学園フィロソフィア


これのD組/やっぱり実の無い話)

 さらさらと赤ペンと答案用紙のこすれる音のみが教室に響いていた。
 陽が傾き茜の差し込む教室の中には二人の人間が存在した。
「満点だ。流石だな名字、もうテストをサボるような真似はするなよ」
「それは……何とも言えませんね」
 佐久間は成績に関わる小テストをサボタージュした生徒、名字のために放課後に補修の時間を設けていた。
 当然のことながら、出題したテストは花丸満点。いっそ嫌味なくらいの頭脳だ。彼の所属するD組全員がこうなのだから辟易する。
「部活に行きたくなかったので。実井の、締め切りが近くて」
「ああ……バーチャル何とか部。だからといってわざとテストを受けないのはよくないぞ」
 佐久間はきりきりと胃が痛むのを感じた。部活に行きたくないが故にテストをサボる生徒がいる……武藤の耳に入れば、佐久間を針で刺すようにちくりちくりと責め立てるに違いない。
 それでも、部活に顔を出したくないという名字の言い分も分からないでもなかった。佐久間も一度、バーチャル何とか部の活動に参加したことがあったからだ。漫画の締め切りに追われた実井にこき使われ、酷い目にあったことがある。
 そこでふと、疑問が佐久間の中に生まれた。
 部活動に昇華するために部員を寄せ集めた何とか部。実井は漫画。田崎は手品。小田切はパソコン。それでは、名字はもともと何の愛好会に所属していたのだろうか。
「なぁ、名字は部活で何の活動をしているんだ?」
「俺ですか?」
 思ってもみなかったことを聞かれた、とでも言うように名字は一つ大きな瞬きをした。
「ゴーストに思いを馳せてゴミクズのような気持ちになったり、潰れなかった蛙のことを考えたり、あるいは、ラブとLoveの関係性について思考していますよ」
 一体何を言っているのかさっぱり分からない。
 佐久間には、D組においては比較的物静かなこの生徒の言っている意味がまるで分からなかった。
 確かに彼は、比喩的で少し回りくどい言い回しを好んでいるがそれでも、比較的常識人だ。常識人だと思っていた。
 それは佐久間の勘違いだったのだろうか。
 名字は机の下で足を組み、受け取った答案用紙をきっちりと丁寧に四つ折りにした。そして散らかっていた机の上を綺麗に片づけていく。
 夕暮れが彼をオレンジ色に染め上げている。どことなくアンニュイな面持ちで、彼は口を開いた。
「Ich liebe dich. そういう名前の、戦車乗りが居たんです。俺は存外、彼のことを気に入っていたみたいで、いつだって記憶に残っている。あとは……そうですね、ロシアの彼。彼、死んでも幸せなんですって。自分のこころを奏でられたから」
 俺は……そうは思えないから。
 ぽつぽつと名字は言葉を生み出していく。
 佐久間はそれに、じっと耳を澄ましていた。彼がこうして、漏れ出た言葉を届けるのは何もこれが初めてではない。ふと、二人きりになった瞬間、こうして佐久間を試すように、名字自身に言い聞かせるように、紡いでいた。
「平和な時代って素敵ですよね。でも、日本以外のどこかでは戦争をしていて。愛を囁きながら人を殺している人が居るかもしれない。この世界はOFFにはならない。セーブもロードも、リセットもない」
 名字は眩しさに眩むように、目を閉じた。そして、綺麗になった机の上で指を組み、椅子の背もたれに体重を預ける。一度、大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。胸部が肺の動きに合わせて上下する。
「俺が所属していたのは……まぁ、あえて名称を付けるのなら、解釈部、とか、そんな感じでしょうかね。ただ考えるだけなので、非常に楽です。誰かと協力する必要はないし、勿論、家でも出来ることですが、場所があるに越したことはないので」
「随分と哲学的だな」
 感じたことをそのまま伝えると、名字はのどを鳴らしてくつくつと笑いだした。閉じられていた瞳はゆるく開けられ、佐久間を真っ直ぐに見抜いている。
「そんな大層なものじゃあない。ゲームですよ、ゲーム」
 そう言うと、また目を閉じ、今度は机の上に突っ伏した。温くなった木の感触を楽しむように頬を寄せている。
「佐久間さんはいつだって、難しく考えすぎなんです。そのくせ考えるのが苦手で、なんだって馬鹿みたいに鵜呑みにして……三好が目をつけて揶揄うのも分かる」
 それは痛い指摘だ。確かに、生徒の一人である三好にはなにかと揶揄われがちだった。その度に佐久間の胃は悲鳴を上げ、胃潰瘍コースを着実に進んでいた。
「ラブですよ、ラブ。あれもラブ。これもラブ。そして、イワシの頭からラブです。月の女神さまに夢の中で報告しておいてください」
 愛だと言うならもう少し優しくしてくれ、と佐久間は思ったが、名字に言ったところで詮無いことだ。こればかりは三好と話し合う他ない。――これ以上胃薬の量が増えるのは御免だ。
 ともかく。名字の活動は、何とか部において部員と共に何かを成す、と言ったことはしないらしい。一人で思考の海に身を沈め、愛について語らうのだ。
 いまいちつかみどころのない生徒だったが、それはただ単に彼が自身の思考の中で自己完結しているからにすぎない。幸い、名字は佐久間に哲学染みた言の葉を投げかけてくれるので、それの端々から彼のこと理解していけば良い。派手な問題点もさほどないので、D組の中でもとっかかり易いだろう、とも判断した。
 彼らが卒業するまでの間だけの付き合いだとしても、D組の生徒たちのことをもっと理解していきたい。今なら、それが可能だと根拠もないのに思えてくる。
 すっかり話し込んでしまった教室の中。オレンジ色は成りを潜め、夜の色が侵入を始めた。
 佐久間は名字に、早く帰ろうと声をかけ、出席簿を手に取った。

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