磨かれず、飾りも付いていない短くそろえられた爪が、俺にはむしろ新鮮だった。
手を使う競技なのだから、爪は伸ばしていなかったし人に見られる仕事だから、それなりにきちんと手入れをしていた。けれどそれは俺の話であって、そんなものは別段新鮮だとは思わない。俺の話ではなく、彼女だ。
モデルという仕事をしていれば煌びやかに飾られた人や物に囲まれて、それが当たり前のように思う瞬間もある。綺麗で当たり前。飾り立てて当たり前。良く見せるためのあの手この手が染み付いて、仕事と学校のギャップが曖昧になる気がする。いい顔をするのが、当たり前。それに俺に近づく女は大概、モデルばりに着飾っていたり化粧で顔を作っていたりと、なんともまあ見慣れた光景のような気がして何の感情も抱かない。何の感情も抱かないというのに綺麗だとか可愛いだとか、考えるよりも先に言葉が落ちるのは、俺が器用で最低で相手に一切の興味を持っていないからだ。それなのに女が喜ぶのだから、簡単だと思ってしまう。顔が好きなんだろう?優しい言葉が好きなんだろう?誰も傷付かずに、俺も傷付けずに、これがいちばん楽で暇つぶしになると思っていた。
「あんま爪短いと、逆に力入んなくないスか」
部活に向かう途中で、同じクラスの女の子が背伸びをして廊下の掲示物の貼り替えをしているのに出くわした。ぱっとしない、何とも普通のクラスメイト。ほとんど話したことはなかったけれど、背伸びをして腕を必死に伸ばし、いちばん上端からテープを短い爪でずっとカリカリと引っ掻いている様子に思わず話しかけた。
「あ、黄瀬くん、部活?頑張ってね」
おいおい人の話スルーか。それに大概の女子は俺が話しかけたら照れたりするのに至って普通。それが少しだけ悔しい。そう思ったが対人用の笑みを作っていい顔をした。
「上だけ俺やろうか?身長的に大変そうだし」
「いいよいいよ、あたしの仕事だもん。身長伸びるかもしれないし」
「なんスかそれ!斬新な発想!」
はじめは社交辞令的なやりとりのつもりだったけれど、いつまでも壁に伸びて爪を立てる女の子を放っておくのはいかがなものかと思って手を伸ばす。あ、俺、普通のクラスメイトにも優しい。普段なら綺麗な女にだけなんだけれど。まあ綺麗に飾った女なんて自分でやろうとなんてしないで、甘えるからなぁなんて考えているとふわり、彼女が振り向いた。艶のある黒髪が瞬間宙に弧を描く。
「ごめん、忙しいのにありがとう」
香水じゃない、ほのかなシャンプーが香る。少し申し訳なさそうに笑う彼女を見てあれ、と思った。こんな顔をしていたんだ。クラスメイトだというのに今、初めてきちんと見た気がした。
やっとの思いでテープを剥がし終わると彼女は達成感に溢れた顔で再びお礼を言う。いいんスよークラスメイトじゃないっスかー優しい言葉をかけたあと、部活に向かう。なぜか新鮮な気持ちだった。綺麗なものに触れた気がした。綺麗というのは磨かれた宝石のようなものではなく空気とか水とか差し込む光みたいな綺麗さで、ああ、だから。だから少しだけ懐かしいような感じがするんだ。
部活が終わってから、同じ廊下を歩いても当然彼女はいなかった。変わりに、彼女が張り付いていた壁に新しいポスターが貼られていて、それが少しばかり傾いていたため思わず笑ってしまう。彼女がまた必死で背伸びをしてポスターを貼る姿が容易に想像できた。貼ってくれと言われれば、俺の身長なら簡単に貼れたのに。
「何ニヤニヤしてんだ気持ち悪ぃ、早く帰るぞ」
「モデルに気持ち悪いとかヒドくないスか!」
「ハッ」
「鼻で笑うなんて!」
明日、彼女に話しかけてみよう。あのポスター少し曲がっていたけど、俺貼り直そうか?そうしたら彼女は慌てて自分で貼り直しに行くのだろう。また精一杯背伸びをして。
手伝ったら、また振り向いてありがとうと笑うのだろうか。飾らない彼女に、俺もつられて笑うのだろうか。
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