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れいにぃ・ぶるー


雨が降る。ぱらぱらと、ぼたぼたと、地面を黒くそめていく。それなのに私の手もとには、傘がない。否、朝自宅を出た時には、きちんと持っていたのだ。出勤する時に傘立てに置いたはずのレース模様の傘は、どうやら誰かに持って行ってしまわれたらしい。
「あれ、お気に入りだったのになあ。持ってった奴のばか、ばーか!」
悪態をついたところで、傘は戻って来やしないと分かっているのに。ため息をひとつ零して、雨に濡れて帰ろう、と決意を固める。自宅まで歩いて二十分ほど。何もしないよりはマシだろう、とカバンの中身はビニール袋に入れたけれど、完全防水というわけにはいかないから、長時間雨に晒し続けるのは気が引けてしまう。携帯電話とイヤホン、それから財布が濡れさえしなければとりあえず問題はないはずだから、ほかのものは濡れてしまったら仕方ない、ぐらいに思うことにしよう。
ため息とともに、とん、と一歩を踏み出すと。
「ぬしはん」
誰かに、声を掛けられた。ぬしはん、なんて独特な呼び方だなあと思いつつ振り返ってみると、見知らぬ男の子が傘を手にして立っていた。桜色の髪がとても綺麗で、桜の妖精だと言われたとしても信じてしまうだろうな、なんてことを思ってしまう。さすがに失礼だから、口にすることはないけれど。
「え、と。私に何かご用ですか?」
心当たりが浮かばず、首をひねりながら疑問を投げかけた。もしかしたら、知らない間に何か気に障ることをしてしまったのかもしれない。そう思っていたけれど、彼から返って来たのはまったく別の返答だった。
「傘、あらへんのやろ?わしの持って行き。次に会うた時に返してもろたらええから」
はい、と差し出されたのは、自分では選ばないような、けれど、綺麗な色の傘だった。せっかくの厚意を無下にするのもなあ、とは思うものの、相手は初対面。傘を開いた時に何かしら…たとえば虫だとか、そういう嫌がらせのようなものが出てこないとも限らない。
しばらく桜色の男の子と差し出された傘とを交互に見つめていると、「ほんなら、」と呟く声。それから、ぽん、と傘の開く音。
「これでええやろか。ほい」
何やら一人で納得した様子で、再び差し出される傘。さっきと違うのは、傘は開かれた状態だということ。……ここまでされてしまったら、もう素直に受け取るしかない。
「あ、ありがとうございます…」
おずおずと差し出された傘を受け取ると、気ぃつけてな、なんて言葉が降ってきた。返事の代わりにぺこりと小さくお辞儀をして、受け取った傘とともに桜色の男の子に背を向ける。嫌がらせ云々、と一瞬でも考えてしまった自分が情けなくて、どうしても彼の顔を見ることは出来なかった。

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