週末。
私はいつもより少しだけ早く家を出た。
鏡の前で軽く全身を確認する。
インディゴブルーのスキニーパンツ。
バターイエローのクロップドTシャツ。
白いスニーカーに、白のトートバッグ。
(うん、大丈夫かな)
軽くポニーテールを整えて、玄関を出る。
(やっぱりこのパンツ、動きやすいな)
一歩踏み出すたびに、自然と足に馴染む感覚。
ベストジーニストの事務所で過ごした一週間が、
ふと頭をよぎる。
(ちゃんと活かさないと)
そう思って、少しだけ背筋を伸ばした。
――そして。
到着した八百万邸は、やっぱり“すごかった”。
(……おっきい)
門の時点で既に家じゃない。
屋敷、という言葉が一番しっくりくる。
中に案内されて、さらに驚く。
(ここ……勉強する場所……?)
広々とした空間。整えられた机。
まるで本当に“講堂”だった。
「皆さん、ようこそいらっしゃいましたわ」
百ちゃんが優雅に出迎える。
「すげえな……」
瀬呂くんが思わず呟く。
「な、なんか場違いじゃね俺ら……」
上鳴くんがそわそわしている。
「いやでもテンション上がるなこれ!」
三奈ちゃんはすっかり楽しそうだ。
「凄いなあ」
尾白くんは高い天井を見上げていた。
「それでは早速始めましょうか。
時間は有限ですもの」
百ちゃんの一言で、空気がすっと引き締まった。
(よし……)
私はノートを取り出して、姿勢を正す。
⸻
「まずは現代文からいきましょう」
百ちゃんが問題用紙を広げる。
(きた……)
少しだけ気が重くなる。
「この設問、“筆者の主張として
最も適切なもの”を選びなさい、ですわね」
百ちゃんが説明を始める。
「重要なのは“筆者が何を言いたいか”を、
文章全体から論理的に読み取ることですの」
私は問題を見ながら考える。
(えっと……)
選択肢を見る。
(これっぽい気がする……)
「これじゃない?」
指で示す。
百ちゃんがちらりと見る。
「それは“印象”ですわね」
「えっ」
「その選択肢は文章中の一部を強調している
だけで、主張全体ではありませんの」
「……あ」
確かに、言われてみればそうだった。
(まただ)
なんとなくで選んでしまっている。
「“気持ち”ではなく、“論理”で読むのですわ」
百ちゃんが優しく言う。
「文章の流れを追いましょう。接続詞、対比、
結論の位置――すべてヒントですの」
「……うん」
私はもう一度文章を見る。
(ここで話が変わってる……)
(こっちが結論か)
さっきとは違う選択肢に目がいく。
「……こっち?」
「正解ですわ」
「ほんとだ……」
思わず小さく息を吐く。
(ちゃんと見れば分かるのに)
(感覚で選んでたんだ)
なんだか少し悔しい。
でも――
(ちょっと分かってきたかも)
⸻
「無理無理無理わかんねぇ!」
隣で上鳴くんが頭を抱える。
「うるさいなあ。どこが分かんないんだよ」
響香ちゃんが鬱陶しそうに上鳴くんに聞いた。
「全部だよ全部!」
「それでは分解して考えましょう」
百ちゃんが丁寧に説明を始める。
でも上鳴くんの顔は完全に混乱している。
(あー……)
私は少しだけ考えてから口を開く。
「つまりさ、ここで言いたいのって――」
自分なりに言い換える。
「こういうことじゃない?」
上鳴くんがピタッと止まる。
「……あ、それなら分かる」
「でしょ?」
「おお!!分かった!!」
百ちゃんが頷く。
「星宮さん、ありがとうございます。
噛み砕いて説明するのも大切ですわね」
「え、ほんと?良かったぁ」
少しだけ嬉しくなる。
⸻
「八百万、古文これ教えてくれ」
瀬呂くんがノートを差し出す。
「えっとさ、“けり”とか“けむ”とか、
もう全部同じに見えるんだけど」
「それぞれ意味が異なりますわ」
百ちゃんがすぐに説明を始める。
「過去・詠嘆・推量……
文脈で判断する必要がありますの」
「いやそれが分かんねぇって言ってんの!」
「落ち着きなさいな」
そのやり取りに、思わず笑いそうになる。
⸻
「うわー全然進まない!」
三奈ちゃんが机に突っ伏す。
「芦戸さん、ここは重要ですわよ」
「うう……」
「でもさ、最初より分かってきてない?」
私は声をかける。
「え?」
「さっきよりは出来てるよ」
「……ほんと?」
「うん」
三奈ちゃんが少しだけ顔を上げる。
「……じゃあもうちょい頑張る」
その表情に、少しだけ安心する。
⸻
気付けば時間はあっという間に過ぎていた。
(結構やったなあ……)
ノートを見ると、最初よりずっと整理されている。
特に現代文。
(ちゃんと読めば分かる)
(“精度”上げないと)
光の操作と同じ。
曖昧じゃなくて、正確に。
そう思うと、少しだけ楽しくなってきた。
「本日はここまでにいたしましょう」
百ちゃんがそう言うと、みんな一斉に息をついた。
「つ、疲れた……」
「でもめっちゃ助かった……」
「ありがとな八百万!」
「お役に立てたのなら何よりですわ」
百ちゃんがそう微笑んだ直後、
ふと手を軽く叩いた。
「では、少し休憩にいたしましょう。
お紅茶をお持ちしますわ」
(きた……!)
思わず背筋が伸びる。
百ちゃんが指示を出すと、
すぐに準備が整えられていく。
ティーカップが並び、
ポットから湯気が立ちのぼる。
ふわりと広がる、上品で落ち着いた香り。
(いい匂い……)
「本日はハロッズをご用意いたしましたわ」
「ハロッズってあのハロッズ!?」
上鳴くんが食い気味に反応する。
「はい、どうぞ」
百ちゃんが一人ひとりに丁寧に
カップを差し出していく。
私は両手で受け取る。
「ありがとう、百ちゃん」
そっと口をつけると、ふわりと香りが抜けた。
(……おいしい)
優しいのに、しっかりしてる。
さっきまでの疲れが、
すっとほどけていくような味だった。
「うっま……なにこれ……」
瀬呂くんが素直に感動している。
「なんか俺、急に上流階級になった気分
なんだけど」
上鳴くんはカップを持ちながら
落ち着かない様子だ。
「ブフッ…似合わな…!」
響香ちゃんが笑いを堪えながら言ってる。
「うるせぇ!」
そのやり取りに、くすっと笑いがこぼれる。
テーブルの中央には、綺麗に並べられたクッキー。
「こちらもどうぞ。焼き菓子もご一緒に」
百ちゃんが勧めてくれる。
「いただきまーす!」
三奈ちゃんがぱっと手を伸ばす。
私も一枚取って口に運ぶ。
(さくっ……)
ほんのり甘くて、紅茶とすごく合う。
「これ止まんねぇやつじゃん……」
瀬呂くんが感動してる。
でも本当に美味しいから分かる…
空気が一気に柔らかくなる。
さっきまでの張り詰めた勉強の時間とは違って、
みんなの表情がすごく穏やかだった。
私はカップを持ちながら、
ぼんやりとそれを眺める。
(こういう時間、いいな)
一人で勉強するのも嫌いじゃないけど、
こうして誰かと一緒に頑張って、
終わった後に笑ってる時間。
なんだか少し、胸があたたかくなる。
「綺羅、どう?」
三奈ちゃんが顔を覗き込む。
「うん!すごく美味しい!」
自然と笑顔になる。
「でしょー!ヤオモモ最高!」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
百ちゃんが上品に微笑む。
ふと、カップの中の紅茶を見つめる。
(整ってるなあ……)
味も、香りも、空間も。
無駄がなくて、綺麗で。
(なんか……ジーニストっぽいかも)
そう思って、少しだけ可笑しくなる。
あの人ならきっと、
“美しい休息だ”とか言いそう。
私は小さく笑いながら、もう一口紅茶を飲んだ。
甘さと温かさが、ゆっくりと体に広がっていく。
(よし……)
少しだけ力が抜けて、
でもまた頑張ろうって思える。
そんな時間だった。
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