然らばプリズム



 生温い味噌汁に、マーガリンだけが塗られた食パン。ちぐはぐな組み合わせのそれはまるで朝食のようだったが、私にとってはいつもの夕食風景であった。
 いただきます、と手を合わせ、まずは一口食パンをかじった。どこか足りないその味付けに違和感を覚えるのもまたいつものことで、ジャムを塗っていた頃が懐かしくなる。こんなことなら、最初からジャムの味など知らなければよかったと少しだけ後悔してしまう。贅沢をするお金などないとは言え、ジャムもそのうちに入る日が来るなんて、こうなるまでは思ってもみなかったことだ。ジャムが恋しくなる一方で、味噌汁の具がわかめだけなのにはもう慣れてしまったのだから、人間の適応力とは恐ろしい。

 窓の隙間を縫うように、春風が部屋に吹いた。家賃5万円のこの部屋では隙間風など当たり前で、寒い冬の日なんかは特に苦しめられている。今のうちに節約をして、今年はすこし暖かい布団を買うべきだろうかと考えてみるが、働きもせず貯金を切り崩して生活する現状、そんな余裕はなさそうだ。
 家賃や光熱費、その他もろもろを差し引くと、今月使える分のお金は雀の涙もいいところだ。そんな時に限って冷蔵庫の食材はほとんど尽きてしまった。これは明日にでもスーパーに行かなければ、今月までは持たないだろう。

 嘗て芸能事務所、ESのプロデューサーであった頃を思うと、比べ物にならないくらい平和で、退屈な日々だった。
 現在、忙しくも輝かしかったあの頃から一変した質素な生活を送っているのには、私なりの理由があった。

 ご飯を済ませ、食器を片付けようと立ち上がったとき、ぴんぽーんとインターホンの音が部屋に響いた。言っておくと、格安物件であるこの部屋のインターホンにはモニターはない。だが、確認するまでもなく今の私を尋ねに来る人など、大家さんの他にいないだろう。だとすると、家賃のことだろうか、いや、でも今月はちゃんと払ったはず。それ以外のことで、なにか用事でもあったのか。
 扉の前で考えていると、一向に家主が出ないことに痺れを切らしたのか、再びインターホンが鳴らされる。これは考えるより直接聞いたほうが早そうだと、私はその音に急かされるように扉を開けた。

「すみません、遅くなり、ました……」

 立っていた人物に思わず息を飲んだ。そこにいたのは、パーカーのフードを目深にかぶった怪しい男だった。でも、僅かに覗くオレンジ色の髪が、その人物の正体を雄弁に語っていた。
 絶句する私を見て、いたずらが成功した子どものように彼は笑う。彼の虹彩がきらきら輝いて、星のようだった。

「やっほやっほ!久しぶりだね、なまえ!」

 その人物は、もうテレビでしか見ることのできないと思っていた明星スバル、本人であった。
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