09
 あれから私は少しずつではあるが陸上に復帰するためのトレーニングを始めた。後輩である風丸が、新しい環境であるにも関わらず一心不乱に努力して、前へ走り出しているのだから。先輩である私がこんなところで立ち止まっていられるわけがなかった。そして私の周りで変わったことと言えば、宮坂が今までよりも話しかけてきてくれるようになったことだろうか。未だに私のことが気に食わないらしいけれど、私がトレーニングをするたびにぶっきらぼうではあるが声をかけてくれたりどこか心配するような素振りを見せてくれるようになったのだ。今すぐ風丸のところへ行って「私たちの後輩がこんなにもかわいいんだよ」と伝えに行きたい気持ちでいっぱいだが、風丸は今、サッカーの全国大会のために今までよりも熱を入れて練習をしている。それを邪魔できるほど私は身勝手ではない。

 今日のトレーニングメニューを終えて、徐々にスピードを落として止まり、一息つく。いつの間にか空はきれいな橙色で染まっており、どこか懐かしい気持ちに包まれた。

「……あの時も、こんな空だったっけ」

 夕空と重なるように、嫌な記憶が蘇ってくる。スポーツ界の革命家として名高い両親とこの河川敷で歩き、走り、そして他愛のない会話を交わしたあの頃がフラッシュバックし、思わずこぶしを握る力が強くなった。

「網問先輩?」
「っ!」

 突然後ろから声を掛けられ、肩を揺らして思い切り振り向くとそこには心配そうに眉を下げた風丸が立っていた。……そうか、もう部活が終わるような時間帯になっていたのか。

「大丈夫ですか? その……すごく怖い顔をしていて、気になって」
「そう? 風丸の気のせいだよ」
「そう、ですか」
「ふふ、でも心配してくれてありがとうね」

 安心させるように微笑んで見せると、風丸はどこか腑に落ちないような表情で「……いえ」と返す。
 とにかく、今が大事な時である風丸に余計なことを言いたくないのだ。風丸は良い後輩だ。きっとこのことを話したら、まるで自分のことのように寄り添ってくれるのだろうから。だから、今は話すべきではない。
 すこしだけ重くなってしまった空気を変えるように、先ほどよりも少しだけ明るい声で風丸が私の名前を呼んだ。私はいつもの声色で「なあに」と返し、己の足元を見つめる。

「網問先輩は俺が陸上で息詰まっているときも、後輩たちと上手くやれていなかったときも、いつだって傍にいて支えてくれました」
「私は先輩として、できることをやっただけだよ」
「そこが網問先輩のすごいところであり、……俺が尊敬しているところなんです」
「……風丸」

 私はそんなすごい人間なんかじゃないよ、風丸。それはみんなが一緒にいてくれたから。一人じゃなかったから。陸上をやめたときも、心配したり怒ったりしてくれる人がいるから、私という人間ができあがっているんだ。

「でも網問先輩、あなたはあまり人を頼ろうとしない。いつもその笑顔の中に本心を隠して、俺たちを気遣っている」
「それは先輩として」
「俺は網問先輩にいつでも先輩でいてほしいわけじゃない!」

 大きな声を出した風丸は何かを我慢するように口元をぎゅっと結んでから、ゆっくりと口を開く。私は風丸に伸ばした手を伸ばしきることもできず、ゆらゆらと宙を泳いですとんと手を下ろした。

「俺は、網問先輩が気兼ねなく悩みを打ち明けてくれるような存在になりたい。……俺は、網問先輩にとって一番頼れると思えるような人になりたいんです」

 先ほどのあの心配そうにしていた表情から一転、目を逸らせないくらい真っ直ぐこちらを見つめてくる風丸を見て、少しだけ心が軽くなったような気がした。この後輩はいつになっても優しいんだ。まじめで、いつだって真剣だけど、優しいところもたくさんある。私は風丸が入部してからずっと、それを見てきたからわかるんだ。私は風丸の、そういうところが好きなんだ。

「……ふふ」
「え、えぇ? 俺結構真面目な話したんですけど」
「ごめんごめん、別に馬鹿にしてるわけじゃないんだよ。ただ……風丸、私のこと好きすぎない?」
「……なっ!?」
「あはは、顔真っ赤」

 驚きのあまり後ずさった風丸は耳まで赤くしながら言葉にならない言葉を漏らす。そうしてどうにか気持ちを落ち着かせたらしい風丸は息を吐いて恨めしそうにこちらを軽く睨んできた。

「……網問先輩のその意地悪なところは変わらないですね」
「ごめんってば。でもうれしいよ」
「うれしい?」
「風丸に好かれてるの、私はうれしい」

 呆然としている風丸の顔を覗き込むように腰を軽く折って、いたずら成功と言わんばかりにぺろりと舌を出す。この後はきっと顔を梅干しのように真っ赤にして慌てるのだろうけど、今回は見ないであげようかな。
 徐々に西日が沈んでいくと同時に周りの電灯が付き始めたのに気づき、動かない風丸に「じゃあもう帰るね。全国大会応援してるから」と一声かけて軽くランニングをするつもりで小走りで家の方向へと向かう。すると思考を宇宙へ飛ばしていた風丸がどうにか戻ってきたようで、慌てたように私の名前を呼んだ。

「フットボールフロンティアが終わったら、話したいことがあります!」

 絶対、俺から逃げないでください。私の背中にそんな言葉をぶつけられ、目を軽く見開いて一瞬だけ足を止める。そうしてすぐに走りながら、振り向かずに風丸に手を振った。
 もう逃げないよ、風丸。きみがずっとそのまま前に進むというのなら、私は。
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