雨が降っていた。雨音が街中に木霊して、オーケストラの演奏のように聞こえる中、街行く人々は浮き足立っていた。あちらこちらで、赤い帽子と服を着て声を張り上げている店員が見られる。

今日は、クリスマスだ。

明治維新を経て日本に再伝来したクリスマス文化。良い子にしている子どもたちにはプレゼントが配られる。イエス・キリストを信仰していないただの日本人が大半だったが、救貧という名目が掲げられたこの文化は大正末期には既に浸透していた。各商業施設はさまざまな販売戦略を駆使してこぞってこの文化に乗っかったのだ。
街が賑わい、人が往来するこの日、惜しむべきは、天気だけだった。ここ数日は、気温は穏やかで日中は晴れ間の出る過ごしやすい陽気だったが、この祝日に限ってとんだ天気となった。凍てつくような北風が肌に刺ささる。

時刻は夜の九時に迫っていた。雨脚が強まる中、ひとりの女が小走りで街をかけていた。
場所は神保町。古書店がひしめく通りを女が走り抜ける。三つ編みに結った髪が揺れ、瓶底眼鏡に雨飛沫がかかる。仕立ての良いコートに跳ねた水がシミを作っても構うことなく女は何処かへと急いだ。
大通りを抜けた裏道に入ると、女は既に息を切らしていた。肺いっぱいに吸い込んだ空気を吐き出し、胸を抑えて呼吸を安定させる。ひとつ息を吐いて、女は前を見据えた。そのまま裏道を今度は歩いて進んでいく。
進むに連れて、人の声が聞こえてきた。
女は声を聞くや否や、早足で道を進んだ。決して走ることはせずに、しかし足早に進んでいく。進んだ先、声が聞こえた方角には荘厳な建物が鎮座していた。
それは、見事な教会だった。その中からは声が聞こえる。高く響くソプラノと地を走るアルトが混ざり合い歌い上げるのは天への賛美。重厚な扉の前で女は肩に乗った雫を払いのけると、ゆっくりと扉を開いた。
降誕ミサは、既に一時間を過ぎていた。
カトリックの三代祝日のひとつだというのに人の入りは年々少なくなっているようで、例年なら御堂に入りきらないほどの信徒の数は御堂に丁度収まる程度だった。

しかし、人の減りは当然のことだ。


第一条 天皇ノ大纛下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス
 大本営ハ戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応ジ之ヲ置ク
第二条 参謀総長及軍令部総長ハ各其ノ幕僚ニ長トシテ帷幄ノ機務ニ奉仕シ作戦ヲ参画シ
終局ノ目的ニ稽ヘ陸海両軍ノ策応協同ヲ図ルヲ任トス
第三条 大本営ノ編制及勤務ハ別ニ之ヲ定ム


つい先月の事だ。大日本帝国陸軍、及び海軍を戦時中のみ、天皇直属の陶酔機関として機能する代位本営。あくまで戦時下のみの設置とされていたこれが、戦時以外の設置が可能とされた。大陸で、支那と睨みあっている現状が背景に見え隠れした。
ひたひたと人の営みの背後から近づいてくる軍靴の音は、まだ世の喧騒に消されている。が、時局なのか、欧米伝来の宗教に不用意に近づこうとする人間は減っていた。

女は一番後ろの席に腰を下ろした。すると、女の前の席に座っていた老齢の夫婦のうち、妻が振り返り柔和な笑みを浮かべた。「災難だったわね」女に聞こえるか聞こえないかの声量で瓶底眼鏡をハンケチで拭いた女を労わった。女は口元を緩めると、首を小さく振る。

「ちょうど良かったですから」

「ちょうど?」と今度は夫が首だけを捻って女を見遣る。女の答えがいまひとつ理解できなかったのか、老夫婦は揃って首を傾げた。
瓶底眼鏡を拭き終わった女は、軽く目配せをしてはにかんだ。

「あとで」

あと、というのは降誕ミサの後に行われるささやかな祝いの席の事だろう。
目尻に皺を寄せて頷いた老夫婦が前を向くと同時に、司祭の説教が始まった。

御堂の隣に備えてある共用スペースに所狭しと長机と椅子が並べられていた。机を彩る、信徒が持ち寄ったであろう手製の料理に誰もが心を躍らせる。例え、世相を読まずに祝いのために集う信徒に目を光らす公人がいたとしても信徒にとっては詮無きことだった。

「水瀬さん、こっちよ」

和気藹々と宴が続く中、着物を着た老婦人が部屋の隅に女を呼んだ。手招きをしてつま先をピンと立てる婦人に水瀬と呼ばれた女は、人込みをかき分けて彼女の元へと体を運んだ。

「藤原さん。主の降誕、おめでとうございます」
「ええ、おめでとうございます。ところで、本当に大丈夫だったの?」

華やかな笑みを浮かべる水瀬に、婦人―藤原―は、愁眉を寄せて水瀬に尋ねた。

「お父様は反対されていると聞いているわ。こんなご時世ですし、今日も来られないんじゃないかと思ったの」

雨が窓を叩く音に、藤原婦人は「外もこんなでしょう」と掌を口に当てた。

女―水瀬鈴―は、東京府立第一高等女学校を次席で卒業後、神田の電話交換局で交換手として勤務している。父親は貿易会社を営み、生糸、屑鉄、鉄鋼など多岐に渡る商材を輸出入する大手貿易商だった。一代で財を成した所謂成金であったが、その経営手腕を買われたのか、懇意にしていた逓信省の高官の娘を娶るなどその地位を政財界で確固たるものとしていた。
そんな中で、ひとり娘が時局を鑑みずに西洋かぶれになることは、父親からしてみれば厄介ごと以外の何物でもない。

水瀬は、くすりと至極可笑しそうに笑んだ。

「父は確かに目くじらを立てていますが、関係ありません。今日だって私、お忍びですから」
「まあ!今ごろ家の皆が心配されているでしょう!」

驚き、不安げに囁く婦人に水瀬はからりと笑った。

「問題ありませんわ。きちんと書き置きだって残していますし、それに後で迎えが来ますから」

勝気な笑みが、女の性格をよく表していた。

水瀬鈴は、少々破天荒な性格で知られている。女学校時代から水瀬は人よりも自由主義的傾向が強かった。知的で、しかし淑やかに座する乙女ではない彼女の気質に、父親も手を焼いていた。時には、教師と面と向かって激しく口論を交わすこともあり、学校でももっぱらの噂となるほどだった。

呆気にとられる藤原婦人を他所に水瀬は辺りをくるりと見渡した。視線を右へ左へ移したのちに、ある一点に見つけたものに口元を緩め、声を上げた。

「香川さん!」

高く良く通る声が呼んだのはひとりの男だった。その声に反応して男が振り返る。彫りの深い顔立ちと、太い眉にぷっくりと厚い唇を備えた、なかなかの美丈夫だった。
香川と呼ばれた体躯のしっかりとした男は水瀬を見ると顔を綻ばせた。

「やあ、水瀬さん。おめでとう」
「ええ、おめでとうございます」

群衆を掻き分けてやって来た香川に、水瀬は小さく頭を下げた。

「良かった。今日は来られないかと思っていたよ」
「藤原さんにも言われましたわ。私、反対されたからと言って家に閉じこもる淑女(レディ)ではありませんよ」
「はは!相変わらず、水瀬さんは活動的だ」

香川の言葉に水瀬は得意げに胸を張った。

時局をよそに、室内は盛況を迎えている。司祭やシスターが用意したささやかな記念品(プレゼント)が配られるとあって、子どもたちは顔を輝かせて彼らの周りに集まった。華の咲いたような笑顔に囲まれ、大人たちは赤い靴下風の袋を分け与える。
クリスマス、にプレゼントは付き物だ。昨今、各種百貨店や商店街で人気なのは、文房具などの実用品のほか、木彫りの玩具などの子どもの関心が行く品だった。
室内では、子どもたちの笑みが満開を迎えていた。あちらこちらで袋の中身を確認した子どもたちが、親に中身を見せては、はしゃいでいる。見てみて!、と裾を引っ張り、抑えきれない興奮を伝えていた。
愛らしい姿に香川と水瀬は目を細め、互いに顔を合わせると思わず口元を緩めて吹き出した。

「微笑ましいですね」
「ええ、とっても。でも、子どもたちにとってはただプレゼントが貰えるだけの日ですけどね」
「それでも良いでしょう。主の降誕なのですから、幼子達が喜びに満ちていることは幸いなことです」

香川の柔らかな眼差しに水瀬は釣られて目尻を下げる。すると、革細工のバッグに手を入れると悪戯っぽい視線を香川に向けた。

「……では、そんな愛らしいお子さんにプレゼントです」

バッグから取り出されたのは、掌より少し大きいくらいの赤い靴下を模した袋だった。水瀬は満面の笑みを浮かべると、香川にそれを差し出す。
香川は、一瞬呆けた顔を直ぐに戻すと、慌てて差し出された品を押し返した。

「いただけません!ウチは水瀬さんに何も用意していないのに」
「あら、私はもう立派な淑女(レディ)ですよ?子どもじゃあないんですから、当然です」
「しかし、それでは僕の立つ瀬がない」
「それなら、私だって用意した甲斐がないわ」

ツン、とそっぽ向いた水瀬に香川は冷や汗を流した。
香川には、子がいる。早くに帰天した妻との子だ。ちょうど、先月二歳になったばかりの可愛いひとり息子だった。
その息子当ての品に初めは断りの姿勢を示していた香川も、水瀬の態度と息子の顔が浮かんだのか、肩を落とすと苦笑した。

「……分かりました。ありがたく頂戴します」

香川の返しに、水瀬は横を向きながら目の端で彼に視線を向けると、一転、ぱっと顔に華を咲かせた。「そうこなくっちゃ!」と、香川に半ばプレゼントを押し付ける。

「必ず渡してあげて下さいね?お手紙も入れているから、読んであげてください」
「約束するよ。ありがとう、水瀬さん」

押し付けられた品を受け取る際に互いの指先が触れ、思わず二人同時に互いを見つめた。頬を薔薇色に染めた水瀬は顔をすぐさま背け、香川も忙しげに頬をかく。ゆっくりと二人は目を合わすと、おかしそうに笑いあった。

盛況を見せた祝いの席も終わりが近づいていた。終わりがけに二人のそばに来た藤原夫妻は、二人の距離を揶揄い、先に帰っていく。香川と水瀬は暫し談笑を楽しんでいたが、ふと水瀬が掛時計を見遣ったことでその時間は終わりを迎えた。
「ごめんなさい、時間だわ」と言った水瀬の顔には影が落ちていた。帰路について門前に立つ父親の顔を思い浮かべたのか、或いはこの時間の終わりを憂いたのか。
水瀬に落ちた影に、香川は何か言いたげに口をまごつかせたが、結局、心に湧き上がった想いを発するには至らなかった。結んだ唇を開いて出てきたのは、形式的な言葉だった。

「今日はありがとう。息子も喜ぶ」
「……いえ、いえ、そう言ってもらえて私も嬉しいですから」

水瀬は健気に微笑んだ。僅かながら、悩ましげに歪んだ眉を見せながらそれでも口元は弧を必死に描いている。その顔貌は年頃の女を表していた。

ホールの熱気がピークに達しているなか、香川と水瀬は玄関ホールへと足を進める。一歩ずつ確実に近づく帰宅に水瀬は大きくため息を吐いた。

「ここまでで良いです」

雨足の強まる屋外に出た水瀬は香川に振り返ると微笑を浮かべて香川を見つめた。
玄関前に来ていた漆黒の乗用車から運転手か出て来たのを確認した香川は、思わず水瀬の手を握った。思わぬ行動に、水瀬は大きく目を見開く。

「本当に、ありがとう。水瀬さん」

「ありがとう」と、一音一音に力を、想いを込めて伝えられた言葉に水瀬は儚げな微笑みを畳み、ひとつ瞬くと穏やかに笑んだ。

「ええ、また今度、香川さん」

傘をさした運転手に連れられ、水瀬が香川の手からするりと抜ける。二、三段の階段を降り、運転手がドアを開けた。
雨音が重厚なオーケストラを奏でるなか、水瀬は再度彼に振り返った。

「お手紙、ちゃんと見てくださいね」

放たれた言葉に、香川は答えようと口を開いた。


――が、開いたままで音を発することはできなかった。


「失礼します」と水瀬が背を向ける。その背を香川は、凝視した。

走り出した車が雨模様の景色に霞んで、やがて消えていった。



「お手紙、ちゃんと読んでくださいね」

「香川大尉」



雨足が強まるなか、水瀬という女の言葉が香川の脳裏で反芻された。



  *




街灯が夜道を淡く照らす。しきりに降る雨が車の屋根で音を奏でていた。

「渡せましたか」

唐突に運転手が声を発した。気取ったその声は運転手という立場に不似合いだが、彼はその声で後部座席に背を預けている女に声をかけた。
女は運転席を一瞥することなく、車窓から広がる闇夜に目を向けながら答える。

「滞りなく」
「彼にとって、とんだプレゼントなのか。それとも僥倖となるのか」

「見ものですね」と口元歪めた運転手は、ミラーで水瀬の横顔を見遣るとくっくと喉を鳴らす。

水瀬の仮面を被った女は、雨足が強まる車外の様子を無言で見つめていた。無機質な表情は、つい四半刻前まで彼女が見せていた相貌とはかけ離れていた。その瞳からは心内はひとつとして読み取ることはできない。香川大尉の前で頬を染め、子どもたちに慈愛の視線を落としていた水瀬という女は、どこかに消え去っていた。

「ところで」と、運転手は女に声をかけた。

「本物の水瀬鈴は、今どこに?」

運転手の問いに、女は、なお視線を合わすことなく紡ぐ。

「自宅の自室の祭壇の前で祈りを捧げているでしょう。父親に偶然にも見つかってしまいましたから」

女の返しに運転手は目を数度瞬かせると、可笑しそうに吹き出した。

「偶然にも、ねえ」

意味深長な視線をバックミラー越しに寄越す運転手と女の視線は交錯しない。女はただ車窓から広がる闇夜とその中に浮かぶ街灯の淡い光を見つめていた。

運転手は、彼女の意識が自分に向かないことを悟ると、その後は何も口にせずただ車を走らせた。途中、ネオンが漆黒を照らす通りを尻目に車は走る。

それは、喧騒がまだ消えないクリスマスの夜の出来事だった。

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