05



 こんな時だけ賑やかだった店内はまるで図ったかのようにしんと静まる。
 騒音に掻き消される事なく届いてしまったその言葉は、帰る理由にしては余りにも重過ぎるもので、彼女はそれを聞いて、信じられないものでも見るように目を見開いた。

「……うそ」
「俺があなたに嘘ついたことがありますか?」
「ある、たくさん」
「では、今は忘れてください」

 なんとも都合の良い言葉だ。確かに、彼女にはたくさん嘘をついた。そして、その嘘で傷つけたこともあった。だが、これは、これだけは嘘ではない。目を逸らさずじ、と彼女を見つめれば、少しだけ潤んだ彼女の瞳と目が合った。

「わ、私と?」
「貴女以外に、誰がいるんですか」
「だって、貴方の口から結婚だなんて、一生聞けないと思ってたから」
「俺もですよ」
「……はは」

 あー、もう。と、投げるような言葉とともに机にうな垂れた彼女は、嬉しいのが悔しい、ずるい、だのと文句を零していた。

「というか、それここで言うんだ」
「別の場所が良かったんですか?」
「……ううん、ここでいいや」

 ふふ、と。心地よい笑い声が鼓膜を揺らす。それは、久々に聞いた彼女の幸せそうな声だった。にしても、こんな騒々しい居酒屋でいいとは、相変わらず変な人だと思ったが、彼女はそんな俺の考えすら見通したように笑ってみせた。

 さっきまでの不機嫌さが嘘みたいに、馬鹿みたく幸せな顔をして。

「だって、その方が私達らしい気がする」

 指輪などの装飾品が何一つ無い寂しい手が、自身の手の甲に重なる。
 外でのスキンシップは控えてください、なんて常套句、照れ隠しでしか言えないなら呑んでしまえ。

「七種なまえ、って、似合わなくて笑っちゃう」
「そうですね、でも、そのうち嫌でも慣れますよ」

 相槌のように返した言葉。
 それを丁寧に拾い上げた彼女は生暖かい温度を瞳に宿し、ゆっくりと微笑んだ。

「それに慣れるのは、嫌なことではないのよ」
「……ああ、そうですか」

 なんとも反応しづらいその一言を流すように、その席、寒くないですか、と気遣うような言葉を投げ掛けた。然し、お互いに寒さなど微塵も感じていないのは分かりきっていた。

 暖かい訳では決して無かったが、ただ無性に、
目頭だけが熱くて、敵わない
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