スターティング・ナウ
星が綺麗な夜ではなかった。
潮の匂いを纏う夏風がそよぐ午後でもなく、世界が白み微睡みを縫う春の夜明けの海でもなかった。ここは摩天楼でもなければ、極上のワインだかシャンパンだかで、つまりはそれなりに相応だろうと呼べる液体で満たしたグラスで鈴のような乾杯の音を響かせたわけでもない。
「……はあ」
三井の言葉に相槌のような、返事のような、疑問のような。宮城が返したのはそれだけだった。少し機嫌の悪いため息にも聞こえたのかもしれない。三井はいつも通り宮城の二音になんてまったく気にも留めずに、曖昧な音などなかったかのように「あちぃな」と言葉を続けた。
今年、春の到来はあっという間だった。哀れなるかな、春の命は短く、今年の桜を見た記憶をなんとか手繰り寄せなければそのシーンに辿りつけない。三井の言葉とは全く違うことを考えはじめた宮城を、やはり三井は気にも留めない。好きにさせているつもりのようだった。
こちらを向けと、必死さのひとつでも見せてくれたら違うのかもしれないけれど、三井はそうしない。その本心を測りかねて、そうしている間にアウェイ戦へ向かう途中どこか高速道路の向こう側で咲き誇る薄紅の幕を見たかもしれない、という曖昧な光景に辿り着いてしまった。瞬間的に脳内で春がいっぱいに綻んで、瞬きの間に霧散してしまう。
どこか生温い風がゆったりと吹き抜ける。頬を撫でる潮風。髪を混ぜるような優しさの風。まだ海開きは待たなければならない浜辺だった。三井と二人で浜辺に立っている。履き潰しかけたスニーカー。おしゃれ用から普段用に格下げされてからの方がどこか愛おしさが増している。湿った砂浜に、人はまばらだった。平日の朝とも昼とも呼べない、どちらにもなれない時間にいるには自分たちはちょうどこの海辺が当てはまっているのかもしれなかった。
三井が纏う白のTシャツに日が映える。まばゆくその布地に波を作る風。今は見慣れた立派な体躯。宮城は薄手のグレーの半袖パーカーが風になびくのをそのままに、三井が勝手に買って寄越した缶コーヒーを掌の中で弄する。同じものを三井は傾けて、口の中を潤した。喉仏が上下して、嚥下を視界の端に捉える。
「ここまできたらよ」
宮城は、いつもの角度で三井を見上げる。まっさらな耳たぶ。短く揃えられた黒髪に、まだ白は混じっていない。遠く、重たいだけの、なんてことはない日常を演出するかのような金属音が響いていた。ボールが弾む音がしない。ブザーの音も響かない。ゴールリングが揺れる衝撃もない。アリーナが割れんばかりの歓声もなく喝采もない。ただ、ビルの解体作業の音だけが空気を揺らしていて、波の音がどこか遠いように感じる。その音に混じるように三井が口を開いた。どうやら、宮城には声が届いていないだけだと判断したらしい。変わらぬ身長差を埋めるかのように三井は身をかがめて、それから宮城の顔を覗き込んだ。
ドリルの音が続いて、甲高い金属音を合図に一度すべての音が止まりあたりは静寂に包まれる。まるでリハーサルをしていたかのような、見計らったのではないかと思ってしまうほどのタイミングだ。再びその音が生まれる前にと思ってかどうかはわからないけれど。
三井の唇は、少年がつくるような笑みを形作っていた。水面のように爛々と輝く瞳で宮城を見つめながら。まるですべてお見通しだとばかりに笑う。
「オレたち、ずっといっしょにいるしかないぜ」
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