人形は涙を知らない


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強い雨だった。

窓を激しく叩く雨音が、
広すぎる屋敷の中へ重く響いている。

空は暗く、
昼なのか夜なのかも分からない。

厚い雲に覆われた世界は、
まるで最初から終わりを知っているみたいだった。

その屋敷の一室。

豪奢な燭台の灯りに照らされながら、
エレナはウィングチェアへ深く腰掛けていた。

黒いレースのヘッドドレス。

幾重にも重なった黒のゴシックドレス。

細い肩へ落ちる白銀の髪。

まるで、
精巧に作られた人形だった。

肘掛けへ静かに両手を置き、
エレナは目を閉じている。

その周囲では、
数人のメイド達が恭しく髪を整え、
白い指先へ丁寧に爪化粧を施していた。

「本当に美しいわ……」

伯爵夫人である母が、
満足げに微笑む。

「我が娘ながら、まるで芸術品だ」

白い髭を蓄えた父もまた、
誇らしげに頷いた。

エレナは何も答えない。

ただ静かに、
されるがまま座っていた。

昔からそうだった。

望まれるまま着飾り、
望まれるまま微笑み、
美しく在り続ける。

それがエレナ・ヴェールだった。

雨音だけが響く。

歪な家族の、
いつも通りの日常。

――そのはずだった。

不意に。

エレナの額へ、
薄らと黒い十字が浮かび上がる。

次の瞬間。

「……っ、ぁ……!」

頭を締め付けられるような激痛が走った。

エレナの身体が椅子から崩れ落ちる。

床へ膝をつき、
細い肩を震わせながら呻き声を漏らした。

「エレナ様!?」

メイド達が悲鳴を上げ、
咄嗟に距離を取る。

父と母も、
目を見開き動揺していた。

完璧だった娘が、
初めて乱れている。

人形は乱れたりしない。

ただ美しく、
静かに微笑んでいるものなのに。

エレナの頭の中へ、
何かが流れ込んでくる。

知らない感情。

悲しみ。

深く、
息が出来なくなるほどの哀しみ。

何に悲しんでいるのか分からない。

なのに涙だけが溢れる。

胸が張り裂けそうだった。

「エ……エレナ……」

父が震える声で名を呼ぶ。

エレナは荒い呼吸のまま、
ゆっくり顔を上げた。

視界が滲む。

けれど、
その瞬間にはもう理解していた。

何故、
この感情が流れ込んできたのか。

何故、
この世界が醜いのか。

愚かな人間は、
失うことを恐れる。

愛する者ですら、
“自分の理想”へ閉じ込める。

苦しむ娘を前にしてなお、
この男は“美しい娘”が壊れることしか恐れていない。

ならば。

こんな歪な形は、
終わらせてしまった方がいい。

「……可哀想な御父様」

エレナは静かに立ち上がる。

先程まで苦痛に歪んでいた表情は、
もう消えていた。

そこにあるのは、
聖母のように穏やかな微笑み。

両手を広げ、
父を迎え入れるように立つ。

それなのに。

父も母も、
メイド達までもが怯えた顔で後退る。

「エ、エレナ……!
その肌……!」

母の悲鳴混じりの声。

部屋の姿鏡には、
褐色へ変わったエレナの肌が映っていた。

透けるように白かった肌は、
もう存在しない。

黒い十字の痕だけが、
額に静かに浮かんでいる。

エレナは穏やかに微笑んだ。

「怖くはありませんよ」

静かな声だった。

雨音に溶けるほど、
優しい声。

「ただ、
眠るだけです」

一歩。

また一歩。

ゆっくり母へ歩み寄る。

「終わらせましょう。
この歪な家族の形を」

怯える母の頬へ、
エレナはそっと触れた。

瞬間。

母の肌から急速に水分が失われる。

白い肌が萎み、
皺が刻まれ、
肉が削げ落ちる。

「あ……ぁ……っ……!」

声にならない悲鳴。

骨だけになった顔から、
腐敗した皮膚が剥がれ落ちる。

次の瞬間には、
白骨さえも崩れ、
灰となって床へ落ちた。

静かだった。

あまりにも静かに、
命が終わっていく。

「ば……
化け物……!!」

父が崩れるように後退る。

愛でていた娘へ向ける言葉ではなかった。

メイド達も逃げようとして、
恐怖で腰を抜かし、
床を這うことしか出来ない。

エレナはそんな父を見つめる。

その瞳は、
どこまでも穏やかだった。

「御父様、
愛しておりました」

静かに告げる。

「だからこそ、
貴方方は無へ還るべきなのです」

エレナの指先が、
父へ触れる。

途端、
父の肉体もまた急速に老いていく。

皮膚が裂け、
骨が崩れ、
最後には灰だけが残った。

メイド達の悲鳴も、
やがて止む。

雨音だけが残る。

広い部屋の中で、
エレナは一人立っていた。

黒いドレスの裾へ、
灰が静かに積もっている。

涙が頬を伝った。

けれど、
何故泣いているのか分からない。

これは誰の悲しみなのだろう。

自分のものなのか。

それとも――。

不意に。

空間が歪む。

黒い裂け目の向こうから、
幼い少女が顔を覗かせた。

奇妙なほど無邪気な笑顔。

「わぁ……」

少女は灰だらけの部屋を見回し、
楽しそうに目を細める。

「きれいに終わっちゃったね」

エレナはその少女を見る。

知らないはずなのに。

何故か、
懐かしい気がした。

少女は笑う。

「大丈夫」

そして、
涙を流すエレナへ手を差し伸べた。

「もう独りじゃないよ」







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