼らの笑い方は少しの悪意に染まっていたように感じる。なんにも知らないよそ者を、揶揄って遊んでやろうという、気持ち。それは、愛のない行為だ。それはぼくの好むところではない。
 愛さえあれば何をされたって構わないのか、と問われれば、是、と答えるほかない。けれども、その”何をされたって構わない相手”というのは、今のぼくが未だ出会っていない誰かである、と付け加えるだろう。なんとなく、漠然と、だが、ぼくには必要とされていたい誰かが、いる、そんな気がするのだ。
 きゅ、っと唇を引き締め、立ち上がる。ともかく、ここでじっとしていたって仕方がない。彼らには悪いが、ぼくひとりで山を降りてしまおう。彼らだって、本気でぼくと遊ぶ気はなかったのだから、良いだろう。虫取り網は、祖父に頼んで返してきてもらおう。
 そんな言い訳のような考えをぐるぐると巡らせながら、再度草木へ分け入った。緩やかな勾配の山だ。低い方へ向かっていけば、いつかは出られるに違いない。そんな安直な考えで、ぼくは地面を踏みしめた。
 ぽた、ぽたりと噴き出した汗がぼくの体を濡らしていく。額からつう、と流れたそれを拭っても、既にぬるついた腕では上手くふき取ることができなかった。
 息を吐いて、吸っても感じるのは喉を通り抜ける暑さと土の匂い、それから、草が蒸されたような、温室に似た匂いばかりだ。虫取り網を杖代わりにぼくは早く山から抜け出そうと歩を進める。
 低い方へ、低い方へと歩いていくとやがて、密集していた草木は終わりを迎えた。村へと戻って来たのだ。なんだか久々に遮られていない太陽の光を浴びたような気がする。空を見上げると、風に流された入道雲が少し遠くへと行っていた。
 祖父には、まだ早い時間だからもっと遊んでおいで、と言われるかもしれないが、ぼくは早く帰りたくて仕方がなかった。息が切れるのも厭わずに、祖父母の家へと真っ直ぐに駆けだす。
 借り物の虫取り網をなくさないようにしっかりと握りしめながら、たったっ、と規則正しい音をたてながら走る。こう見えて体力はあるほうだから、走るのは苦にならない。
 村の奥、祖父母の家まで戻ると、ただいまもおざなりにぼくは冷えた水を一気に飲んだ。
「あらぁ、早かったのね」
「おばあちゃんただいま。宿題をやろうと思って。これ、借りたんだ、誰のか分からないから、返しておいてもらえると嬉しいな」
 虫取り網を祖母に押し付けキッチンから出て、ぎ、ぎ、と軋む廊下を行く。
 さきほど揶揄われたことを、両親や祖父母に言うつもりは毛頭なかった。だって、あんなのぼくにとってはさしたる問題ではないのだから。
「あっ」
 あの階段だ。
 昨日見つけた、二階へと続く階段。薄暗くて先が見えず、やたらと狭くて踏み板が小さい。昇るのに失敗すれば、転げてしまいそうな急勾配。
 少しならば、上がったところから二階を見渡すくらいならば、と、ぼくの中に好奇心が湧いて出て来た。
 昨日見た時よりも恐怖心は薄れていて、ぼくは一段目に足をかけた。みし、と踏み板がしなる。壁に両手をつきながら、一歩一歩、慎重に昇っていく。あまり掃除はされていないようで、壁についた手の平や、白かったはずの靴下が黒く汚れてしまった。すん、と匂いを嗅ぐと、埃と錆臭い何かが混ざっている、そんな匂いがした。ぼくは、その錆の匂いをどこかで嗅いだことがあるような、懐かしい気持ちになった。
 一歩昇るごとに、頭もふわりと浮き上がる心地がした。それは決して嫌ではなくて、むしろ喜ばしいことだと思った。この先になにか、ぼくの探し求めるものがあると、根拠もないのに強く感じる。
 ちら、と後ろを見返すと、廊下の光は遥か後方へと置き去りになっていた。それほど上にぼくは昇ってしまったのだろうか。光の届かない位置に居るぼくはもう、この階段を昇っているのか降っているのか分からなくなっていた。
 そろそろと、片手を踏み板に乗せ、一段一段確認しながら中腰になって進んでいくと、踏み板が広くなっていた。おそらくはここが、終着点だ。暗くて周りの様子がよく分からなかったので、四つん這いになり両手で先を確認しながら更に進む。
 するとやがて、壁にぶつかった。その壁に手を這わせ、ゆっくりと立ち上がる。どうやらその壁は扉だったらしい。ドアノブがついている。回すタイプの、丸ノブだ。
 鍵はかかっていなかった。丸ノブを掴んで慎重に捻ってみると、それは案外あっさりと回った。
「よく来たね」
 部屋の中で、男が笑っていた。
 年のころは三十台半ばか、そこらだろう男。和服に身を包み、柔和な笑みを浮かべている。けれどもそれは確かに、喜色を全面に押し出したものだった。
 この家の二階に、本当にこんな部屋があったのかと思わず疑ってしまうほど、ここはぼくにとって居心地の良い空間だった。作り自体は、ぼくの泊まっている部屋とさほど変わりはないというのに。
「名前、と呼んでくれるかな。今はね」
「名前……さん」
 彼の名前を復唱すると、よくできました、と言って彼がぼくの頭を撫でた。
 それだけで、ぼくのこころの奥にぽうっと火が灯り熱くなった。それはとても好ましく、このためにぼくはここに来たのだと思うほどだった。
 無くした半身を取り戻したような、おもいを抱いた。
 今までぼくが感じていた、煩わしさや嫌悪感、疎外感、拒絶感、反発心、そういったものを全て捨て去り、空いたところに新しく収まったものは、彼に出会えたという、喜び。
 ゆるゆるとだらしなく下がりようになる頬の肉を両手でぎゅうと押し上げながらも、ぼくはひたすらに、嬉しい、と全身でそう叫んでいた。
「ああ、お前は本当に可愛い奴だよ。そういう、従順で、自分の欲望に素直なところも。……だからこうやって、また俺のところに戻ってきたんだろう?」
「ぼくは、ぼくは……あなたに逢えてうれしいんだ。とても。でも」
「じきに分かるさ。そうしたら、また一緒にいよう」
 彼がぼくを抱きしめる。嗚呼、嗚呼!! この感触、香り、懐の温かさ、ぼく好みの力強さも!! 何一つ変わりはしないというのに、ぼくの記憶の蓋は沈黙を保ったままだなんて!!
 ぼくは彼と出会ったはずなんだ。それなのにどうして。ぼくのこころとからだはこんなにも柔らかなのだろう。もっと切っ先が鋭ければ彼の憂いを祓えるというのに。鋼で出来た体であれば、彼の身を守る盾くらいにはなれたのに。
「少しの不具合は、まぁ、俺を待たせた罰ってことでいいよね。俺はここに留まったのに、お前は流れ、薙がれて、流されて。こんなに小さくなって。……じきに戻るか。近くに生まれたのは、これもまた運命、ってか。弟には少し、悪いことをしたかな」
 ぼくを離さないようにしっかりと抱きしめたまま、彼は耳元でぼそぼそと囁く。この低い声で囁かれるのが、堪らなく好きだった。
「ひとまず今日は、戻りなさい。まだ完璧じゃない。三回だ。三回この部屋に来るんだよ。いいかい、俺とずっと一緒に居たければ、あと二回ここに訪れるんだよ。分かったね」
 この居心地の良い部屋で、ぼくは今すぐにでもずっと一緒に居たいのに、なんて意地悪を言うのだろう。だけど、うん、いいね。慈愛を持ちながらも、少しだけぼくを突き放す真似をする。それでこそ彼だ。
「待っているよ、俺の、亀甲貞宗」

 まさに夢見心地だった。
 彼に抱きしめられたぼくの身体。囁かれた耳。吐息を吹きかけられた肌も。快感と、喜びばかりが支配していた。ふふ、ふふふ、と、漏らすつもりはなかった歓喜が言葉となって零れ落ちる。ぼくの周りの大人たちは、それを聞いて、近所の子と遊んだのがそんなに楽しかったのねと、勝手な勘違いをする。
 昨日はしなかったおかわりをして、大人たちを少しだけびっくりさせて、ぼくは笑う。
 あの人のぬくもりに比べると何もかも味気なかったけれど、食したものがぼくの血肉となり、ぼくを成長させていくのだろうと思うとそんなことも言っていられない。ぼくは早く、あの人の後ろに控えていても侮られないほどの強さを手に入れたかった。
 布団に入り、思い描くのはあの人のこと。とろとろと、沈むように眠りの淵に降り立つ。
 これは、夢か、幻か、現実か。ざ、ざ、ざ、とノイズが走る。大人のぼくを迎え入れた彼が喜んでいる。ぼくと似た白い衣装の少年たちが笑っている。彼に侍りすぎだと怒る生真面目な神父服。ふふふと意味ありげに笑む幽霊切り。ひみつをみだりにさらけ出すのは主義に反すると、勝負をした妖刀。
 初めて出会った秋。野山は紅に染まっていた。季節外れの桜を舞わせ、ぼくはご主人様に初めての口上を述べた。
「ぼくは亀甲貞宗。名前の由来? ……ふふっ。ご想像にお任せしようか」
「きっこう、さだむね」
 ぽかりと驚いた様子のご主人様に、そうだよ、と微笑みかける。驚いていたご主人様は次第に喜びをにじませ、やっと見つけた! とはしゃいでいた。
 それの、なんと綺麗なことだったろうか。
 求められるというのは、これほど胸の温かくなることだったろうか。
 亀甲貞宗という刀剣男士は元来、主たる審神者に従順だ。ご主人様至上主義、と揶揄されるほどに。
 役に立ちたい、ご主人様にとって価値のある物でありたい、ご主人様の愛情なら、どんな形でもありがたく受け止めたい、そんな性質だ。だけれどもぼくは、そんなぼくの性質をかなぐり捨てるほどに。
「いい加減起きなさい!」
 は、っとして飛び起きた。
 頭の中に降りて来ていた記憶たちは既に飛び去った後だった。
 緩慢な動作で布団から退けると、母がぼくを見下ろしていた。
「もうお昼過ぎたわよ」
「……うん」
 彼に、彼に会わなければ。
 身なりを整えるために洗面台へと向かう。どうやら外は雨が降っているらしい。雨戸が締め切られており室内は暗い。ぽつぽつと打ち付ける雨音。この天気なら、外に行けとは言われなさそうだ。まだ軽い音しか立てていない雨は、これから酷くなるとテレビが報じていた。
 暗くて狭い階段も、あの人に逢うためならば怖くなんてなかった。
 汚れる肌も靴下も。例え痛みを感じたって、なんだって良い。真白くて傷の無かったぼくが、彼の色に染められるのなら、なんて甘美なことだろう。
「今日も来たね、亀甲貞宗」
「ご主人様!」
「おや、少し思い出したのかな。亀甲に名前、と呼ばれるのも新鮮で、良かったのに」
「ごしゅ、ああ、いや……名前で呼べと命令されるなら、それはそれで……! 嗚呼、なんて、畏れ多い!!」
 ご主人様の命令なら、ぼくは厳守するに決まってる。でも、だけど、彼の名前をぼくが口にするだなんて、なんて、畏れ多い行為なんだろう。
 手招きされて近寄ると、ご主人様は昨日みたいにぼくをぎゅうと抱きしめた。そしてそのまま、懐に抱くようにして畳の上に座り込む。
「亀甲と過ごした初めての冬。人の身に慣れないで、寒がっていたお前をこうやって無理矢理布団に引きずりこんだ」
 耳の奥から脳髄へ。ご主人様の低い声が駆け抜けていく。びりびりと引き攣る痛みを残してぼくの記憶を攪拌する。ああ、そうだ。どてらでも火鉢でも、ぼくの身を温めるには事足りなくて、見かねたご主人様に添い寝してもらったんだ。
 布団の中で絡み合う素足がくすぐったくて、ご主人様がぼくの身体を撫でればバレてしまうだろうひみつにどきどきしながら。
 鋼の身で味わった熱さとはまた違う熱を、ぼくはまたひとつ取り戻す。
「一目見た時から美しいお前に憧れていた。運命上にただ寝そべるしかできない俺とは違う、手の届かない高い所で煌めくお前を」
「それは、違うよ。だって、ぼくから見たらご主人様の方がとても遠い所に居るようで……だって、ぼくは」
 ご主人様にとっては盤上の兵隊の一つに過ぎなかったはずなのだから。
 ただの物であったぼくには、その位置づけは真っ当だ。それでも、今の、柔らかな肌のまま生まれてきたぼくがそれを認めたくないと、我儘を言っている。
 そんなぼくに、ご主人様は困った奴だなぁ、と悪戯っぽく笑う。
「それじゃあ宿題だ、俺の、亀甲貞宗。次来るまでに……」

 あの日何があったのか、思い出すこと。
 なんて意地悪な宿題を出すのだろう。
 ご主人様の言う、あの日、がいつのことを言っているのか、とんと検討がつかない。
 戻ってきたぼくは、ご主人様の言葉を巡らせながら四肢をだらりと投げ出して寝転がっていた。
 天気予報の言う通り雨は酷くなっていた。ばばばばばば、と機関銃のようにひっきりなしに雨粒が屋根を打ち鳴らす。容赦なく吹きすさぶ風はそこかしこを這い周り、家中を揺らしては手を叩いて喜んでいる。
 そういえば、ご主人様のところでは雨音は全くしなかったな。
 防音がしっかり為されているのかもしれない、などとぼんやり考えながらぼくは眠りについた。
 ざ、ざ、というノイズは昨日よりも取り除かれ、記憶が次第にクリアになっていく。桜の咲く春。ご主人様や兄弟、仲間たちと花見をした。酒のみではないので、嗜む機会の少ない酒をその日ばかりはぼくも飲んだ。物事が単純にしか考えられなくなって、普段よりも更にご主人様にしか目が行かなくなって。……酔ったときの感覚が、ひとの言う、恋、に、似ている、と。
 あの時のぼくはきっと、どうにかしていたんだ。
 酒のせいにして、気の迷いだということにして。
 かっかっと赤くなった顔も、酔ったせいにした。
 色白だから、赤いのが映えるなぁ、なんて呑気に笑っているご主人様に、どうにか返事をして。
 だって、だってだってだって、ただの刀剣男士の一振りに過ぎないぼくが、ご主人様に恋をするだなんてどうにかしてる!!
 恋……恋、なんて。
 ぼくがあの人に抱いて良い感情じゃあなかったんだ。
 ぼくの想いは刀剣男士として審神者を慕うという初期設定の延長線上にあるものに過ぎないんだ。だって、そうじゃあなければ、あまりにも。
 不毛すぎる。
 刀で、付喪神で、ただの手駒。鋼の兵隊。身も心もひとの真似事で出来ていて。人間とは同じ時間で歩めない。
 でも、それなら。
 今は?
 今は、今のぼくは人間だ。
 母から生まれ、両親から愛されて何一つ不自由なく生きて来た。重ねていく年月はぼくを成長させていく。去年よりも背が伸びたし体重だって増えた。髪も爪も、伸びていく。怪我をしても手入れではなく自然に治る。
 今のぼくなら、ご主人様と恋をしたって、なんの不都合もないんだ!
 ご主人様は、三回訪れろと言った。あと一回。あと一回だ。それだけでぼくはあの人と過ごすことができる。
 夢と記憶が曖昧に溶けきった泉の中から這い上がったぼくは、周りの騒がしさに気が付いた。
 ばたばたと駆け回る大人たち。そこかしこで大声が反響している。緊張を孕んだそれを、ぼくはどこかで体験していたはずだった。
「どうしたの?」
 近くを通りかかった父と祖母に尋ねる。父の表情は、しかめっ面だった。眉間にしわを寄せ、何かに耐えるような表情だった。
「昨日の大雨で、山が崩れたんだ。何人か巻き込まれていて……お前が昨日遊んだ子も居たはずだ。今、救助のためにみんな走り回っている」
「ああ……本当に、なんてこと……二十年前もそうだった。中学に上がったばかりの、名前も巻き込まれて……」
「え?」
 ご主人様? どうして、ご主人様の名前が出てくるのだろう。
「ねぇ、それって」
「危ないから、お前は母さんと一緒に居なさい」
 ぐい、と抜けるんじゃないかと思うほどの強さで腕を引っ張られて、母の居る部屋まで連れていかれた。
 あなたはどこにもいかないで、と母の手がぼくの手をしっかりと掴む。振りほどきたくても振りほどけない。ぼくは早く、ご主人様のところに行きたかったのに。
 この家に村の者が出入りしているのだろう。誰の物とも分からない足音が部屋の前を行ったり来たりしている。
 山崩れを起こしたという雨は鳴りを潜めたらしく、その乱暴者の声は、しなかった。その代わりに、今にも垂れてきそうなほど厚い灰色の雲が空を覆っている。
「災難だったわね」
 ちらりと母を見上げたぼくの視線に気が付いたのか、母が努めて明るい声をだしていた。強がりだというのは丸わかりで、見ていて痛々しかった。
「名前さんって、だれ?」
 無邪気さを装ったぼくに気が付かずに、母はどこでその名前を、と一瞬驚いたが、義母が口を滑らせたのだろうとすぐに思い至ったようだ。
「あなたのお父さんの、お兄さんよ。今日みたいな事故に巻き込まれて……遺体も出てこなかった、って」
 奥の仏間に遺影があるわ、と言って母はぼくに写真を見せてくれた。今のぼくよりもいくらか年上であろう少年がそこには写っていた。
 なるほど、ご主人様を小さくしたなら、このような感じになるだろう。
 未だ華奢で、幼さが残っている。未発達の喉仏も、滑らかな肌も、小さな作りの手足も。ぼくが出会ったときには既に持ち合わせてはいなかった。たくさんの刀を執った手は固くなっていたし、耳に馴染む低い声を出すための喉はおとなのそれだった。
 朗らかに笑うこのこどもを、無くした両親の気持ちがぼくには理解できないだろう。ぼくを見失わないように手を握り込む母の気持ちも。ご主人様のために、ぼくは悪い子にならなくちゃいけないのだから。
 あの梅雨の日もこんな鈍色の空をしていた。夏と春の、間の日。
 秋に出会って、冬に温めあった。そして春に自覚をして、夏を迎える前に別たれた。
 鈍の空がぴし、ぴしりと音を立てて崩れ落ちた。雨とともに、大量の遡行軍が降って来た。本丸中が蜂の巣を突いたみたいに大騒ぎになって、あちらこちらで怒声が響いた。
 廊下も畳も関係なく、皆土足で踏み荒らした。嫌々ながらも世話した畑も、汗を流した鍛錬場も、全てが戦場へと化した。
 交戦しながらも、ぼくは真っ直ぐご主人様の元へ向かった。もし、仲間を助けずにどうして俺のところまで来たんだと、怒られたのならそれはそれで構わなかった。とにかく、ご主人様の傍に居たかった。
 きぃん、きぃん、と金属同士がぶつかりあう厭な音を聞きながら、錆びた鉄の匂いを嗅ぎながら、ぼくは走った。途中交戦した大型の脇差に、片脚を切り取られて走り難かったがそれでも必死になってご主人様の元へと向かった。
 審神者の執務室。そこに、近侍と共に、ご主人様は居た。
「亀甲!」
「は、ぁ……はぁ、ご主人様……」
「こんなになって……俺の、ために」
「いいんだ、いいんだぼくの怪我なんて。ご主人様が、無事でさえあれば」
 泣きたくても泣けない、そんな、迷子みたいな顔をしないで欲しかった。最後までご主人様の役に立てるのなら、ぼくは本望なのだから。そんな純粋な想いとは別に、ぼくの最期を見てもらいたい、ぼくの存在を、記憶に焼き付けて欲しいという、邪で、出しゃばりな気持ちが身の内からあふれ出ていた。
「お前は他の奴らを助けてやってくれ」
 視線と言葉で近侍を執務室から出したご主人様は、ぼくに向き直る。そして、よく聞きなさい、と命令をする。
「この本丸は、もうすぐ終わる。さいごに、お前の顔が見れてよかった」
 諦めたような、穏やかな顔。いやだ、いやだよ。
「最初はさ、ああ、そうだな……一目ぼれ、だったのかな。政府からのお知らせで、亀甲貞宗の写真を見て。どんな性格かもわからないのに、欲しい、って。刀剣男士としてじゃなくて、こころまで、欲しい、と」
「ごしゅじん、さま?」
 切り取られた脚の断面図を、つつ、とご主人様がなぞる。ご主人様の指が、ぼくの血で彩られる。戦闘の喧噪はどこかへと行ってしまったのではと錯覚するほど、ご主人様の言葉しか耳に入らない。どっどっ、と心臓は早鐘を打つ。
「好きだ、愛している、俺の亀甲貞宗。だからお前を、俺の想いで拘束させてもらうよ」
 さいごにそんなことを言うなんて、ご主人様は本当に意地悪だ!!
「ぼく行かなきゃ!」
「待って!!」
 母の手を遮二無二振りほどき、ぼくは駆ける。ぼくを捕まえようとする大人たちの手をすり抜けながら、今回は無事な二本の脚を使って。大丈夫、遡行軍は居ない、ぼくはただのこども、刀剣男士の一振りではない。
 息せき切って階段の前まで駆けつけた。
 ここだ。ここを上がれば良いだけなんだ。
 ゆっくり、ゆっくりと、けれども確実に、ぼくはご主人様の元へと向かう。
 両手を壁につけて、前も見えないほど暗くて狭い階段を昇る。妙な生臭さと、湿っぽさと熱さがぼくを覆う。生まれた時に通ってきた道に、少し似ているかもしれない。
 鍵のかかっていない丸ノブ。ふるふると震える手で掴み、捻り、扉を開ける。
「ぼくは、身も、心も、あなたに縛られていたかったんだ」
「あの時のこと、思い出したんだね」
 あの日、遡行軍の槍はぼくごとご主人様を貫いた。お互い無くした心臓を埋め合わせるようにして、二人の混じり合ったいのちが蓋をした。血液も想いも体の欠片も溶けあって消えた。
「俺は……本当なら最初の山崩れで死んでいたはずだった。死ぬ前に、政府に拾われて審神者として生きて来た。本当なら死んでいたはずだったから、あの日遡行軍が本丸に来たときもあまり怖くはなかった。でも、未練はあった」
 ご主人様はぼくのまあるいほっぺたを撫でる。刀を握ったことのない小さな手の平をすくいあげてキスを落とす。前の時は無くしていた片脚を、指先が踊るように滑っていく。ご主人様に触れられた箇所が、熱くなる。
「お前が折れた後も、俺は少しだけ意識があった。だから、一つ大きな賭けに出たんだ。まだ還りきれずに漂っていたお前の魂を流した。普段は第一部隊が持っている帰還用の遡行機で、どこでもない場所と俺を無理矢理つなげた。亀甲貞宗は戻ってこないかもしれない、すでに体を持たない俺は消えるかもしれない。様々な懸念はあったが、とにかくやってみるしかなかった。だって、折角両想いなんだから、あんな終わり、俺は納得しない」
 亀甲知っているかい? 人間、ってのは他の生き物が思っているよりも遥かに強欲で、手段を厭わなくて、馬鹿な生き物なんだよ。
 ご主人様はぼくのそこかしこに厭らしく触れながら、とても、とても嬉しそうに話をする。
 それに、なんだって? 両想い、だなんて。
「ぼ、ぼくの気持ちに気が付いていたのかい?!」
「そりゃあ、あんなにもの欲しそうに見つめられたらねぇ」
「だって、ご主人様……ぼくは刀で付喪神で、ええと、それから……。とにかく、恋なんてするはずの物じゃなかったんだ!!」
「だけど、お前はこうして俺の元へ戻って来た」
 じ、と真摯に見つめられて、ぼくは、観念したように吐息を漏らす。そうだ、そうだ認めよう。人間の形をとったぼくはご主人様に恋をした。形だけは似ていて、けれども決して届かぬ位置に存在していた。何かまかり間違ってぼくの元へ降り立たない限り、手に入らないと思っていた。
「落ちたのは亀甲の方だ、美しい神様。戦場で舞うように戦うお前は、どんな踊り子よりも魅力的だった。ただの兵隊なのは俺の方。国の為、人類の為、過去の為、未来の為、そんな理由にかこつけて、雁字搦めに囚われて動けなかった。けれど、俺への恋情を隠し切れないお前を見る度に、心が躍った」
 くらくらする。
 触れられた箇所が火傷を負うくらいに熱くなっている。ぽっぽっと火を噴いている頬は、熱中症にでも罹ったように赤くなっていることだろう。
 ご主人様の低い声が脳髄に入り込む。わんわんと頭の中でリフレインされるその声は、ぼくを骨抜きにするには十分すぎるほどだった。ぼくはもう、ご主人様への想いを否定しなくたって良いのだ。
「今度こそ二人きりで、恋の炎に溶かされてはくれまいか」

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