遅咲きの春



 そのまま部屋に入ってきた貞ちゃんは、机の上に置かれた二つの湯飲みへと目を遣った。

「誰か来てたのか?」
「うん、鶴丸がさっき」
「相変わらずだな、鶴さんは」

 貞ちゃんは楽しげにそう言うと、少し沈んだ座布団の上に座った。正面を向けば視界に入る貞ちゃんの顔に、どこか気まずさを覚える。それもこれも、ぜんぶ鶴丸のせいだ。先ほど、颯爽と部屋を後にした鶴丸の笑顔が脳裏を過ぎる。今思うと、あれは確信犯の顔だった。おそらく、彼はこの時間に貞ちゃんが訪れるのを知っていたのだろう。食えないところはさすが平安太刀といったところか。とにかく、このままでは鶴丸の思うツボだ。なんとか冷静にならねば、と私は湯飲みへと手を伸ばした。

「そういえば、鶴さんとなんの話をしてたんだ?」

 何気ない貞ちゃんの言葉に、伸ばしていた手が止まった。……お茶を飲む前でよかったのかもしれない。口に含んでいたら、うっかり吹いてしまっていただろうから。
 貞ちゃんには、先ほどの鶴丸とのやり取りは聞こえていないはずだ。だから、ここは嘘をつくなりなんなりで誤魔化せばいい。のに、突然のことで動揺する私は、うまく言葉を発せずにいた。

「なんだよ、鶴さんになんか言われたのか?」
「そうね、でも、貞ちゃんには教えられないかな」

 言葉選びを間違えた自覚はあった。私の言葉に、貞ちゃんはむっとしたように眉を潜めた。
 教えられない内容であることは確かだった。最後に言われた言葉は特に。だが、それを正直に伝える必要は全くなかったのだ。
 いつもお喋りな貞ちゃんが少しだけ無口になるのは、決まって不機嫌な時だった。今のは私の言い方が悪かった。教えられない、とは、鶴丸とそう言った会話をしていたことを暗に伝えているようで、更に私の言い方だと、それが親密なものであると誤解を招きかねない。
 本来ならそのまま彼の勘違いに身を委ねて、恋心を冷ましてやるべきなのだろう。なのに、私はどうにかその誤解を解かねばと必死で頭を働かせていた。

 色恋沙汰とはとっくの昔に縁を切ったはずだ。なのに、まだ自分は、貞ちゃんに期待を持たせようとしているのか。……いや、違う。
 期待しているのは、きっと、私の方だ。

「ほんとうは、貞ちゃんの話をしていたの」
「俺の?」

私の言葉に、貞ちゃんは目を瞬かせた。

「うん、それで、鶴丸が……」

 続きを言いかけて、口を閉じる。流石にそれから先を言うのは躊躇われたのだ。「なんでもない」と都合の良い言葉で片付けようと口を開けば、彼の手がゆっくりと伸ばされて、私の腕を掴んだ。
 まるで、逃げないで、とでも言っているようだった。

「……貞ちゃんは、いつまで私のことを好きでいてくれるの?」

 それでも、私はどこまでも臆病者だった。
 その質問に対する貞ちゃんの答えは、分かりきっていた。けど、ちゃんと聞きたかった。聞きたいと、思ってしまった。
 私の言葉に、貞ちゃんのまんまるな目が糸のように細くなる。それは、勝ちを確信したような、優しい笑顔だった。

「それを主が知れるのは、生きてるうちだけだぜ」

 貞ちゃんの言葉の裏に、鶴丸の声が重なった気がした。
 “──観念しろ。”
 そんな言い方、まるで、最初から私に勝ち目はないみたいだ。でも、実際にそうだったのだろう。
 わかったよ、と呟いて、貞ちゃんの手を取る。するりと絡まった指先の若さが、ちょっとだけ羨ましかった。

「貞ちゃん」

 重なった手に、じんわりと広がるような熱が宿っていくのを感じた。

「私、貴方のことが好きみたい」

 この歳で告白だなんて、可笑しな話だろう。それも、孫と間違われるくらい歳の離れた外見のひとに。
 遅すぎたその言葉に文句の一つも言わず、ただ一言、そっかと、貞ちゃんは静かに笑った。それは、仕方ないなとでも言いたげな、優しい笑みだった。不意に、満月のように丸い瞳と目が合って、そこに歳を重ねた私の姿が写し出される。醜くなった私を、まるで眩いものでも見るみたいにきゅっと目を細めて、貞ちゃんは、よかったと嬉しそうに声を響かせた。

「俺も、ずっと好きだった」

 やけに自信たっぷりに、でも、ほんの少し恥ずかしげに、貞ちゃんは笑う。
 知ってるよと私が応えれば、よかったと、噛み締めるようにもう一度。



 いつかの、からっと晴れた青空の下。
 大勢で遊ぶには少し狭い庭先を、短刀達が元気に駆け回る。
 その光景を、いつも穏やかに見守っていた私に恋をしたのだと、そう話す貞ちゃんに、どこまでも敵わないと笑ったのだ。
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