コスチュームに着替えて階段を降りると、
空気が少し変わったのを感じた。
さっきまでの生活感のある空間とは違う、
研ぎ澄まされた静けさ。
広いトレーニングルームの中央で、
ベストジーニストが鏡越しに櫛を通していた。
その動作ひとつひとつに無駄がなくて、
ただ髪を整えているだけなのに、
どこか“準備が整った”という圧を感じる。
(……スイッチ入ってる)
自然と、こちらの背筋も伸びる。
「よし。では訓練の内容だが、
これから君が強化するポイントは
光粒子の操作をマルチタスクに行い、
人命の救助、ヴィランへの牽制・捕縛、
あらゆる事を同時にこなせるようにすること」
「はい!」
「返事はイェッサ」
「イェッサァ!」
思わず声が弾む。
(同時に……全部やる)
言葉では分かる。
でも、それがどれだけ難しいかも、
なんとなく分かってしまう。
「まずは基礎だ」
ベストジーニストが軽く指を鳴らすと、
天井から小さな的が三つ、一定間隔で吊り下がる。
さらに、床の一角が僅かに隆起し、
人が乗れるほどの不安定な足場が出現した。
「三つの光粒子を空中で静止させろ」
「はい!」
意識を集中させる。
掌の周囲に光粒子を三つ展開し、
それぞれの位置を固定する。
ふわり、と浮かぶ三つの光。
(ここまでは、余裕……)
「その状態で、一つだけを操作し、的に当てろ」
(来た……)
一つに意識を寄せる。
狙いを定めて、弾く。
——パシン。
的に当たる。
(いける)
そう思った瞬間、
ぐらり、と残りの二つが揺れた。
「あっ……!」
一つは消え、もう一つは大きく軌道を逸れる。
「維持が雑だ」
短い指摘。
(やっぱり……)
分かっていた。
一つに集中した瞬間、他が疎かになる。
「視線に依存するな」
ベストジーニストの声が、静かに落ちる。
「君は“見ているもの”しか扱えていない」
(……え)
「操作は目で行うものではない。思考で行え」
その言葉に、一瞬だけ呼吸が止まる。
(思考で……?)
もう一度、粒子を三つ展開する。
今度は、視線を固定しない。
三つ全部を“同時に意識する”。
(一つじゃない、三つ……同時に……)
一つを動かす。
——パシン。
的に当たる。
同時に、残りの二つも維持されている。
(……今の、いけた)
「遅い」
「え」
「成功しているが、遅い。
現場ではその一瞬が命取りになる」
(……っ)
確かに、さっきより時間がかかっている。
「次だ」
今度は、環境が変わる。
頭上の足場が不安定に揺れ始め、
別方向から小さな弾丸が飛んでくる。
「足場を維持しながら、防御し、同時に的を撃て」
(三つどころじゃない……!)
足場に粒子を集中させて安定させる。
同時に、横から飛んでくる弾を
防ぐために防壁を展開。
そして、的を狙う。
(足場……防御……攻撃……)
頭の中で順番に処理しようとした瞬間、
全部が崩れた。
足場が消え、防御が遅れ、弾が肩をかすめる。
「ぐっ……!」
着地して、思わず膝をつく。
「順番にやろうとするな」
冷静な声。
「それでは間に合わない」
(分かってる……けど……!)
息が少し乱れる。
「同時に存在させろ」
(……同時に、存在?)
言葉の意味を理解しきれないまま、
もう一度立ち上がる。
「もう一度だ」
再び、同じ状況。
足場、弾、的。
(順番じゃない……全部……)
意識を分ける。
一つに集中しない。
広げる。
(全部、同時に……!)
足場を“維持し続ける”。
防御を“展開し続ける”。
攻撃を“放つ”。
——同時に。
一瞬、世界の見え方が変わる。
全部が一つの流れになる。
——パシン。
的に当たる。
弾は防がれている。
足場も崩れていない。
(……今の……!)
「遅いが、形にはなってきたな」
息が上がる中、その言葉が落ちてくる。
「だがまだ“意識してやっている”段階だ」
(まだ……上があるんだ)
胸の奥が、少し熱くなる。
「最終的には“考える前に
動いている”状態に持っていく」
「……はい」
小さく頷く。
まだ全然できてない。
でも、
(出来る気がする)
さっきの一瞬。
全部を同時に捉えた感覚。
あれが、正解に近い。
「次は負荷を上げる」
ベストジーニストがそう言って、
さらにスイッチを操作する。
天井、床、壁。
同時に複数の装置が起動する。
(え、これ……増えてない?)
「救助対象も追加する」
視線の先。
人型のダミーが数体、異なる位置に配置される。
「全て守れ」
(……来た)
一人じゃない。
全部。
(全部、やる)
自然と、呼吸が整う。
さっきまでの焦りが、少しだけ消えていく。
光粒子が、周囲に広がる。
次の瞬間へ、踏み込んだ。
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